花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

「もとの女」と「高安の女」│伊勢物語

2015-01-31 | アート・文化


伊勢物語、第二十二段は、筒井筒の女である「もとの女」と「高安の女」の話である。二人に挟まれた男は貴族階級の男である。「もとの女」は段の始めにおいて、幼い頃より「井のもとに出でてあそびける」仲と設定されている。身に着けた素養も美意識も同じ、背負う文化も男と共通な「もとの女」にはアドバンテージがある。食事の作法でお里が知れるのは現代も同じであるが、「髪を頭にまきあげて、おもながやうなる女の手づから飯匙を取りて、氣子の器にもりけるを」の描写はそれのみを事挙げしているのではなく、都の男の眼から見た鄙の格下クラスの世界そのものを象徴している。男が別れていったのは、元来住む世界が違うということに改めて男が立ち戻ったからである。生まれ育ったクラスの臍の緒がついたままの男は、結局のところ里心がついたのである。

「手づから飯匙を取りて、氣子の器にもりけるを」というくだりに思い浮かぶのは、平家物語の「木曽義仲」と猫間中納言とのやりとりである。「木曽義仲」は、「高安の女」と同じく本人は知らぬまま、突っ込みどころ一杯の隙を見せて都の貴族から一方的に蔑まれる。しかし彼等は決して惨めで憐れな存在などではない。そこには他人の目などを忖度する暇なくせつせつと一途に生きる実がある。京都美術倶楽部の茶道具展に知人のお供をした若い頃、一度だけ「高安の女」の掛軸を見たことがある。現代的な眼と思いつつも、御飯を盛っている「高安の女」の姿は器から立ち上る湯気の如く暖かであった。

そして「もとの女」といえば、垣間見ている男の視線を知りながら、いやそれ以上に、気が付かぬふりを見せているが本当は知っているという通牒を男に突きつけている。もはや男を繋ぎとめられぬかもしれない没落の中で、離(か)れぬるものに追い縋ることなく、微塵の動揺も見せず毅然と頭を挙げている「もとの女」は勁い女である。これこそ貴族に生まれた女に必須の矜持というものである。この段ほど、間を行きつ戻りつする男が狂言回しに見える段はない。垣間見てあるいは打ち解けた姿を見て、それぞれの女の本性を見たつもりの男には実はなにも見えていない。


《原文》(前略)さて年ごろふる程に、女の親なくなりて、たよりなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内國高安郡にいきかよふ所いで來にけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へる氣色もなくて、出したててやりければ、をとここと心ありて、かかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中にかくれ居て、河内へいぬる顔にて見れば、この女いとようけさうじて、うち眺めて、
かぜ吹けばおきつしら波たつた山よはにや君がひとり越ゆらむ
とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へも、をさをさかよはずなりにけり。

さてまれまれかの高安に来て見れば、はじめこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、髪を頭にまきあげて、おもながやうなる女の手づから飯匙を取りて、氣子の器にもりけるを見て、心うがりて行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方を見やりて、
君があたり見つつを居らむ生駒山くもなかくしそ雨は降るとも
といひて見いだすに、「からうじて大和人來む。」と言へり。よろこびて待つに、たびたび過ぎぬれば、
君こむといひし夜毎に過ぎぬれば頼まぬものの戀ひつつぞふる
といひけれど、をとこすまずなりにけり。      (『伊勢物語』第二十二段、角川文庫)