日清戦争の舞台は多くは朝鮮の中で戦われ、後日朝鮮併合に繋がって行った。日露戦争は、中国の満州で行われた。これは、後日満州国建国という植民地支配に繋がって行った。日本が行った中国、朝鮮への膨張政策がアジア諸国民の解放を目的にしたものでないことは一目瞭然である。当時の大論客である福沢諭吉の数々の言動をピックアップすると、当時の国家戦略の外郭がくっきりと見える。
1894年、福沢諭吉。「今や日本は東洋文明の先導者である。隣国朝鮮の国事を改革し、これから大いにしなければならないときに、図らずも中国人の妨害を受けた。我々は文明開進のため戦うものでその正否は東洋文明の浮沈にかかわる」西員戦争の時福沢は強烈な戦争推進者だった。それより以前の福沢の言動はかくのごとしである。1881年、「日本はアジアの文明の中心東洋のリーダー、アジア保護の要。朝鮮の近代化を強制し、西洋の進出を食い止めなめればならぬ。」1885年「脱ア論。今後はアジアの文明化をするのではなくてアジアとは縁を切って西洋諸国と同じようにアジアを支配しよう。」このごろから、日本国民のアジア諸国への連帯感情急速になくなる。アジア諸国に対する優越感情をあおり、アジア盟主論、正義の戦争論が蔓延していった。2年後、田中正造を不穏なる扇動者として糾弾。(時事新報)「(足尾銅山鉱毒事件に)田中正造は「不穏にわたりあるいは竹槍むしろ旗などの行為を扇動するの口気あるか、または多人数の力を持って他人を脅迫するするがごとき挙動のあらんには、政府は断固職権を持って処分し、一ごうも仮借あるべからず」いうまでもなく、足尾鉱毒事件は銅の産出を急ぐあまり、購読被害は30万人、4万町歩の田畑に及び、現代の福島原発被害に比肩する大惨事。学問のすすめ、文明論之概略の名著を著した福沢翁が意外やアジア侵略の旗振り役だったこと一つを取ってみても、福沢はうまく取り込められたと言うべきかというべきか、あるいはこりこりの西洋崇拝者としてアジア諸国の人々の文明、文化を否定して、西洋の植民地主義を時代の進化とみて日本をこれに比肩する大国にせんと本気に思っていたのか・・・。 福沢等はアジア諸国に対する優越感情をあおり、アジア盟主論、正義の戦争論が蔓延していった。大日本帝国憲法では14-40歳の男子すべてに兵役義務が課され、1890には教育勅語(山懸有朋、井上毅、元田永浮)が記され、「・・一旦緩急あれば義勇公に奉じ・・以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし・・。とされた。日露戦争に反対した与謝野晶子はこう歌った、「ああ弟よ、君を泣く、君死に給うことなかれ」「人を殺して死ねよとて24まで育てしや」
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