田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

市とは人の存在を確かめ合う場である(1)・・・雲南を歩いて思ったこと

2008年01月17日 00時23分01秒 | 平和
 6月はじめ、ふらっと雲南省(中国)を歩いてきました。雲南省といっても「それはどこ?」とおっしゃる方がまだいる(失礼)かもしれませんが、ここは中国の一番南の省で、面積は日本全土とほぼ互角、東からヴェトナム、ラオス、ミャンマーとそれぞれ国境を接し、西北部がほぼチベット高原とつながっています。だから「歩いてきた」というのはウソで、飛んで、降りて、跨いで、かすってきた、その動いているわずかな瞬間に、写真を撮りまくってきたというのが正しい表現です。

 雲南という言葉は何とも冒険心を掻き立てられる名称であることも事実で、私は数十年前から「行きたい」と狙っていた地域でした。少年の頃、「万葉の謎」とかいう本に万葉語(つまり原始日本語)の根元は、雲南の少数民族の言葉と形態類似している、つまり日本人のルーツは雲南であるというまことしやかな学説を読みこれにに胸をときめかしていたこと、写真で見る雲南の少数民族の(実に26もの民族が住みわけているという)あでやかで可愛らしいこと、それに彼らはそれぞれの風土に合わせて素晴らしい農業をしている、また段々畑・棚田の景観がすごいことなど「あとで聞いて」いたことなどで「行きたい」という思いが重なっていました。これはシルクロードと共に、私の宿題でした。

 地図で見るように雲南の首都は昆明です。昆明は年中暖かく、しかも湿度も高くなく快適な気候であると本に書いてありました。しかし雲南は亜熱帯から 高山気候までまるですべての気候帯を保有する多様性を抱えている土地であります。この点は日本列島にもある程度似ているといえそうですが、大陸と島国という違いが根底にありますから、民族の多様性という点ではまるで違います。
 雲南省には漢族を除く25の少数民族があり、小さいものは5000人そこそこであります。それらの民族が、集まったり散ったり、戦乱に巻き込まれたりを繰り返しながらも、それぞれのアイデンティティーをもって「永らえて」いるのです。この歴史にはたっぷり情報がありそうではありませんか。というわけで、雲南省を3カ所ばかり「かすって」きました。

 昆明市(省都)と西北の奥地の麗江市、大理石の産地である同じく西北の奥地の大理市です。後者の2つのエリアはメコン川と揚子江の源流域なのです。アジアの二大河川である両河は、山を隔てた近距離にその源流があり、それはチベットに近く、民俗学者、中国旅行のリピーター達、山歩きの人たち、及び地質学者達を捉えて放さないエキサイティングなところであります。

 昆明に行くには大阪からJASを使います。4時間我慢すれば着きますから行くのは簡単です。しかし山奥に行くには少々決心が要ります。それに「懐具合」も勘案する必要があるでしょう。西北の奥地は標高は4000メートルを超える山がつらなり、その谷間には先の河川の激流がほとばしり、岩肌が荒々しく剥きだしているところも随所にあります。町並みも2000メートルを超える平地にあり、空気が希薄で少々息苦しさを覚えるほどです。
 この地域は素晴らしい「吹き溜まり」つまり人々の生活史が臭い、幾千年も形成してきた農の景観が誇り高く聳え、それが市という形で商の都市景観を作っています。明王朝時代から続いている都市景観は息を呑みますが、そこはまさに吹き溜まりですね。その景観は幾千年同じように繰り返されてきたのであろうと思われる原始的な物々交換もあり、独特のにぎわいを見せています。市にはすべての老若男女が「参加」し、その周辺が教育の場所、恋愛やお見合いの場所、信仰行事の場所となります。「市」とは人の人として生きる場所、存在を確かめる場という意味合いがあります。   (つづく)




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