グローバリゼーション(国境を取っ払い誰でも自由に商売できるようにしましょうということ)がやかましく叫ばれる今日です。詰まるところ、ドルというアメリカ合衆国の紙幣、つまりアメリカ政府の信用が世界の隅々まで価値の基準である経済システムにしましょうということです。
私は農業にそんな経済学を適用できるとする考えはまことに愚かしいことと思っているのですが、そんな目で雲南を歩けば面白い事象にたくさん出会います。このことは数年前に出かけたシルクロード地方(新彊ウイグル自治区)でも強く感じたことでした。
雲南のナシ族という、人口28万人の少数民族が集中的に住む北方のある地域にも町と邑(むら)があります。この地域は、チベット・シナ語族の言葉の他独特の近年まで象形文字(東巴文字)を有し、チベット、中国、それに彼ら固有の東巴文化とラマ教・道教・仏教を融合した文化を誇ってきたところです。近年、イギリス作家による「失われた地平線」という小説に描かれた理想郷であるシャングリラとはこの近傍(少し奥地の中旬という町)をいうそうです。
雲南省は亜熱帯地域に属しながら高山地帯から低地地帯まで含み、大小の山脈が複雑に絡み合い、地形は起伏に富み、さらに西北からはチベット高原からの涼風を受けるという、雨もほどほど、温度もほどほど、湿度もほどほどという快適、温暖な気象条件を構成している地域です。時に大地震が襲うこともあるそうですが、台風のような暴風雨が襲来することもないそうです。
今説明しているこの地域(麗江市周辺)は海抜2400m、周辺は5000~6000m級の山脈に囲繞され、かつ河川もあちこちに湧水を形成しながら、谷間を縫い雲南各地をダイナミックに蛇行しています。ついでながら一帯は揚子江の中流部であり、時には巨大な山岳に挟まり、激しく蛇行する流れに沿った傾斜の激しい山間に、集落は中腹に散在し、わずかな区画の畑が作られていました。
田畑は農家周辺に階段状に拡がり、作物は驚くほど多様です。無数の棚田と棚畑が強い太陽光に映えて展開しています。土地はすべて美しく利用され、寸土の無駄はありません。最新の品種をそろえていませんが、畑にはおそらく郷土種の作目が交互に作付けされているのだと思いました。人々の主食は米とトウモロコシ、そして小麦も大豆もしっかりと位置を占めているようでした。
家畜の種類も多様です。水牛、豚、ロバ、馬、黒い肌をした山羊や羊、鶏やアヒルなど、多様性のバランスも良いようでした。これらの家畜の姿は至る所に見られますが、日本のようにえさを購入して与える畜産ではなく、残飯を与える家畜飼養であることは明らかでした。
こういう姿を見ると、人間が土地を所有するという、浅ましい現代経済学の前提概念ではなく、土地が人間を所有するという前提概念で全く違った経済学を構築すべきではないかと感じた次第です。こういう土地に抱かれた人間は近代文明の恩恵に浴していなくとも、いや浴していないがために、自然や環境に対する素直な気持ちや心の豊かさを持っているのではないでしょうか。それが文化という心のピラミッドに結晶するのです。
文化を失い、精神・心に病理を作っている近代文明の治療には、雲南の人々のような生き方が大いなる示唆を与えてくれるのではないでしょうか。(つづく)
私は農業にそんな経済学を適用できるとする考えはまことに愚かしいことと思っているのですが、そんな目で雲南を歩けば面白い事象にたくさん出会います。このことは数年前に出かけたシルクロード地方(新彊ウイグル自治区)でも強く感じたことでした。
雲南のナシ族という、人口28万人の少数民族が集中的に住む北方のある地域にも町と邑(むら)があります。この地域は、チベット・シナ語族の言葉の他独特の近年まで象形文字(東巴文字)を有し、チベット、中国、それに彼ら固有の東巴文化とラマ教・道教・仏教を融合した文化を誇ってきたところです。近年、イギリス作家による「失われた地平線」という小説に描かれた理想郷であるシャングリラとはこの近傍(少し奥地の中旬という町)をいうそうです。
雲南省は亜熱帯地域に属しながら高山地帯から低地地帯まで含み、大小の山脈が複雑に絡み合い、地形は起伏に富み、さらに西北からはチベット高原からの涼風を受けるという、雨もほどほど、温度もほどほど、湿度もほどほどという快適、温暖な気象条件を構成している地域です。時に大地震が襲うこともあるそうですが、台風のような暴風雨が襲来することもないそうです。
今説明しているこの地域(麗江市周辺)は海抜2400m、周辺は5000~6000m級の山脈に囲繞され、かつ河川もあちこちに湧水を形成しながら、谷間を縫い雲南各地をダイナミックに蛇行しています。ついでながら一帯は揚子江の中流部であり、時には巨大な山岳に挟まり、激しく蛇行する流れに沿った傾斜の激しい山間に、集落は中腹に散在し、わずかな区画の畑が作られていました。
田畑は農家周辺に階段状に拡がり、作物は驚くほど多様です。無数の棚田と棚畑が強い太陽光に映えて展開しています。土地はすべて美しく利用され、寸土の無駄はありません。最新の品種をそろえていませんが、畑にはおそらく郷土種の作目が交互に作付けされているのだと思いました。人々の主食は米とトウモロコシ、そして小麦も大豆もしっかりと位置を占めているようでした。
家畜の種類も多様です。水牛、豚、ロバ、馬、黒い肌をした山羊や羊、鶏やアヒルなど、多様性のバランスも良いようでした。これらの家畜の姿は至る所に見られますが、日本のようにえさを購入して与える畜産ではなく、残飯を与える家畜飼養であることは明らかでした。
こういう姿を見ると、人間が土地を所有するという、浅ましい現代経済学の前提概念ではなく、土地が人間を所有するという前提概念で全く違った経済学を構築すべきではないかと感じた次第です。こういう土地に抱かれた人間は近代文明の恩恵に浴していなくとも、いや浴していないがために、自然や環境に対する素直な気持ちや心の豊かさを持っているのではないでしょうか。それが文化という心のピラミッドに結晶するのです。
文化を失い、精神・心に病理を作っている近代文明の治療には、雲南の人々のような生き方が大いなる示唆を与えてくれるのではないでしょうか。(つづく)
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