田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

嗚呼、田園調布、ここにも縄文の世紀があった

2007年11月12日 12時39分57秒 | 愛・LOVE・友 
写真を見て下さい。実は初公開です。これは土偶といわれるもので、顔面が欠損していますが、ほぼ完璧に原型を保っており、いまから3千年ぐらい昔に作られたとされるものです。私は45年前にこれを発見し家で保管していました。その理由はこれから述べましょう。
土偶は宗教的な儀式に使われたとされる人形あるいは動物像で縄文期(約一万年)だけにみられる石器時代の遺物です。土偶と埴輪と混同される向きがありますが、それは年代的に全然違うもので埴輪は紀元後の古代国家成立後に作られたものです。土偶には、サイズ、形で色々なタイプがありますが左のような非破壊の筒型のものは事例が少なく(全国で数例)貴重な学術史料だと思います。

多摩川河畔に7000年前から絢爛たる縄文文化があった

渋谷から東急東横線急行で約15分、田園調布駅か次の多摩川駅で降りて南に歩くと程なく東京都と神奈川県を分ける多摩川のほとりに出ます。武蔵野の台地が多摩川に迫る田園調布の地はゆるやかにうねる丘陵になっています。丘の上には松やあらかしなどの雑木林が発達し、開けた場所から眼下に雄大な多摩川の流れを、遠方には富士・丹沢・箱根の連山を一望にすることが出来ます。
一帯は多摩川台公園として整備され前方後円亀甲山古墳をはじめ多数の古墳があり埴輪などが多く出土しています。4~7世紀の昔、田園調布の地は武蔵国荏原郡と呼ばれ、豪族が支配していましたが、江戸期に入って多摩川の沖積地は灌漑水路を張り巡らし水郷農村となりました。一帯は崖線ぞいに湧水があり、今でも水路にはコイが放魚され小魚が遊んでいます。
田園調布は洪積台地にあり展望がよく、豪邸の建ち並ぶところとして喧伝されていますが、それまでは下沼部村といわれる純農村で、多摩川辺の沖積地には稲作、洪積台地には麦・桑が作付けされていました。多摩川は清流で名高いばかりではなく豊穣の川でした。古老によれば白魚が足に当たって徒歩で渡るのに苦労?したといわれるぐらいでした。(続)

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