昭和48年に知り合った藤井先生は私より10数年年長、白十字病院の薬局長を勤められた後、南伊豆の農家の廃屋を買い取り、小旅行と文筆に日々を過ごされていました。
先生と親しくなれたのは、患者のための緑の効用、病院造園についてのお話を伺ったからでした。
先生は若き日に8年間も結核を患われ、毎日病室から病院の木立を眺めていたそうです。そして考えられたことが療養と緑の関係についてで、これを深く考察された文を多く世に出されました。
「これが人生を終えるものの療養造園付きの住まいです」「このあばら屋が、終の場所として私の理想としているものです」と言って先生は下賀茂の庵をご説明されました。
ここは数百坪の竹林と放棄された谷地田を見下ろす場所に70年前に作られ母屋がある廃農家でした。先生は病院を退職する10年前に竹林と谷地と共に購入したといわれました。
農家の母屋はトタン張り、囲炉裏付きで往時のままでした。ここに連結して先生が手を加えた改造台所、2階には書斎兼寝室がありました。家屋の各所にはすき間も目立ち、先生の手で要所は修理され絵に描いたような質素な建屋でした。
広い庭(といっても竹林と谷地)には、母屋を野球のホームベースの位置とすると、数十㍍先の三塁ベース、谷の中の二塁ベース、その各位置にガラス窓を持つ廃材で出来た2-3坪の手作り小屋があり、母屋と回廊で行き来できるようになっていました。2つの小屋はサンルームで長いすが一基、小さな飲み物台が置かれ、回廊にはハンモックが釣ってありそこでも憩えるようになっていました。
先生によれば毎日日照を求めて小屋を順番に移動し、そこに居ることで窓から四季の自然を眺めるのだそうです。自然の植物、造園植物、野菜類、小鳥、獣たちとの同じ目線で自らも弱い生物としての暮らし方を実践するというのでした。(続)
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