田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

230415 勝手に描いたミュージカル脚本(継続中) 

2023年09月30日 06時55分16秒 | 愛・LOVE・友 

じいじの話・・金魚姫

黄門さまは、漫遊記でな、ある時博多に足を踏み入れたのじゃ。そこにな、じっと田んぼを見つめている老侍の姿を見て話しかけたのじゃ。君は何をしているの?とね。」

その男が言った。「嵐が来る、早く取り入れなくちゃ」

上空を見ると不穏な風と雲の動きがあった。男は農民たちにあれこれ指示をして台風に備えるように言っていた。あとで聞いたらこの男は農学者の宮崎安貞だった。早速その晩、黄門さまは身分を隠したまま、安貞と語らい安貞が農書を綴っていることを知った。それを覗くと、新しい芋の育て方など綴られていた。黄門さまはショックを受けられて、お連れの佐々宗純(助さん・・助三郎)に、ひそかに安貞の農書の序文を哲学者の貝原益軒の兄の楽軒に書いてもらいなさいと指示した。

すっかり打ち解けた安貞はこう話し始めた。

「私はしがない下級武士ですが、それゆえにいろいろなうわさ話を聞きます。

肥後の五木村に子守の少女の悲しい物語がありますが、これの結末が不明なのです。その子守奉公の少女が口にしていたのは美しくも悲しい唄ですが、なんとそれは朝鮮の歌らしいです、ここ九州には一衣帯水の朝鮮の人々が拉致されて来ることが多いのです。」(注・・日本の民謡には五木の子守歌のような3拍子の歌がない、朝鮮にはあるというのが専門家の説)

秀吉が朝鮮を攻めた頃、倭寇にも協力させて腕のいい焼き物職人などを一族共連れてきたのじゃ。その頃九州は大名たちが競って石高を増すために水田を開発していたんじゃな。黄門さまは五木の話を聞くと助三郎に命じて真偽を確かめてこいと五木に行くように命じたのじゃ。助三郎は五木から帰ってきてこう黄門様にこう復命した。

助さんの語り

『ご隠居様、報告します。今から数十年も前、唄の素晴らしく上手な子守の少女がいましたがある日忽然と姿を消したそうです。どうやら乞食の姿をして海に向かって足を運んでいったらしいと噂が立っています。ところで関係するかどうかわかりませんが、南の方でこんな噂話が広がっていました。

 

同じような時期、前田何某という若い男が、指宿の海岸で波の音に交じって不思議な音声を聞きました。目をこらし、耳を凝らしながらその音源をたどりますと、なんと年端も行かない少女が少し震えながら低い声で唄を歌っていました。

はて、この唄のリズムはどこかで聞いたかな?それはどこだったかな?とこの青年は少女に近づき声を掛けると少女は力なく頭をもたげましたが、その目は美しく金魚のようにキラキラ輝いていました。

少女は腹をひどく空かしている様子が見えました。君はどこから来たのか?と青年は聞くと少女は弱い声で「あっち」と言って遠くの山の方を指さし、どこに行くのと聞くと「こっち」と言い暗い海を指さすのでした。青年はおなか空いているのだろ?といい、自分が一人で住むぼろ家に少女を案内し、これを食べろと言って畑からトマテと言う不思議な野菜を採ってき、さらに焼いたお芋を出しました。(注・・日本人が初めて食べるトマトと薩摩芋でルソンや種子島を経由してきたものでした。)少女はそれをむさぼり食べました。

 

秀吉公の時代、肥後や薩摩、長崎、唐津、博多などの港へルソンや琉球、対馬、済州島などから物資を運ぶ河野覚平衛という回船問屋がいました。少女と出会ったこの青年は船に雇われた釜炊き、メシ炊きでした。彼はルソンや種子島から芋のタネをもらい自分の畑に植えていました。

(注・・実はこの青年は年を経てトマトとさつまいもを各地に広げた人、その名声は宮崎安貞の力で、ゆっくりと時を重ね吉宗の世にまで届き飢饉を救うのでした。)

自分のことを語り始めた少女は青年に打ち解けてこう話しました。私は父も母も朝鮮に残し連れてこられたの、そしてあの山の向こうの五木村に売られました。“あん人達はよかし よかし よか帯、よか着物”を着ていた人々なのに・・私はいつも裸足で ぼろをまとい、お腹も空いて・・耐えられません、そして“盆が早う来りゃ 早う(逃げ)戻り“たいと思いここまで逃げてきたの。

少女は青年にしがみついて、目にいっぱい涙をためてこう言いました。

「なんということ!」青年はこれに憤然と怒りました。彼は草笛の名手でもありました。少女のとびきりの美しい子守歌に寄り添うように草笛で伴奏し少女を慰めました。そしてこれが奇縁となり青年はこの少女を自分の村に滞在させたいと思ったようです。

 

青年は数えて19歳、少女は自分の年齢を知らないらしく15歳ぐらいに見えていたと言います。青年は回船で時々海に出るので少女にはトマトやさつまいもの作り方を教え、近所の人にも協力を頼み少女がこの地、指宿で落ち着くようにさせました。

そして1年、2年が過ぎ、少女はますます美しくなり、声も妖艶に磨かれ、嬉しそうに彼に寄り添うようになりました。青年も少女のあまりの可愛さと美しい声に夢中になり「もうこの子を離さない、ここに泳ぎ着いてきた金魚、そうだ金魚姫と呼ぼう」と強く心に誓いました。

 

青年は金魚姫に言いました。種子島で、オレはさつまいも食べて、こんなおいしいものはない、これを持って帰って自分の畑で育てたいといいました。そうしたら島民がこれはいくつかに切って畑にただ植えておけばよいとさつまいもを10ケばかり分けてくれた。でも畑で葉は大きく育ったが、さつまいもは全然できない、なぜ?と悩み、えいと苗を引き抜いてみるとなんと立派なさつまいもがぞろぞろと重なって土から這い出してきた。そうか、芋は土の中で育つのだ、青年は腹を抱えて笑い、悟ったのだということです。そうして今はトマトに夢中になっているそうです」(注・・この時が、日本にトマトやさつまいもを広げる最初のきっかけになった)』

夫婦相和し・・風に向かって

助三郎は黄門さまにこのように語り終えたのじゃ。助三郎はこうも言った。おそらくこの青年は船乗りをやめ金魚姫と2人で年を重ね、夫婦相和してお百姓してきた。薩摩は台風銀座じゃ。青年は海に出、そして薩摩の地で風に向かって立つレオだった。コメとか麦では危ない。風が吹いても澱粉を確保せにゃ。そう、地下で採れるさつまいもが重要になっていったのじゃ。薩摩の芋焼酎などの名品もこの船乗りが考案したのかも知れんな。いいかね、この船乗りとこの女房、金魚姫は二人して支え合って、風や雨で幾度も挫折を繰り返しながらトマトやさつまいもを九州に広げる大殊勲を立てたのじゃ。きっと藩主からも大きなご褒美に与っただろうな。ノーベル賞どころの話じゃないな、当時としてはね。

そうそう、黄門さまは丁寧に金魚姫夫婦のお話を聞き取ると、再び助三郎にこう命じた。

「この二人の話が宮崎安貞に繋がり、農書がやがて京、浪速や江戸にも伝わるかも知れぬ、是非水戸の西山荘にも二人を招んでな。助さん、水戸農学のためにも働いてくれ。そしてよろしければな、二人はすでに高齢者になっているだろうが水戸でゆっくりしていってと言ってほしい」とな。

 

どうじゃ、縁は奇なものじゃだろ?

そして人生は浮き沈みがあっても前を向いて明るく戦えば素晴らしい未来に出会えるという教訓だな。(終わり)


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