常陸太田市にある西山荘周辺の歴史探訪に出かけた
はつらつ百人委員会の行事で地元再発見歴史探訪のツアーだった
「西山荘」は「水戸黄門」で知られる,水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後 元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所だ
光圀公はここで『大日本史』の編さんに当たりました
建物は華美を嫌った光圀公の意向により茅葺き平屋建て、内部は粗壁のままで、どの部屋にも装飾はなく、 書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まいだ
西山荘に入園、「桃源」と呼ばれる園庭は見事に整備されていた
入園ししばらく歩くと西山荘が見えてくる
ここで西山荘の屋根に何か植えてあることに気付いた
これまで幾度となく訪ねている西山荘、これまで気づくことはなかった
あやめ似の植物は「イチハツ」と言うそうだ
イチハツの語源は、アヤメ科の中で一番早く咲くという意味だと
しかし実際の開花は「シャガ」よりも半月ほど遅れるそうだ
茅葺き屋根を締めたり大風から守ると云われてて光圀公は領民にも植えるよう薦めたようだ
さきの改修時、イチハツを植えるか植えないか文化庁との間で論争になり約半年も工事がストップしたと
文化庁の言い分は元の西山荘に本当にイチハツが植えてあったのかと
西山荘側では必死に資料を探りその事実を発見、植えることができたそうだ
ツアーでは西山荘から「義公廟」(水戸黄門の資料などが納めてある)に向け山道を進んだ
義公廟を過ぎ、坂を下ると「久昌寺」があった
久昌寺を参拝、出発地点まで戻る約2km、2時間のツアーだった
はつらつ百人委員会の行事で地元再発見歴史探訪のツアーだった
「西山荘」は「水戸黄門」で知られる,水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後 元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所だ
光圀公はここで『大日本史』の編さんに当たりました
建物は華美を嫌った光圀公の意向により茅葺き平屋建て、内部は粗壁のままで、どの部屋にも装飾はなく、 書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まいだ
西山荘に入園、「桃源」と呼ばれる園庭は見事に整備されていた
入園ししばらく歩くと西山荘が見えてくる
ここで西山荘の屋根に何か植えてあることに気付いた
これまで幾度となく訪ねている西山荘、これまで気づくことはなかった
あやめ似の植物は「イチハツ」と言うそうだ
イチハツの語源は、アヤメ科の中で一番早く咲くという意味だと
しかし実際の開花は「シャガ」よりも半月ほど遅れるそうだ
茅葺き屋根を締めたり大風から守ると云われてて光圀公は領民にも植えるよう薦めたようだ
さきの改修時、イチハツを植えるか植えないか文化庁との間で論争になり約半年も工事がストップしたと
文化庁の言い分は元の西山荘に本当にイチハツが植えてあったのかと
西山荘側では必死に資料を探りその事実を発見、植えることができたそうだ
ツアーでは西山荘から「義公廟」(水戸黄門の資料などが納めてある)に向け山道を進んだ
義公廟を過ぎ、坂を下ると「久昌寺」があった
久昌寺を参拝、出発地点まで戻る約2km、2時間のツアーだった