今日も、文字や言葉について、一寸古くなりますが、
私の会社は、すべての階層について、教育制度がほぼ確立していました。
私は、二十五歳から三十二歳まで、新入社員の教育を担当していました。
ある年のね大学卒の新入社員は十三人でした。
教育期間は、集合教育が一カ月、二か月は配属先で実務を学びます。
教育の一環として、実習日記を書かせていました。
この日誌は、集合・配属先とも続け、教育係と職場の上司が目を通し、
コメントすることになっていました。
さて、一箇月の集合教育が終わったので、皆を連れて飲みに出かけました。
新入社員たちは、集合教育の緊張から解放されて、良く飲み良く食べ、
良く喋り良く歌いました。
次の日の実習日誌には、勿論「ご馳走様でした」は、全員に有りましたが、
なんと「眠い」の多かったことか・・・
私は「眠いは間違い、睡いと書くべき」とのみコメントして、日誌を返しました。
その日、配属先の上司が目を通し、この「眠いか睡いか」で議論になったと、
後で聞きました。
実習生は、次の日の始業前、ぞって私のコメントはおかしいと言って来ました。
「辞典を見ても「眠い」「眠気」だけで、「睡い」「睡気」は有りません」と。
私は、得たりとばかり、
「ねむい」を眠いと書くのが正しいと思うのは、今までそのように
使われてきたからと、辞書を見ても、それしか載っていないのが理由だね。
しかし良く考えてみよう、「睡眠」は、睡くなって眠るとしたら、一目瞭然。
睡は目偏に垂れると書くだろう。
この目を瞼として、上瞼が垂れる と読みかえれば、「ねむい」に最も
正しい漢字だと理解できるだろう。
「睡魔」「爆睡」「昏睡」等、ねむい状態を表す熟語だと理解できないか
「辞書の中身は正しくて、私の言うことは間違いだと言うなら、
君たちは、まだ学生気分が抜けていないからだと思う」
「学生時代は、教授の言うこと・教科書や参考資料は正しいと信じ、
それを記憶し、各種の試験に合格し卒業した」
「しかし、社会取り分け会社は、そんな人間を求めてはいない」
「先輩の言うことを信じ、技術資料を鵜呑みにするような人間を、
コピー人間という」
「会議で、自分の意見を持たず或いは持っていても、採決になると賛成の
拍手をしている人々を、軽蔑して「叩きや」と言う」
どちらも、考えることを怠っているとは思わないか」
「考える、疑問を持つ」これが出来ない者は、企業人とは言えない」
「言うなりになる社員ばかりの会社は、発展しない道理だよ」
一か月の集合教育が終わって、配属先で実務教育を受ける新入社員への、
はなむけの言葉は、一寸インパクトが強すぎたかな?