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河村亮は、A大の大ホールの中に居た。
ステージから、誰も居ない客席を見渡してみる。数百人は入れる規模のホールだ。
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昔、こんな会場でピアノを弾いたことがあった。
大きなコンクールなどは、決まって大きなホールを貸し切って行われていたからだ。
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数百の座席が埋まっていた会場でだって、緊張などしなかった。
自分の内部から溢れるように出てくる自信が、彼の演奏を神童と呼ばせるまでに高めていた‥。
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亮は厳しい視線を、客席からステージ上に置いてあるピアノに移した。
見るからに良い音を奏でそうな、グランドピアノだ。
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亮は無言のまま、ピアノの前にじっと佇んだ。
光沢のあるそれは、ホールの明かりを反射して鈍く光っていた。
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いつだってピアノを前にすると、何か見えないものに惹かれるように吸い寄せられて行く。
亮は切なそうな眼差しをその白と黒の鍵盤に落とすと、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
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するといきなり亮の背後から、関係者らしき男の声が掛かった。
「勝手に触らないで下さい!」
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亮は伸ばした手をサッと引っ込めると、そのまま手を上に上げた。
声を掛けて来た男は、小さく舌打ちをしながら近づいて来る。
「あ~まったく‥何なんですか」
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男は亮を見て、溜息を吐きながら注意を続けた。
「いくら志村教授の個人的な生徒さんでも、勝手に触られたら困ります」
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取り付く島もない男の言葉に、亮は手に持った楽譜を翳して見せながら、
「ただのお使いよ、お使い」と軽い調子で言うも、話にならないとばかりに男は首を横に振った。
「お使いって何ですか。自分の練習室に戻って下さい」
「へ~へ~。小言は一小節だけで済ましてくれよ?」
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しかし亮は諦めない。そう言ってから本当に少し弾き始めてしまった。
男はじっと亮がピアノを弾くのを見つめていた。昔の記憶が、脳裏の片隅から浮かび上がる‥。
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あの、と男は亮に声を掛けた。
「以前、コンクールであなたを見たことがあります。高校生の時か中学生の時か覚えてませんが、
すごく上手に弾いていた‥」
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突然昔のことに言及され、
亮は不信感を露わにした表情で「ああ‥」と曖昧な返事をした。
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すると男はジェスチャーで亮の退室を促しつつ、彼に適当なエールを送った。
「どんな事情があったか知りませんけど、とにかくまた上手くいくよう応援してますよ」
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亮は曖昧に相槌を打ちながら、そのまま大人しく退室した。
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ホールの厚い扉が閉まると、心の中が急に苛立ちに騒ぎ始める。
そうだよな‥覚えてる奴が居ないほうがおかしいじゃねーか!
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亮はハッと吐き捨てるように息をつくと、そのまま大股で廊下を歩いて行く。
オレ一人だけが、時間の中に置いてけぼりにされて‥。
覚えてたからって何になる?あんなダサくてグランドピアノを見てはヨダレ垂らすような奴が、覚えてたからって‥
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亮の脳裏に、そっけない態度で自分に退室を促した男の姿が思い浮かぶ。
てか本当に手伝わされて来たんだっつーの‥。なんで泥棒扱いされなきゃいけねーんだ‥
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苛立ちは募り、いつしかそれは怒りに変わった。
グランドピアノ‥弾いたことねーように見えっか?クソッタレ‥オレはー‥
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亮の脳裏に、昔の記憶が鮮明に蘇った。
ボウタイを結び、タキシードを着て、数百人の前で演奏を終えた。
拍手が、豪雨のような音を立てて降り注ぐ‥。
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過去の栄光が、亮を縛って離さなかった。
そして記憶の海から、高校時代の記憶の一片が浮かび上がる‥。
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<忘れ去られたピアニスト>でした。
少し短め記事で失礼しました~。
次回から<河村姉弟>カテゴリの記事が続きます~。
次回は<亮と静香>高校時代(5)ー壊れたピアノー です。久しぶりだな~^^
*河村姉弟カテゴリの記事に、副題つけてみました。合わせてお楽しみ下さい♪
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小言を歌に例えてます。
それにしてもこの反応は静香っぽいですね。
ただの話かけ&応援なのに何故イラっとするのかな。
なるほど‥「小言は一小節で済ましてくれ」という意味合いってことですかね?
なる~!修正しておきます!
まあお亮さんの場合、平たい顔族のなかで、骨格とか顔とか立体感溢れる造りだったから目立つということもあるのでしょうが。
しかしCitTさんの言うとおり、このひねくれた反応は静香に似てますね。
しかしまあコンサートホール用のピアノですから、やっぱり勝手に弾かれそうになったら一般的に注意はされちゃいますよ。
その後ちゃんと応援してくれててこいつ結構いいやつだったんだなとむしろ見直しました。
平たい顔族‥!むくげさんもテルマエの愛読者なのですね~^^私も全巻持ってます。
おっと脱線‥。
確かにここの亮さんはひねくれちゃってますねぇ。
あの「さっさと出て行け」的なジェスチャーが癇に障っちゃったのかもですが。。