てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

手倉森監督のすごいこと

2016年02月01日 21時53分24秒 | 【ヒゲ親父】評論的な・・・
いや~すごかったねサッカーU-23日韓戦。
日本歴史的大逆転痛快でした!

(拝借

そして選手も凄いが、
監督の手倉森さんの凄さですよ。

(拝借
それしこの人のエピソードがオモシロイね。

(ウィキより)
住友金属時代はパチンコなどギャンブルに明け暮れていたといい、酷い時にはパチンコ店に手倉森を探しに来たジーコの目から逃れるため、パチンコ台の下に隠れたこともある。鹿島から戦力外通告を受けた1992年暮れには、やけになって中山競馬場に足を運ぶが、全財産を2日で使いきってしまった(なお具体的な金額については諸説ありはっきりしない)。結果として無一文となったが、翌1993年にNEC山形サッカー部(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍(ちなみにこのことを教訓に、以後ギャンブルはきっぱり止めた[5])。1995年に引退した。

同世代だから余計に応援したくなるわ。

そのうち、日本代表監督になってくれ!

【ヒゲ親父】
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ブラオイラ#85(小立野五木寛之編)

2016年02月01日 20時21分42秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
作家五木寛之氏が金沢大好き人間ということは昔から知っていた。

(拝借
ただし小説は読んだことがなかった。

(ウィキより)
五木 寛之(いつき ひろゆき)は、1932年福岡県に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡る。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが混乱の中で母死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。
1952年に早稲田大学第一文学部露文学科に入学したものの生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らし、1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。またこの頃に父を亡くす。
大学抹籍以降、業界誌『交通ジャーナル』編集長、ラジオ番組制作、PR誌編集などを経て、テレビ工房に入り、CMソングの作詞や放送台本を書き、ABC賞などを受賞。
1965年には、石川県出身の岡玲子と結婚、夫人の親類の五木家に跡継ぎがなかったからか五木姓を名乗る。
1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を旅する。帰国後は医師をしていた夫人の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活する。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした『さらばモスクワ愚連隊』により、第6回小説現代新人賞を受賞、続いて同作で直木賞候補となる。1967年にソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇『蒼ざめた馬を見よ』で、第56回直木賞を受賞。同年『週刊読売』連載したエッセイ『風に吹かれて』は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達した。1969年には雑誌『週刊現代』で『青春の門』掲載を開始した。1970年に横浜に移る。


五木氏の書籍は1年ほど前に買った「五木寛之の金沢さんぽ」くらいである。


中身をチラリと


へぇ~


まぁ、ヘビー級の金沢好きということは理解できた。


そして先日「自分という奇蹟」という本を買った。

辛い時には少し元気が出る本です。

ブラオイラ#80(寒風の石引町編)で、五木寛之氏のゆかりの地を巡らなかったことに後悔をしていた。


だからせひ行ってみたかったので、
土曜の夜の兼六園ライトアップ編の後で行ってみたのだが、
暗闇の中で写メ撮ったりしてるオイラが、
まさに不審者その者だったのですぐさま立ち去った。

・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・


なので、翌日の日曜リベンジで行ってまいりました。

午前中は天気が良かったものの所用があったので午後からのお出掛けさ


「自分という奇蹟」の本を開いてみましょう。

ふむふむ



小立野ですね。



東山荘ですか。


あれですな。


おぉ~東山荘です。


1965年(昭和40年)ですから、相当古いですよ、よく残ってるなぁ~
オイラ生まれる前で50年以上も前となる


2階の一番奥の部屋に住んでいたとあるから

どっちかです(おそらく右側)

50年前にあそこから顔を出したのかなぁ・・・


今では偉大な大作家が若かりし頃にあそこに夫婦で住んでいたんだね。


アパートの裏手に廻ってみます。


ここは小立野台地のまさに縁になります。


台地から降りる坂道が続きます。


裏から見る東山荘


東山荘は、旧金沢刑務所の裏手にありました。

右手の建物が昔金沢刑務所があった地ですが、今は大学の施設です。


石引通りに出てみます。


ここに五木氏が本を借りていたというお店があるのです。

(「五木寛之の下宿探訪記」より抜粋)
…石引通りの道に面して、橘書店という小さな貸本屋があった。五木さんは頻繁にこの店へかよい、本を借りて帰った。店の奥に中年のおばさんが座っている。五木寛之さんが、よく来られたそうですが、と訊ねると、「ええ、あれはいつ頃でしたかねえ、よく覚えていますよ。毎日のように来てくれまして、こんなに小説本を(と、十冊くらいの高さを示して)1度に借りて行くんですよ。多いときは、お昼まえに借りて、それを夕方にはもう返しに来られて…」、おばさんの眼には、最初、学生にしては老けて見えるし、それにしても余程何もすることがないヒマな男に思われたそうだ。五木さんはいつも下駄履きで店内に現われた。店の前にある銭湯「亀乃湯」の帰りなのか、濡れた手拭をぶらさげている日もあった。…」、とも書かれています。

ここです。

今は釣り具販売がメインなのかな?閉まっています。

ちゃんと貸本とあります。


すごいですねぇ~。

できれば書籍が積んである風景を撮りたかったぜ!


そして五木氏が通った銭湯「亀湯」跡地にも向かってみる。

(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
「…東山荘には風呂がなかったので、私は週に何回か、手拭いをさげて銭湯に通った。小立野の坂の入口にある(亀湯)という銭湯は、見晴らしがよく、私は大いに気に入っていた。」とのことである。

昔の亀湯はこの付近にあったらしいが今はもう無く。近くの亀の湯に移転したのかな?


たしかにここは亀(がめ)という名がつく。


がめざか


谷の痕跡があります。



(エッセイ「小立野刑務所裏」より抜粋)
少し懐が暖かいと、(わか葉)というおでん屋に顔を出した。金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。亀湯のことを、地元の人たちは濁って、ガメ湯と呼んでいたようだ。ガメ湯からあがって、きびしい寒気のなかを(わか葉)に駆けこむ気分は最高だった。


近くにあるおでんの若葉は今でもありますが写真撮り忘れた・・・
(オイラのバカ~)


(拝借


その後しばらくこの付近をブラついていました。

ワオ!ビックリ!


さて帰りましょう。

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