てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

旧北国街道をゆく《県外》越中埴生編

2020年05月02日 20時07分00秒 | 【ヒゲ親父】街道をゆく
旧北国街道をゆくの県外編です。
以前に越中倶利伽羅編でいい感じの旧街道を歩きましたが、今回はその先を行ってみました。

こ~う~れ~いの味方の本、
щ(゚V゚щ) くるくるっとキャモ~ン!


そして~、
お~じ~い~け~ん~、キャモーン

よろ・・よろ・・・


まぁ・・いい、おじい犬の散歩も兼ねて一緒に行こう。



たしか前回はここまで来たんだよね。


このベンチで、


小矢部のご婦人の方に旨いおにぎりを頂いたんだ。(前回の様子)


この先の道は、がけ崩れで進めなかったんです。(前回の様子)


道路はしっかりと直っています。


では旧北国街道の越中国の続きスタート

赤矢印から、埴生護国八幡宮に向けて進みます。

ここから旧北国街道に入ります。


矢立と呼ばれる場所です。

源平倶利伽羅合戦の際、ここは義仲軍の最前線の地で、平家軍の放った多くの矢がここに突き刺さったことに由来します。

おじい犬 GO!

よろよろ・・・

今日は気持ちいいね。


出ました!


ここには何度か来てるんだ。


そうそうこれこれ、このノート。


さてと、

ヒゲ親父 2020 5・2。

かってここに峠茶屋があったといいます。

記録では相当賑わっていたとあります。

松尾芭蕉と曽良もここでお茶を飲んだのかな。





一応、熊除けの鈴を持ってきてました。


気持ちいいですね。


ときおり涼しい風が吹き、

サワサワ~と木々の葉が鳴ります。

ふむ。


ほんと誰もいないね。


昔ながらの風景なんだろうなぁ。


さらに進むと、

巴塚、葵塚の看板。

当然行ってみよう。


それぞれ木曽義仲の妾です。
巴は知っていたが、葵は知らない。

調べてみると、
巴御前は、義仲が亡くなった後、晩年になり尼になってこの越中の地で没した。


葵御前はこの倶利伽羅合戦で討死にする。そしてこの場所に葬られた。


女性にも関わらず、巴も葵も義仲軍の武将として戦っているというから逞しいものです。

砺波山より石坂という里に下りてきた。


遠くに散居村が見えます。


埴生の集落。


左手に見えてきたのが医王院。


立派な仁王像と十王像があります。


この裏山の若宮古墳があります。


お墓の向こうに前方後円墳が見えます。


医王院の前をさらに進むと橋が見えてきました。


毘沙門川とは立派な名前ですな。


そして・・・、

目的地に着きました。
まっ、GWとはいえコロナ禍で誰もいません。シーン・・・

埴生護国八幡宮です。


味方の本でも重要な場所として記載されています。

ここには松尾芭蕉と曽良も参拝しています。

そして木曽義仲が倶利伽羅合戦前にこの地で戦勝を祈願しています。

でかい・・・立派な像です。

この参道石段、雰囲気あってとてもいいです。


拝殿。


ウィキより
養老2年(718年)創建。「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)5月、木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いの戦勝を当社に祈願したことが見える。以来、武将の崇敬を受け、前田利長や佐々成政から社領を寄進された。義仲戦勝祈願書、武田信玄書状などを社宝とし、境内入口には、義仲の騎馬像と源氏軍が鳩の案内で得たという名水「鳩清水」がある。また、蓮沼城主遊佐慶親の寄進による石段がある。 社殿は、国の重要文化財に指定されている。

いいね。


ここには興味深い場所があります。


この木枠内で、なんと埋蔵金が発掘されたのです。


ほらね。

平成14年って、意外と最近じゃないですか。

ちょうど正午、この時間になると結構暑いです。

はい今日はここまで。


これだけ進みました。





グーグルマップではこう




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◎味方の本(書籍紹介)


コメント
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