超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">詩人フレーブニコフの夢見た世界</span>

2010-02-28 14:55:32 | 無題

本屋で色々取り寄せた。幻覚の歴史を綴るハンス・ペーター・デュルの「夢の時」、蜂蜜の神話と煙草の神話の関係を論じたレヴィ=ストロースの「蜜から灰へ」、ヘーゲルの「精神現象学」、バタイユの「エロティシズムの歴史」、ロシア未来派詩人の評伝の亀山郁夫氏の「甦るフレーブニコフ」などである。
亀山郁夫氏は岩波新書の「ロシアアヴァンギャルド」がよかったので購入した。その本でもフレーブニコフの説明のところでロマン・ヤコブソンの詩の原理とは隠れていた選択肢を並べて見せることだという説やトゥイニャーノフの詩の原理とは偶然的なものを芸術の中心に置くことだという説などが紹介されていて大いに触発された。「甦るフレーブニコフ」では詩人の心の故郷アストラハンが東西の交流点であり、古来アジア人や中東人が多く住むところであり、葦の多い水の都であり、それをフレーブニコフは未来の理想都市の原郷として何度も取り上げている点が語られる。葦については「湖の岸の時―葦、そこは石が時であり、時が石であり(「湖の岸の」)」と歌われており、水連については「亜麻色のおさげのスラブ乙女は、水連の花びらを摘みとりながら、ツォンカパの至言を、清き露とかきまぜるのだ(「ラドミール」)」などと美しく歌い上げられている。この「ラドミール」こそ、1920年5月、フレーブニコフが初めて十月革命に正面から取り組み、革命との強い連帯意識のなかで、来るべき未来派のユートピア像を提示した作品だった。「あれは創侶たちが練っていくのだ。労働世界の旗竿を掲げた調和世界の僧侶たちが。あれはラージンの叛乱がネフスキーの夜空まで飛んできて、ロバチェフスキーの設計図も空間も奪い取ろうとするのだ」と歌われる「ラドミール」は労働と科学の融合、労働者の生の変容として好意的に批評家に受け止められた。この「ラドミール」は「チョークではなく愛で未来の設計図を描け。かくして運命は枕辺に降り立ち、ライ麦の賢き穂を傾けることだろう」で締めくくられる。そのあとイランに旅してざくろの赤い花に黄金時代を夢みたフレーブニコフは、革命の成就と自分の命の短さを秤にかける。全人類の歴史の数学的体系化を企てた「時間の法則」の探究、言葉の断片で実験を繰り広げた「超小説」群などを残して三十七歳で1922年にフレーブニコフは逝った。その未来派的な語法は早すぎた預言者の異次元のポエジーを今に伝えている。



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<span itemprop="headline">ユングの「ヨブへの答え」を読む</span>

2010-02-16 15:37:23 | 無題

ユングの「ヨブへの答え」は、聖書の心理学的な読みときである。神と人の葛藤のドラマとも言える。
ヨブは神を畏れ敬う勤勉なまじめな人物だった。この人物にサタンが目をつける。ヨブは敬虔な男だと言われていますが本当にそうでしょうか、ひとつ試してみてください。この誘いに神は乗ってしまう。それ以来ヨブは数々の不幸に見舞われる。妻と子を失い、財産を失い、不治の病に掛かって灰の上をのたうち回る。このときになってヨブは、初めて旧約の神に異議申し立てを行う。あなたはなぜ、真面目に生きてきた私に不義を行うのですか。神はそのとき自分の被造物を見せて自分の力の絶大さを誇る。ヨブは口に手を当てて沈黙するしかなかった。というのが「ヨブ記」である。
嫉妬深く怒り易い旧約の神は、心理学的には、無意識の暴発した形と捉えなおすことができる。それまで誰も神の暴挙に対して旧約で異議申し立てをした人物はいなかった。神という無意識の暴発に対して、ヨブという小さな人間が、意識の立場から異議申し立てを行った。
ヨブの問いかけに対して、神の反省と応答が始まった。最初、神の反応は知恵文学という形で聖書に現れた。神は自分の剛直な頑なさを反省して、知恵という女性性で人間に答え始めた。次に聖書において、預言者たちの預言のなかでの神の子、人の子の登場が、神側からの反応として見られるようになる。
けれども「神は情け知らずで無慈悲ではないか」というヨブの問いかけへの決定的な答えがもたらされる。それは、神が自ら人間となってこの世に生れ出て、人間の苦しみ悲しみを自ら経験して天に帰る、そのことで怒れる神の愛の神への完全な変化が行われるというものだ。
つまり、神は不義で無慈悲ではないかというヨブの問いかけへの最終的な答えが、イエス・キリストの誕生と生涯と受難であるとユングはいう。イエスとして苦しみを経験してようやく神は人間の苦しみ、悲しみを実感しえたのである。このようにユングは聖書を神という無意識が反省的意識を獲得する過程ととらえて、怒れる神から優しい神の転換点をヨブ記に見たのである。卓抜な聖書の読み方で、神が成長するという視点が斬新である。心理学的には大きな足跡をこの書でユングは残した。
卓上のイコンに光る眼差しはヨブへの答えイエス・キリスト



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<span itemprop="headline">ヨーゼフ・ボイスの素材の温もり</span>

2010-02-07 19:22:45 | 無題

部屋の隅に読まずに置いてあった「評伝ヨーゼフ・ボイス」を引っ張り出して読む。
長い間ヨーゼフ・ボイスは頭に引っ掛かる、謎の人物だった。何年も前、美術館でヨーゼフ・ボイス展を見たときも、フェルトや蜜蝋や脂肪でできた異様な作品の数々のアウラに魅せられるとともに不気味さを感じた経験がある。
そのヨーゼフ・ボイスの作品世界が特異な彼の経験と研究の産物だとよくわかる一冊である。彼は幼少から自然科学に没頭し、動物の知性と役割について格別な関心があり、戦時中にクリミア半島に戦闘機で墜落して死にそうなときにタタール人が傷口に脂肪を塗り、フェルトで体を温めて介抱してくれた劇的な記憶があり、そういった全ての経験が繰り返し作品に登場することとなった。
また人智学のシュタイナーの社会有機体の三分節説(社会は政治・経済・精神生活から成るという説)や鉱物・植物・動物と天使や霊の間に人間を位置づける神秘学への関心、芸術は人間学でなくてはいけない、芸術的に人間を教育して初めて精神的で民主的な社会ができるという「社会芸術」「社会彫刻」の信念が異様な作品世界の背景に広がっていることも伝わる。
ヨーゼフ・ボイス自身が自覚しているように、彼は動物世界と交感するという意味でも、社会貢献に身を捧げるという意味でも、物質世界の変化の過程を知っているという意味でも、現代のシャーマンである。
何より自分の過去の特徴的な出来事を何かの啓示のようにとらえ、執拗に作品世界で反復する性格が、彼のアートを特異なものとしている。ひとつひとつの出来事が有機的な意味を持ち、決定的な瞬間として感じられる彼独特の感性が、次々と作品として結実する。
ひとりの人間とは蜜蜂の群れに等しいとか、自らの分身としてのうさぎへの親近感、など他人には理解できない部分があるけれども、ヨーゼフ・ボイスはそうした全ての発想を用いて個人の神話を生きた芸術家だと言える。渡米したときもコヨーテと生活するというアクションを行い、そのあとフェルトにくるまれて帰国したというエピソードなど憎めない。かなり自由に身近なものを裁断して作品世界に取り入れたヨーゼフ・ボイスだが、作品の素材の温もりに込められた思いはただならぬ深さだ。



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<span itemprop="headline">「心理学と宗教」が手掛かりの旅</span>

2010-02-01 22:10:57 | 無題

ユングの「心理学と宗教」を読んでいる。
表題作の「心理学と宗教」は患者の宗教的な夢のなかに、しばしば元型に由来する円や正方形や四本のろうそくの灯のような完全性や調和を表す象徴が登場するという。人は既存の信仰にプラスして無意識が与える象徴を自我に取り込むことで、より高度な人格の深化が成されるという。
次の三位一体論では三位一体は三元性の元型に基づくが、より完全な調和を表す四元性に至るために付け加えるものは、聖母被昇天という女性性か物質化の権化であるはずだという。
続く「ミサにおける転換象徴」ではこのパンは私の肉である、この葡萄酒は私の血であると司祭がイエスの代わりに言ってパンと葡萄酒を聖別したうえで分け合うミサの心理学的な意義が考察される。この典礼は神の子キリストが地上に人間として贖罪のために誕生し、十字架の死によって贖罪を果たし、天上に座しているという教義の象徴でありながら、心理学的には父は神のイマーゴ(心象)、子は自我を越える普遍的な自己(セルフ)、聖霊は生命を指し、ミサに立ち会うことで、人は意識の変容の過程を教えられるという。すなわち、利己心を持つ自我の枠に収まらず、無意識を含む人格であり小宇宙でもある自己に向かって自分を開いていく個性化の過程が、己を虚しくしてイエスの贖罪を受け入れるミサの心理学的な意味だという。けれども人が自我とイエスを安易に同一視するなら、自分はイエスに等しいという慢心に陥る。肝心なのは普遍的な自己の象徴としてイエス・キリストを受け止める態度であり、ユングは意識の変容の象徴を正統なキリスト教だけでなく、グノーシス派や聖書の外典、錬金術にまで求めている。その点でユングは法外に寛容な立場に立っていると言える。イエスはグノーシス的な光の子が望んで暗闇に降り立ち、救済の後光の世界へ戻って行く、という神話的パターンの変形をミサのなかに見出し、フレーザーのいう植物霊の死と再生のパターンをミサの葡萄酒とパンの象徴に見ている。多様な比較対象を列挙されて読者は戸惑うかもしれないが、ユングの真意は自我がより広い自己に開かれてゆく象徴を宗教のなかにみつけることなのである。
暗がりを危ぶみながら今日もまた夢の書を手に旅を続ける



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