超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">音と詩情が日々の糧</span>

2010-04-27 16:28:41 | 無題
先日は中村まりさんのつくばの森ライブに出掛けた。中村まりさんはフォーク、カントリー、ブルースなどを自作の英語の歌詞とオリジナル曲で歌う卓抜したセンスのシンガー&ソングライターである。森ライブは天気は良かったのだがちょっと寒かった。オリジナルのSeeds to Growを手始めに、休憩を挟んで計20曲ぐらい歌っていた。木立の下のベンチでギターを弾き語りするまりさんは一枚の絵のようだった。子どもたちが走り回る中での演奏だったが、子供用に日本でも知られているアメリカの童謡、線路は続くよや大きな古時計や森のくまさんなども交えてくふうを凝らした選曲だった。新しいオリジナル曲も聞けて嬉しい限り。楽しい行楽だった。帰りに中古CD屋さんでブルーノ・ワルター編曲のマーラーの交響曲「巨人」のピアノ・デュオ版のSAハイブリッドCDを買って帰って聞いた。噂では前衛味が消えて家庭的な曲になっていると言われていたが、聞いてみるとこれがなかなかマーラーらしくて味わい深い。その後聞かずに置いてあったブロムシュテットのEMI盤のニールセンの交響曲・管弦楽曲集を聞いたら、交響的な美しさにびっくりした。今は銀座で取り寄せたグリエールの「コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲」を楽しみに待っている。ラジオで聞いたこの曲が私のなかのロシア未来派の歌曲のイメージを喚起するものだったから、思い切って取り寄せた。先ほど友人にラジオで録ったロシア未来派の歌曲のMDを貰い、家で聞いた。かなり不思議な旋律と歌唱である。グリエールのその曲とはかなり印象が違うが、グリエールのコロラトゥーラも不思議な旋律と歌唱である点では一緒だ。どこか共通するロシア的な実験精神がある。そのMDには彼の選曲のちょっと前衛な曲が一杯詰まっている。ブタペストで聞いたラジオで掛かったジャズなどが入っていて色々な想像を掻き立てる。そんなこんなで音楽を中心にした嬉しい驚きで連日満たされている。no music, no lifeというどこかの店のコピーはCDを買えなくなったら死んでくださいと言われているようで好まないが、音楽があるから生きていけるという実感が私にもある。
森ライブ交響曲のピアノ版 音と詩情が地の塩の糧


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<span itemprop="headline">ロシア未来派のコロラトゥーラ</span>

2010-04-21 16:50:12 | 無題
先日は近くの町のタイ料理屋さんで予備校時代からの友人と会った。この友人はヴォーカリストとして活動している。この友人が前からラジオで録音したロシア未来派の歌曲は素晴らしいという話をするが、私は聞いたことがない。この友人のジャズのユニットでよくロシア未来派風のスキャットというのを演奏する。その演奏から察してロシア未来派の歌曲のイメージを思い描いていたのだが、先日このようなものではないかと思い当たる演奏をラジオで聞いた。
それが、グリエール作曲の「コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲(作品82)」の歌の部分である。歌の部分が歌詞のない歌唱で微妙な旋律を際どく歌う。グリエールというとスクリャービンやラフマニノフの同時代人であり、革命時にはそれなりに実験を重ねていたが、革命後はかなり保守的な路線に収まった人物らしい。
この曲は第二次世界大戦中に書かれた曲でいささか革命的な実験精神の残滓が保たれていたのだろう。一度聴いたら忘れられないヴォカリーズ(母音だけで歌う歌唱)で、協奏曲の楽器のようにヴォカリーズが使われており、耳新しい旋律の数々が歌い込まれる。
グリエールが戦後、体制派の優等生と呼ばれたというのが何とも悲しいが、私の友人がいつも言うロシア未来派の歌曲とはこのコロラトゥーラに似た何かではなかったかと思わせる奇跡の名曲である。それにしてもロシア未来派の歌曲という幻の楽曲は、何と興味を誘う謎めいた作品群だろう。
「イランの子守唄」に挿入されたスキャットで、そのロシア未来派の歌曲の影をなぞる私の友人は一筋縄ではいかない音楽的背景を持っている。その点、「甦るフレーブニコフ」を愛読する私と話がよく合うのである。ほんとうに、グリエールの「コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲(作品82)」が彼の言うロシア未来派の歌曲に似ているのか私には判らない。けれどもたまたまFMで聞いたその曲が私のなかのロシア未来派の歌曲のイメージを喚起したことは事実である。いつかロシア未来派の歌曲集のCDでもみつけて真相を知りたいものだ。


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<span itemprop="headline">禅問答と復活の歌</span>

2010-04-14 20:08:43 | 無題
昨日は喫茶シュベールで昔からの友人と会って話した。彼は仏教が好きで秋月龍氏の「禅問答」という本をくれた。後で読んだが大層おもしろい。飄々とした昔風の挿絵が心和ませる。友人とはユングの「赤の書」の話をした。ユングが幻覚などをばんばん見て、無意識と対決していたときに私的に書かれた大量のイメージ図や走り書きが今まで封印されていたのだが、このたび封印を解かれたのである。図版満載で原語付きだがやたらと高価なのである。友人はユングの「赤の書」の絵で展覧会をしたら面白いだろうなと言った。確かにその通りである。ユングが画家としてどう受け取られるか興味の尽きない話である。
それから60年代にアメリカで活躍した禅師の鈴木俊隆氏の話を聞いた。鈴木大拙ではなく俊隆である。あとでユーチューブでサウンドアンドノイズという俊隆の説法を見た。「鳥が鳴いてるとき禅者なら言うだろう。私はあの鳥だ、と。」と言っていた。初心禅心という英語の本を一冊書いて「禅へのいざない」という題で紀野一義氏の訳で出版されていることも知った。読んでみたいが中古で高く出回っている。英語の原典のほうが千円ぐらいで買える。
今日は「禅問答」を読みながら、バーンスタイン指揮のマーラーの「復活」のDVDを見ていた。最終楽章の合唱で高揚がピークに達する。バーンスタインは自ら役者のように歌って泣いて飛び跳ねる。見甲斐のある映像である。コーヒーを飲んで「復活」を聞いていたら自分まで復活してきた。
「禅問答」の秋月龍氏の語り口が好きである。友人が言うには師の大拙よりも学者肌だというが、私には大拙より判りやすい。大拙はとてつもなく幅広く、龍氏は理屈にならないことを理詰めで書き切ろうとする。そこが私には合っているのだろう、龍氏の文章とは相性がいい。
そんなわけで仕事以外は「禅問答」とマーラーの「復活」で過ごしている。
辺界の光こぼれる二輪草、禅問答と復活の歌


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<span itemprop="headline">満開の桜と大地の歌</span>

2010-04-04 22:46:22 | 無題
花冷えだったが、川沿いを歩いて満開の桜のアーチを抜けた。
帰ってノイマン&チェコフィルのマーラーの大地の歌を聞く。
現在売っているのは1971年のライヴ盤だが、私が持っているのは83年のライヴである。今となっては貴重な音源だ。大地の歌は春風に合う。消え入るように終わるところもいい。この曲の東洋的な情感が堪らない。
そのあとノイマンやクーベリックのマーラーの交響曲をいくつか聞く。チェコの指揮者のマーラーが好きだ。
今読んでいる「開かれ―人間と動物」は面白くなりそうな感覚がある。人間と動物の強引な切断が人文科学や哲学をかたち作った。人間と動物の「あいだ」をみつめなおすことで思想は深化を遂げるだろう、という。
実を言うと、春よりもクリスマス間近の季節が好きだ。視界がぱっと開ける春よりも密やかな冬の空気を好む。
冬にはハイティンクのクリスマスマチネのマーラー選集を聞き、シュトーレンなどをちびちび食べて過ごす。
去年の春の今頃の日記を読むと事典のスキピオ・アフリカヌスの項を訳しながら、隣の猫と遊んでいた。もう引っ越してしまったが、隣の猫はかわいかった。今思うと懐かしい。ひと月ほど預かっていたので愛着もひとしおだ。
先日は神田の音楽バー「風来坊」で、古くからの友人と談笑した。風来坊ではローリングストーンズのあとで「戦士の休息」が掛かっていた。ロックやブルースに交じって70年代の歌謡曲が時折掛かる。客は渋い年配が多い。
友人はヤング@ハートのステージを生で見て感激したと言っていた。映画でも見た「イエス・ウィ・キャン・キャン」や「フォーエヴァー・ヤング」で泣いたという。一生音楽を続ける意味を考えさせられたそうだ。
彼もまた、ラジオで大地の歌を聞いて心に染みたと言っていた。
やはり、今の季節は大地の歌だ。
クーベリックのauditeのライヴ録音で大地の歌を大音量で聞こう。
満開の桜でひとつ深呼吸 大地の歌を繰り返し聴く


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