超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">シノーポリ、聖書のことば、旋律の永遠</span>

2014-08-17 17:34:13 | 無題

昨日はクラウディオ・アバドのブルックナーの9番を聞いた。
クラウディオ・アバド・シンフォニー・エディションの一枚である。ブルックナーの4番5番7番9番が収録されている。
テンポが速いが肌理が細かく、出来のいい演奏である。
シノーポリのブルックナー選集に惹かれる。タワーレコード限定企画盤の選集である。このシノーポリの
ブルックナー選集では、シュターツカペレ・ドレスデンの優しい木管が聞けると言う。
今日は中山恒夫の文典で接続法の活用を覚える。
そのあとウルガータ聖書読む。

「施しをするときは右手のすることを左手に知られてはならない。
 施しをするときは、偽善者がするように、会堂や通りで自分の前で喇叭を吹いてはならない。
 彼らはすでに報いを受けている。
 そうではなくて、隠れた場所で密かに施しをせよ。
 そうすれば、あなた方の天の父は密かに見ていて、
 天の恵みを与えてくれる。」

ウルガータ聖書、為になる。

カラヤンや、フェドセーエフのリリーフ社のチャイコフスキー交響曲全集など気になるCDもあるが、
日々文典とウルガータ聖書を読み耽る毎日である。
「ニーチェが短歌を詠んだら」という本をめくってみたい私である。
かつて「行く道と今来た道は輪になって繋がっている耐え難き永遠(とわ)」という短歌で永劫回帰を詠んだ私である。この手の本はおもしろいに違いない。

「壊れても短い無垢な旋律を繰り返し弾く哲人の永遠」

晩年のピアノを弾くニーチェを詠んだ短歌である。



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<span itemprop="headline">ブルックナーの旅の追憶</span>

2014-08-10 18:12:47 | 無題

昨日は久しぶりにティントナーのブルックナー4番を聞いた。ティントナー、清澄な響きである。
でも私は原点に帰りたいと思って、初めて聞いたブルックナーのCDを取り出した。
ギュンター・ヴァントの、ケルン放送響の2枚ずつ分売の国内盤ブルックナー全集のうちで、7番と9番がセットのCDのうち9番である。
ヴァント・ケルン放送響のブルックナー9番聞く。
初めて聞いた演奏が、その時と全く同じように鳴るのは、懐かしく、かつ嬉しい。
これだ。確かにこの音だ。
再編集盤が出ても、昔買った初体験のCDが手離せない私である。
ケルン放送響のヴァントのブルックナー全集は音が硬質で、金管楽器が強く鳴る。
低音も厚みがあり全パートが濁りなく明快に鳴る。
臨機応変に楽譜を変えて演奏したりしない、厳格な間の取り方である。
楽譜もハース版、原典版で統一されている。ヴァントのノヴァーク版嫌いは有名である。
私のなかのブルックナーの美感はこのヴァント・ケルン放送響の演奏で形成された。
どのブルックナーを聞いてもヴァントとの比較で答えを出す。
ヴァントが厳密な音の建築家だとすれば、スクロヴァチェフスキは融通の利く現場監督だと言う。
私はいつも厳密な音の建築家ギュンター・ヴァントに最大の敬意を払ってきた。
ギュンター・ヴァント・ライヴ、人類の至高の遺産である。
北ドイツ放送響とのDVDを大音量で流して休むと大抵気分が好転する。
未完成&グレイトもギュンター・ヴァントによって美感を育まれた。
今、DVDで手軽にヴァントのブルックナーやシューベルトに接することができて喜ばしい。
昔買った、ヴィルヘルム・ケンプ1000シリーズやギュンター・ヴァントのブルックナー全集に回帰して、たまに無垢なクラシックとの出遭いを追体験する。
懐かしい、帰る場所があるのは幸せなことである。

あの頃とひとつも変わらず鳴っているCDを聞き旅の追憶



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<span itemprop="headline">マーラー全集、盤評のあれこれ</span>

2014-08-09 15:58:32 | 無題

バーンスタインのドイツグラモフォンのイタリア盤のマーラー全集は中古で2千円で買った。
曲の区切りが滅茶苦茶で聞きにくいことこの上ないのだが、デザインがよくライヴ録音で気に入っている。
ロリン・マゼールのフィルハーモニアとのマーラーは第一集と第二集が出ているが、タワレコでは各5千円になってる。5千円あったらロリン・マゼールの芸術30枚組が買えてしまう。
マゼールのマーラーは時折テンポを落とし、随所に溜めを作り、マゼール節が味わえる。
バーンスタインのマーラーは映像のイメージが大きい。
歌い、飛び跳ね、すすり泣くバーンスタインにウィーンフィルが虜になっていた。あれは、涙なくして見れない。グラモフォンのCDのマーラー全集はそのあとのライヴ録音。歌い、飛び跳ね、すすり泣くバーンスタインの姿が目に浮かぶ。
復活の最後の鐘が鳴る部分では号泣間違いなし。
ハイティンクのクリスマスマチネコンサートはライヴの臨場感があって聖なる時間を共有できる。
毎年、一年に一度クリスマスの昼間にハイティンクがマーラーを一曲振る、その集成がクリスマスマチネ。
今まで聞いたハイティンクのマーラーのなかでも屈指の出来栄えではないかと思う。
4枚組DVDが中古屋さんで格安で売っていたけどpal規格なので買わずにいたら買い逃した。
パソコンならpal規格でも見れたのに。
でもあの映像、合成が多くて笑っちゃうらしい。真ん中にハイティンクが映って、周りを全楽器が取り囲んで嘘みたいな映像になっている。
今、ハイティンクを選ぶなら、ベルリンフィルとのマーラー選集1-7である。
これに、コンセルトヘボウの8番9番、大地の歌を足す。これで完璧。
面白いのはエミール・タバコフ&ソフィアフィルのマーラー全集である。
残響が多く、ぶっきらぼうな、痛快無比な演奏が聞ける。一曲が大体2枚にまたがるが、曲割は親切。
エド・デ・ワールトやレイフ・セーゲルスタムの全集も凄すぎる。クーベリックやノイマンもよい。

マーラーを聞き比べして音楽の湖畔で憩い鋭気養う



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<span itemprop="headline">地の塩や世の光のたとえ、マーラー聞き比べ</span>

2014-08-09 01:30:06 | 無題

今日もウルガータ聖書を読む。
「「あなた方は地の塩である。だが塩に味がなければ何で塩味をつけるのか。それは外に投げつけられ、人々に踏まれるだけである。あなた方は世の光である。山の上の町は隠れることができない。人は光を枡の下に置かない。そうでなくて、燭台の上に置く。そうすれば家のなかの全てが輝く。あなた方の光を輝かせなさい。あなた方の良い業を見て天の父を称えるためである。」とイエスが教えを説く部分を読んだ。
説教を始めてから間もないのでイエスの教えは勢いがある。堰を切ったように能弁に語るのである。その
一言一言が新鮮である。あなた方は地の塩である、あなた方は世の光である、と言われた時の聴衆の驚きと誇らしさ、嬉しさは言い知れぬものがある。
今日も中山恒夫さんの文典を読む。今日は受動形で未知の変化形だった。有田潤さんの本ではとりあえず、三人称だけ覚えておけばよいと、うまく記憶の節約をしてくれていた。
だが、中山恒夫さんの文典は端折らず全部の変化形を載せている。これが、初出の変化形なので記憶に定着しない。「尼居る 尼栗鼠 尼チュール、雨漏る、奄美に、海女ん人居る」と駄洒落で覚える。出来が悪いので苦肉の策である。
続いて大貫隆さんの文法書読む。今日のコラムは「ピラトがイエスに尋ねた。お前はユダヤ人の王か。イエスが答えた。それはあなたが言っていることです。」イエスは天の国がもうじき訪れると確信していた。それがイエスの行動の原動力だった。だが今その意味の網目が破れてしまった。処刑を目前として、ピラトの訊く問いは何と形式だけのものであろうか。そんなふうに大貫隆さんは解説している。
だが私はイエスが確信を見失っているとは感じない。イエスはイザヤ書の「無力に殺される羊であるメシア」の役割を神意として引き受けようと覚悟しているのだ。「できるなら、この杯を飲まないで済むように。だが私ではなく、神の意のままになりますように。」という悲愴な祈りを捧げている、預言の悲運と戦うイエスが居た。イエスは贖罪の羊としての悲運を引き受けた。弟子に「あなたはメシアです」と言われて、「そのことは黙っているように」、と口止めしたイエスである。イエスは自分の役割を自覚している。最初、洗礼者ヨハネのように悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣教を始めたイエスだが、驢馬に乗り、エルサレムに入場して売り買いする者たちを追い出し、無力な羊の運命に突き進むイエスである。その苦悩は察して余りある。今日はロリン・マゼールのマーラー巨人、バーンスタインのグラモフォンの新録のイタリア盤のマーラー全集を聞く。
地の塩や世の光にもなれなくてわが身の程の小ささを思う



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<span itemprop="headline">全方向読書、ディリアス鑑賞、夏真っ盛り</span>

2014-08-04 23:35:50 | 無題

最近、古い神話を辞書を引いて読んでいる。
また聖書をちびちび読んでいる。
今日は
「悪魔がイエスを町の頂きに立たせて言った。
神の子ならお前がここから飛び降りても、天使が
支えてくれるだろう。
イエスは言った。汝の神を試してはならない、と書いてある。
悪魔が山の頂にイエスを立たせて言った。
私を崇めるなら全ての町の栄華を与えよう。
イエスは言った。退けサタン。汝の神だけを称え、
汝の神だけに仕えよと書いてある。そこで悪魔はイエスから離れた…」
と言う所を読む。
また中山恒夫の白水社の文典が届いたので読む。
実に良書である。
そのあと金岡秀友の「空海、いずれも仏ならざるはなし」を読む。
恵果が空海と会って大いに好し、大いに好し、と迎え、
両界仏教の灌頂を行い、法を授けた話を読む。
そのあと大貫隆の岩波の文法書を読む。
「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
という言葉を引いて、「間もなくアブラハム、イサク、ヤコブとともに
天の宴に人々が着く」とイエスが言う例文を読む。
夜中にディリアスのEМIの作品集を聞く。

音楽と活字が夢を膨らませ涼しい風が汗を乾かす



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