超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">グルジェフかウスペンスキーか、秘教の人物像</span>

2008-11-25 02:55:18 | 無題

小森健太朗の「グルジェフの残影」という小説はよくできた哲学小説である。主人公のオスロフは恋人のジナイダを失ってペテルブルグの川に身を投げようとしている。その時に前に一度だけ会った哲学者のウスペンスキーに助けられる。ウスペンスキーはオスロフに人生をやり直させる体験をさせる。けれども何度やり直してもオスロフはジナイダに振られて川の前に立っている。この話は史実としてウスペンスキーが「イワン・オソーキンの不思議な生涯」という自伝小説で自分のこととして書いている話である。小森の小説ではオスロフはウスペンスキーの麻薬煙草と催眠術で人生をやり直す疑似体験をしたことになっている。実はウスペンスキーの自伝小説はニーチェの「人生は永遠に繰り返す」という説を実感的に表現した小説だった。オスロフはこうして多少魔術の心得のある実直な哲学者と出会う。
すでにウスペンスキーは「ターシャム・オルガヌム」という哲学書で名声を得ていた。これはカント哲学に異次元論を付け足した数学的神秘哲学であった。この実直なウスペンスキーは多分に山師的な性質のあるグルジェフと出会い、自分が薄々感じていた秘教の「スクール」の存在を世界各地の旅で知っていることをほのめかすグルジェフに強烈に惹かれ、その助手になってしまう。ウスペンスキーを敬愛していたオスロフはこのことに失望し、グルジェフの素性を調べつつ遠巻きにグルジェフに接する。
グルジェフは世界各国の秘教の知に長けていた。だがその人間観は冷徹である。人間はふつう無自覚に感じ行動している。その意味で人間はほとんど機械である。グルジェフはいわゆる「いじめ療法」や「ワーク」と呼ばれる課題を弟子に強いることで、意識の惰性化を妨げ、弟子を意識の眠ったような状態から覚まさせようとする。グルジェフは神聖舞踏という身体技法にも通じていて「魔術師たちの闘争」という舞踏劇を上演している。小森の小説はグルジェフはスターリンを利用してソビエトを霊的国家に改造しようとたくらんで失敗した、それがウスペンスキーには許せなかったという仮説で終わる。それは虚構にしても、どちらに肩入れするか好みが分かれるところだ。弟子に気まぐれを言って試し、いじめ療法で鍛え抜くグルジェフは文化史的には面白いが、自分が弟子なら耐えられない。私はウスペンスキーのより穏やかな性格と書物を主とした探究に惹かれる。それも弟子ではなく誠実な友人として。



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<span itemprop="headline">ブルース・フィンク、ラカンの残影</span>

2008-11-19 06:47:55 | 無題

アメリカの精神分析家ブルース・フィンクの「ラカン派精神分析入門」を読んだ。フィンクに興味を持ったのはある心理学の先生がジャック・ラカンの「エクリ」の読みやすい英訳が出た、その訳者がブルース・フィンクだと話したからである。「ラカン派精神分析入門」はよくあるラカンの「思想」の解説書と違って、必要以上に難しくないところに好感が持てる。フィンクはかなり、臨床的な立場から書いている。どうすればラカンの意にかなう仕方で分析家が相談者を問題解決に至らせるかがテーマになっている。言わばラカン派分析虎の巻である。
本書は神経症の患者を主な相談者として扱っている。相談者は具体的な症状に悩まされているが、相談者は自分でも知らずに症状によって満足を得ているという。相談者は満足を持続したまま症状を和らげたいだけであり、自分は何を望んでいるかなどを気に掛けないことが多い。相談者は意志が弱く気まぐれである。それに対して分析家は分析のセッションを続けるという自分の欲望を飽くまで言い聞かせなければならない。相談者は身の回りで起きた他愛のない出来事や、文学作品について止めどなく話をする。それに対して分析家は必要に応じて話を変えたり、その日のセッションを打ち切ったりする。
セッションを途中で打ち切るのはラカン派の技法のひとつである。相談者が自分の過去について本質的なことを言ったり、言い間違いなどで本音を漏らしたときに、それを本人に深く考えさせるために、唐突にセッションを打ち切るのである。言い間違いや言い損ない、白昼夢や夢から相談者の無意識に目を向けさせ無意識の真意を考えさせるのである。だからセッションで真に権威を持つのは、相談者の無意識だとさえ言われる。セッションの分析の主体は相談者なのである。
神経症の人は欲望が抑圧されている。本人の欲望は両親を始めとする《他者》の欲望をなぞっている。神経症者にとって外傷的で、固着の対象である《他者》の欲望に相談者の目を向けさせることが分析家の仕事である。過去に本来の望みは手荒く断たれ、その代り両親等が良しとするものに欲望を切り替えた。その精神的な去勢と折り合いをつけるのがフロイトの終着点だった。ラカンは精神的な去勢を乗り越えて、最終的に相談者がエロスの享楽を自ら享受することを目指していた。そのようなラカン派の、相談者への扱いは、時には非情で過酷に見える。相談者の意識に活を入れるラカン派の技法は、宗教者の弟子への働きかけを思わせる。



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<span itemprop="headline">「すいか」の瀬戸際感</span>

2008-11-11 23:05:07 | 無題

2003年夏に放映された木皿泉脚本、小林聡美主演の連続テレビドラマ「すいか」は一部では熱烈に受けたが、視聴率には反映されなかったらしい。主人公の小林聡美演じる基子は、30代半ばの信用金庫勤めの会社員。浮いた話もなく、母にいくつになっても世話を焼かれるのに嫌気が差して、家を出てまかない付きの共同住宅に間借りする。この共同住宅はそれぞれの個室の他にダイニングキッチン兼リビングルームがあって、いろんな境遇のいろんな世代の女たちが、ここでご飯を食べ、とりとめのない話をする。
堅実さが取り柄の基子には、いつも気になる人物がいた。同じ信用金庫の友人で3億円を横領して警察に追われている馬場ちゃん(小泉今日子)である。色んな変化が有りつつも平穏な毎日を送る基子と3億円は手にしたが瀬戸際の人生を生きる馬場ちゃんは好対照である。基子は実は馬場ちゃんの劇的な人生に一種の憧れがあって、ドラマの最後に馬場ちゃんは自分と一緒に海外に高跳びしないかと基子を誘う。航空券と大家のゆか(市川実日子)に頼まれた夕食の買い物メモとどちらかを選べと馬場ちゃんは言う。一旦は同情して航空券を手にする基子だが、馬場ちゃんは友達を犯罪の巻き添えにはできないと基子に買い物メモを返す。基子は新しい買い物メモを馬場ちゃんに渡して、今度共同住宅に訪れる時に買ってきてねと約束する。だが瀬戸際の馬場ちゃんは買い物メモに書かれた白滝、牛肉などを唱えながら、光の中に飛び込んでゆく。明示されないが、馬場ちゃんは死を選んだに違いない。
基子の日常にも何が起こるかわからない恐怖があることが、教授(浅丘ルリ子)のせりふなどで暗示されるが、基子の平穏な日常と馬場ちゃんの瀬戸際の人生が明暗を成し、一つ間違えれば人は瀬戸際なのだと実感させられる。このドラマは人生を支える土台の不安定さを多様なエピソードで表現していて凄みのある作りだった。まかない付き共同住宅というライフスタイルも、ゲストハウスに間借りする女性が最近は増えてきて、時代を先取りする設定だった。温かいホーム・ドラマでありながら、瀬戸際の横領罪の馬場ちゃんの登場で平穏な人生のかけがえのなさが浮き彫りにされている。小林聡美の微笑ましい存在感を生かした映画ではフィンランドを舞台に日本食堂を堂々と経営する「かもめ食堂」や与論島で何もしないことを学んでゆく「めがね」が高い支持を受けた。その先駆けである「すいか」の視聴率が伸びなかったのは、テレビというものの難しさだろうか。



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<span itemprop="headline">九鬼周造、偶然性と魔的な感覚</span>

2008-11-08 00:08:24 | 無題

哲学者九鬼周造には「粋の構造」などとともにお気に入りのテーマがあった。偶然性である。偶然とは何か、①起きることもあり、起きないこともあるもの、つまり可能性はあるが必然ではない②めったに起きなければ気を引くもので③ヒョッコリと現実面に顔を出して廻り合うものであると言う。九鬼周造と同じく偶然性に不思議な魅力を感じていたのが、カール・グスタフ・ユングである。ユングの場合、なりたい自分になる個性化のプロセスのなかで、ここぞと言う時に、個人の人生にとって意味のある偶然の一致がよく起きるという。いわゆる共時性である。いくつかの事件が同時に起こって、その人にとって意味のある結びつきが感じられることを共時性と言う。日本では明恵上人がしばしばこの共時性を経験し、観想していたらしい。
実はこの明恵が日頃親しんでいた華厳経に面白い発想がある。事法界と理法界である。事法界は日頃私たちが接している物事が区別された世界。それに対して理法界はそれらの区別は仮のもので実は無差別であるような世界である。理法界の理の働きが、あらゆる形を取って事法界に立ち現われている。だから両者は別物ではないのだという。区別された世界を裏から見れば、全てが全てと持ちつ持たれつで繋がっている。だから華厳経の世界は融通無碍で万物照応の世界である。あらゆるものが理の働きで繋がっているのだから、意味のある偶然も数々起きる。
この考えを借りれば、九鬼周造やユングのこだわった偶然や共時性がよくわかる。現実の背後には現実の予備軍が勢いよく川のように流れていて、それが機が熟すとヒョッコリと現実面に形を取って吹き上げてくるのだ。そのことに気づいていた九鬼とユングは、奇妙にもデモーニッシュ(魔的)な人物だった。九鬼周造は随筆の中で、自分の名字にはデーモン(鬼)が刻まれていて、それが自分の宿命に思えてならないと言っている。自分には当たり前の世界をはみ出してしまう猟奇的な性質が染みついていて未だに抜けない、まるでゲーテのファウストのような人間なんだと九鬼は告白している。ユングもまたファウストに自分の影を見出し、危険な無意識と対話して生きてきた魔的な人物であった。ユングは牧師である父と訣別し、自分の無意識の望むものにふさわしい形を錬金術やグノーシス派の宗教に見出した勇気ある探究者だった。九鬼に鬼が刻まれていたように、ユングにもファウストの誘惑が生涯付いて回ったのである。



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<span itemprop="headline">生田朗、実存の類い稀な結晶</span>

2008-11-06 03:42:04 | 無題

鈴木慶一と高橋幸宏のザ・ビートニクスのセカンドアルバム、「Exitentialist A Go Go(ビートで行こう)」は名作である。エグジテンシャリスト(出口主義者)というのは造語で、エグジステンシャリスト(実存主義者)をもじった言葉だ。実存主義が流行った時代の空気を漂わせつつ、今を生きる状景を聞かせるというのがアルバムの趣旨であったように思える。
高橋幸宏作詞作曲の「初夏の日の弔い」と鈴木慶一の「Common Man」はアレンジや曲調が似ていて、いい掛け合いになっている。両方ともに共通しているのは、「人生に疲れた」という倦怠感と諦念である。私が若かった頃、理想のおじさんであった二人がこれほど疲れを表明しているのはリアルタイムで聞いた私の世代には驚きだった。「寒い陽だまりにそっと座って影を見つめて目を閉じる、耳を澄ませば風が言う、Do you remenber what you were looking for」で始まり、「空を今抱きしめて僕はひとり影になる、空を今、抱きしめて」で終わる「初夏の日の弔い」。それに「10年前と変わらない、No,No,誰も今みたいじゃなかった」で始まり、「誰にも答えはない、浮かんでは消え、でもこれは夢なんかじゃない、いつの間にか夢なんか見ないCommon Man」で終わる「Common Man」は実存の倦怠の優れた表現で、ポップスの枠をはみ出ている。ザ・バンドの「ステージ・フライト」のカヴァーも人生の恐怖感が出ていてアルバムの趣旨と合う。
だが、何と言っても素晴らしいのが、生田朗の英語の詞をつけた曲である。オープニング曲の「Total Recall」では「別の日に通りを歩いていたら雨が降ってきて、僕を馬鹿にした老人に会った。人生は北風で、何もできていないことを思い出す(もう一度は言えない)。僕は一日中信号が青になるのを待っていた。僕らはあまりに若くて何が起きているのかわからなかった。だが僕らが生きているのはそういう世界だ」と言う。エンディングに近い曲「Grains of Life」では「僕の声が聞こえるかい、僕は素直になろうとしている。僕の眼が見えるかい、鍵は手にしている。手を握って、君を行かせない。光に追いついた、出口に出られるだろう」という詞が出てくる。ハードな毎日を耐えてきて、ほんの一瞬垣間見える切実さ。そういう世界を詩的に描き出すのが生田朗氏はひどく上手だった。実存のひとコマひとコマが美しく結晶してゆく。そんな詞を書ける人は決して多くないだろう。



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