超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">この曲と珈琲で活性化</span>

2010-05-27 20:30:47 | 無題

最近暇なときはギュンター・ヴァントのブルックナーやシューベルトのDVDを見ている。ギュンター・ヴァントの未完成&グレイトは私が初めて買った交響曲のCDなので思い入れが深い。そのあとケルン放送響とのブルックナー全集を買い、北ドイツ放送響とのベートーヴェン全集を買ってクラシックに目覚めたのだからヴァントには感謝しなければならない。
その他初めて聞いたブラームスはサヴァリッシュ・ウィーン響の全集である。ピアニストでは何と言ってもヴィルヘルム・ケンプである。ケンプのお陰でシューベルトやベートーヴェンのピアノソナタの喜びを知った。ピアニストではケンプの他にルービンシュタインやクラウディオ・アラウが素晴らしい。
指揮者ではベルナルト・ハイティンクを繰り返し聞いた。
ハイティンクは全集マニアと呼ばれていて、シューマン、チャイコフスキー、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーなどの全集をフィリップスに残した。フィリップスは経営破綻したという話だが、CDのほうはどうなるのだろうか。
ハイティンクのなかでは、マーラーのクリスマスマチネ選集とブルックナー全集が気に入っている。
初めてマーラーを聞いたのはテンシュテットのボックス全集だった。強弱が激しく神経質なところが強調されている全集だった。それからマーラーがじょじょに好きになり、ノイマンのボヘミア的なマーラーを聞いたときはこれだっ!と思ったものだ。
同じくクーベリックのマーラーもボヘミア的で好きである。けれども美音ベルティーニや青春大作シノーポリや感動巨編セーゲルスタムのマーラーもいい。セーゲルスタムのマーラー全集を作ったデンマーク国立放送交響楽団は同じセーゲルスタムとシベリウス全集を作っているし、ブロムシュテットの最初のニールセン交響曲・管弦楽全集も演奏している。これが皆、寒い中でエネルギーが凝縮したような熱気の籠もった音で感心させられる。
シューベルトの歌曲はヘルマン・プライの三大歌曲集を愛聴した。けれども最近フィッシャー・ディースカウの歌曲集をぶっ通し聞いている。無限連鎖のようで永遠に聞き終わらないが、安息感が与えられる。虚しくてたまらないとき、町をさまよった末、結局、家に帰ってルドルフ・ケンペとミュンヘン・フィルのベートーヴェン交響曲全集を聞いて珈琲を飲んで体を活性化させた。



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<span itemprop="headline">縄文杉と蓮の花</span>

2010-05-20 05:57:49 | 無題
梅原猛氏の「森の思想が人類を救う」を読んだ。すでに縄文が日本の文化の母胎だと言われている。
その土壌のうえに日本独自の仏教が花開くのである。日本仏教の草分け、聖徳太子は法華経を重んじ、仏のもとの平等を国政に生かした。また、最澄も法華経を中心とする天台宗の基礎を築き、山川草木悉有仏性の教えを説いたという。これが自然界の全ては生きているという縄文以来のアニミズムの土壌にうまく吸収された。また親鸞は還相廻向という考えを強調し、極楽浄土に行った人が衆生救済のためこの世に戻ってくることを重視した。これは縄文以来の魂循環の思想とよく適合した。
釈迦仏教から日本人が学んだのは執着への批判であり、身分差別を越えた平等の教えだったと梅原氏は言う。また日本人とヒンドゥ教が共通しているのは自然崇拝と多神教的な八百万の神への畏敬の念だという。
原始的な多神教は一神教に比べて劣っているという考えが19世紀のヨーロッパの宗教学にはあり、その偏見は完全には拭い去られていない。けれども人間が自然を征服すべきだという西洋の考え方は、環境破壊や核の脅威で限界に来ていて、今、一万年前まで人類を覆っていた縄文的なアニミズム、多神教的な自然崇拝や魂循環の思想はリアリティをもって復権されるべきだというのが、「森の思想が人類を救う」の提言となっている。
チャールズ・カミングズの「エコロジーと霊性」では、キリスト教の被造物への共感は環境保護に繋がる感性だと主張している。そのような西側のしなやかな感受性を受け止めつつ、森の思想が広がってゆくことが望ましいと思う。梅原氏の縄文論は少々強引な力技とも感じられるが、山川草木悉有仏性が日本の仏教の深くに根差した心性であり、エコロジーと響きあうことには明るい可能性が感じられる。閉塞感のある現代日本において、ひとり、梅原猛翁が世界に向けて豊かな思想の種をまき続けている。縄文人の直系がアイヌと沖縄の人々であるという氏の主張に確証はないが、「森の思想が人類を救う」は日本人の宗教観をよく知るのに最適な一冊であると私は思う。


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<span itemprop="headline">歌曲と縄文とグルジア料理</span>

2010-05-17 00:59:33 | 無題
今日は珈琲を飲み、野ばらの入っているシューベルトの歌曲集を聞き、ブック・オフで買った梅原猛氏の「森の思想が人類を救う」の前半を読む。縄文文化の名残りを留めているのがアイヌと沖縄の人々だという。
アイヌのイオマンテの熊送りの儀礼は、熊はあの世から肉という土産を持ってこの世に遊びに来ていて、人間に肉や団子や酒で歓待されて送り返されると、今度は別の熊がこの世に土産を持って訪れるという発想に基づいている、という。沖縄には海の向こうのニライカナイという楽園があって死んだら魂はそこに行くという。どちらも魂がこの世とあの世を循環するという思想があって、それが日本人の信仰の源流にあるという。私も沖縄に訪れたとき、御嶽という聖域の森を見て、神社の鎮守の杜の原郷をみた思いをした記憶がある。沖縄の人とアイヌの人が縄文人の直系であるという確証はないが興味深い話である。
その縄文のアニミズムの上に、最澄の「山川草木悉有仏性」や親鸞の「還相廻向」が花開くのだが、本を閉じて、友人と待ち合わせた吉祥寺のグルジア料理も扱うカフェ・ロシアに行く。グルジア料理のコース・セットを頼んだが、ナスにクルミのペーストを挟んだ料理、ニシン(?)の刺身、ニシンのジャーキー、キャベツの酢のもの、チーズ入りのピタパン、メインに蒸し鶏を食べ、汁粉のような甘くて粉が底に残るグルジア・コーヒーを飲んだ。
その場で友人にエチオピアのジャズとか、ジム・オルークとか、オーネット・コールマンとか、富田勲のニュース解説のテーマ音楽とか、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルなど内容の濃すぎる曲の入ったMDを解説付きでもらう。そのあと、公園口のクラシック喫茶で談笑し、大学時代、思想家の顔をデザインしたTシャツを着て歩き変わり者扱いをされた失敗談などを話す。
縄文文化の名残りとされる刺身がロシア・グルジア料理に出てきて奇妙な縁を感じる。ひょっとしたらシベリア辺りで二つの話題が出会うのではないかと夢想する。そういえば、梅原猛氏の縄文論はエリアーデの「シャーマニズム」を想起させる。


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<span itemprop="headline">歌曲、ヨルダン、追体験の旅</span>

2010-05-11 16:24:59 | 無題
某研究所のページに書評を書いた。けれど一旦書き終えてから、操作ミスで全文消してしまい、仕方なく同じ文章を再現して書いた。自分の記憶力が頼もしく思えたがひやりとした出来事だった。最近買った本は知の再発見双書の「ダダ―前衛芸術の誕生」と亀山郁夫氏の「終末と革命のロシア・ルネッサンス」である。
マヤコフスキー、メイエルホリド、マレーヴィチ、スクリャービン、エイゼンシュテインらが論じられていて興味が尽きない。最近このページで前衛ものをよく取り上げるのでからかわれるほどだ。
先日、都内のヨルダン料理屋さんに行き、少年時代にイランに住んでいた友人と会食した。ジャズとは片方でヨーロッパ的な音階を弾き、片方でアフリカ的なブルーノート音階を弾くと山下洋輔氏が言っていたという。
昨日は吉祥寺の中古CD屋に行き、長年探していたCDを見つけた。そのあと大学時代の友人と会って、岡崎乾二郎氏の「三人のボブが現代芸術の先端を走った」という説を聞く。三人のボブとはボブ・ディラン、ロバート・ラウシェンバーグ、ロバート・フランクだという。今、価格破壊の激安のフィッシャーディースカウのシューベルトの歌曲全集21枚組6千数百円がインターネットで売り出し中で欲しくて迷っている。フィッシャーディースカウのベストを聞きながら、シューベルト歌曲全集があったら心安らぐだろうな、と夢想している。
前田耕作氏の「玄奘三蔵、シルクロードを行く」を読んだ。三蔵法師のシルクロードの旅を、まさに追体験している面白い本だ。生きた三蔵法師の息遣いが聞こえてくるような旅の再現である。他者の経験したことを自分のことのように追体験するのは私の目指す所である。学芸員の友人と話して、ヨゼフ・ボイスは飛行機で墜落してタタール人に助けられたときに、フェルトでくるまれ、脂肪を傷口に塗って介抱された、その原体験を啓示のように感じて創作活動に生かしたという話をして、タタール人に介抱された話は作り話だと言う人がいるけど事実に違いないだろうと意見が合う。ヨゼフ・ボイスの墜落体験も夢を誘うリアルな話だ。そんな逸話のディテイルを想像しつつ日々の旅は続く。


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<span itemprop="headline">未来派考、振り返らずにただ走りたい</span>

2010-05-07 13:24:49 | 無題
塚原史氏の「言葉のアヴァンギャルドダダと未来派の20世紀」を読んだ。この本は20世紀の終わりに書かれ、世紀末の変革への期待や漠然とした不安を反映している。そうは言っても廉価でダダと未来派について教えてくれるご機嫌な本であることは間違いない。1909年未来派宣言がマリネッティによって発表される。未来派宣言にはスピードに憧れてドライヴに繰り出し自損事故に終わった笑い話が前段として載っている。その後本格的な宣言が表明される。
われわれは危険への愛、活力と無謀さの習慣を歌うことを欲する。われわれの詩の不可欠な要素は、勇気と大胆さと反逆であるだろう。世界の華麗さが新しい美によってゆたかになったことをわれわれは宣言する。それは速度の美だ。爆音をとどろかせる蛇のような太い管で飾られたボディを持つレーシング・カー咆哮をあげて機械掃射のうえを走りぬけるような自動車はサモトラケのニケの像よりも美しいわれわれは歌うだろう。労働、快楽あるいは反逆に煽動された大いなる群衆を(略)。われわれは歌うだろうプロペラが風に吹かれる旗の音と熱狂した群衆の拍手喝采の音を立てる飛行機のすべるような飛翔を。それは宣言で始まり集会で広められる大衆煽動的な芸術の誕生であり、美意識の徹底的なモダニズム化だった。
詩を書くうえでどうすべきかを続く「未来派文学の技術的宣言」でマリネッティは述べる。名詞を思いつくままに並べて統辞法を破壊せよ動詞を不定法のままで活用させずに用いよ形容詞を廃止せよ副詞を廃止せよ、つまり刺激的な名詞の羅列で詩を作れというのだ。さらに彼が提唱したのは無意味言語の羅列である。
これに対しトリスタン・ツァラのチューリッヒ・ダダはさらに徹底したハプニング的な無意味と破壊の祝祭だった。1916年のダダ宣言では、「ダダはぼくらの強烈さだ。それは一貫性もなしに銃剣を打ち立てるドイツの赤ん坊のスマトラ頭。ダダはスリッパも地図の緯度もない生活だ。それは統一に反対で賛成で、未来にはきっぱりと反対する。」と言う。ダダ宣言1918でツァラは言う。「ダダは何も意味しない。」ダダの言語はイメージを喚起する語の無秩序な羅列だった。
パリに飛び火したパリ・ダダの無意味化の上にシュルレアリスムがやがて花咲く。スローライフの今日的空気と当時の前衛の時代とは決定的に美意識が違う。ただ、意識の先鋭的な部分を生きたいという叫びは、失われた実験精神とともに訴えかけてくるものがある。
いつの世も変わらぬ青さ抱きつつ振り返らずにただ走りたい


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