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奈良明日香村にある日本初の寺院「豊浦寺跡・向原寺」訪問記 on 2016-12-22

2017年05月08日 04時19分24秒 | 奈良情報
2016年12月22日に訪問した向原寺(こうげんじ)の写真を紹介します。

向原寺はかって日本初の古代仏教寺院「蘇我稲目の向原邸」や豊浦宮(592-603)という宮殿、
さらに日本最古の尼寺「豊浦寺」があったところとされています。

豊浦寺は飛鳥時代には大官寺、飛鳥寺、川原寺、坂田寺と共に五大寺に列せられていました。

向原寺の基本情報

住所:奈良県高市郡明日香村豊浦630 TEL:0744-54-2512
別称:広厳寺  宗派:浄土真宗本願寺派 山号:太子山 御本尊:阿弥陀如来
開基:蘇我稲目(506?~570)552年創建 現住職:蘓我原敬浄さん


今回「向原寺」をテーマとして取り上げたのはBSプレミアムで2010年4月10日放送された
新日本風土記「飛鳥」で向原寺の住職の蘓我原敬浄さんが取り上げられていたからです。
放送であった紹介されたものも引用紹介させていただきます。




上の2枚の写真は向原寺(こうげんじ)の本堂と本堂の蟇股





上の2枚の写真は現地の説明板

ここでWikipediaより歴史を辿ってみます。(一部加筆)

『日本書紀』欽明天皇13年(552年)10月条の仏教初伝の記事によれば、この年、百済の聖王(聖明王)
から献上された仏像を、蘇我稲目が小墾田の家に安置し、その後向原の家を浄(きよ)め
捨(から)ひて寺とした。その後、国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿と
中臣鎌子はこれを外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神の怒りであるとして、
仏像を難波の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまった。
『元興寺縁起』にも同様の話があるが、同縁起では仏教初伝を戊午年(538年)のこととし、
向原を「牟久原」と表記している。

豊浦宮(とゆらのみや)は592年、崇峻天皇が暗殺されて推古女帝が即位した時に建てられた
宮殿である。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は推古天皇(554-628)の和風諡号である。
推古天皇の即位年月日は崇峻天皇5年(592)12月8日(新暦換算では593年1月15日)
だが、急な即位であったため蘇我氏の邸宅の一画を間借りした程度の仮殿であったと考えられます。
その後は推古天皇の小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮と田中宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の
飛鳥川原宮と後飛鳥岡本宮、 天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮と約100年間、飛鳥に
宮殿が建設された。
(一時期、難波宮(孝徳天皇)と大津宮(天智天皇&弘文天皇)の時代在り)
 参考:日本の首都の変遷

『元興寺縁起』によれば、乙巳年(585年)、止由良佐岐(とゆらさき、豊浦先)に刹柱(仏塔の心柱)を
建てたとあり、癸丑年(593年)に等由良(とゆら)の宮を寺として等由良寺と称したという。
ただし、『日本書紀』では推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)から小墾田宮(おはりだのみや)に
移ったのは同天皇11年(603)のこととしている。
『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には舒明天皇6年(634年)に豊浦寺の塔の心柱を建てたとあり、
福山敏男は豊浦寺の創建は舒明朝であるとしている。
ただし、『書紀』における「豊浦寺」の初見は舒明即位前紀(628年)で、山背大兄王が
叔父(蘇我蝦夷)の病気見舞いのために「京へ向かい豊浦寺に滞在した」(向京而居豊浦寺)
とある。



上の写真は向原寺の境内の「豊浦寺址」の石碑




上の2枚の写真は向原寺の脇にある難波池(なんばのいけ)と現地説明板
Wikipediaの説明で記載されているように蘇我氏の基礎を築いたとされる蘇我稲目は向原の地に
邸宅を持っていた。百済の聖明王が初めて我が国に仏像、仏典、仏具をもたらした時、蘇我稲目は
仏像を譲り受け、向原(むくはら)の家を寺としてこれを信奉したという。
これが後の豊浦寺の前身で我が国で最初の寺院である。だが、その直後に疫病が流行したため、
反対派の物部尾輿らに寺は焼かれてしまい、仏像は難波の堀江に捨てられた。
その難波池から江戸時代の明和9年(1772)、観音像の頭部(4.1cm)だけが発見された。
当時は百済伝来の仏像の残欠として喧伝され話題になったようだ。だが、廃仏派によって西の国へ
帰れと難波の堀江に捨てられたのは、釈迦像であって観音像ではない。
だが、日本最初の尼寺である豊浦寺で祀られていた仏像である可能性があった。
昭和49年(1974)9月上旬、寺宝として本堂の内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像
(上記の首を利用)が厨子と共に忽然と姿を消した。
昭和49年(1974)9月9日付けの読売新聞朝刊は「厨子ごと観音像盗難 
明日香向原寺 仏首は白鳳の作」との見出しで、この盗難事件を報じています。
盗まれた金銅製観音菩薩立像が、2010年の9月、実に36年ぶりに発見され、
無事に向原寺に戻った。(仏像は会員制のオークションにかけられていた)

現地説明版に善光寺縁起に難波池に関する記述があると書かれています。




上の2枚の写真は向原寺の遠景


上の写真は向原寺の山門




上の2枚の写真は丹比の真人国人作の歌碑(万葉集巻8-1557)と現地説明板


上の写真は薬師堂


上の写真は納骨堂?


上の写真は境内の脇の基壇


上の写真は境内脇に設置された石製の仏像2体 奈良善光講が寄進か?


上の写真は境内脇に設置の「伎楽伝来の地」の石碑 2010年7月23日設置

『日本書紀』六一二年に,百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本に伝えるや、聖徳太子が桜井に
学校を設け、それを伝授させた旨がみえる。その『桜井』が,韓国の李應寿の調査 研究
(日本演劇学会紀要四七)により、新たにこの付近に比定されたので、碑を建て、韓国と日本の
演劇交流の始原を記憶するものとする。
    二〇一〇年七月二三日
      韓国文学を憶う会


さらに詳細は下記サイト:http://hamadayori.com/hass-col/art0/Gigaku.html




上の2枚の写真は境内に掲示されていた新聞の切り抜き
昭和60年(1985)4月25日毎日新聞(朝刊&夕刊)
産経新聞 平成26年(2014)3月29日 産経新聞

これらの記事より一部を引用紹介します

「向原寺は元善光寺とも呼ばれる。欽明朝に百済よりもたらされた仏像は、蘇我氏によって
向原の寺で祀られていたが、廃仏派の手により「難波の堀江」に棄てられた。それを信濃国の
本田善光が拾い上げ信濃に持ち帰ったのが長野の善光寺だそうだ」


これからは、BSプレミアムで2010年4月10日放送された新日本風土記「飛鳥」で紹介の
向原寺と住職の蘓我原敬浄さんに関するものです。


上の写真は昭和60年(1985)に講堂跡(搭載30m、南北15m)の発掘調査時、さらに下の層に
豊浦宮跡の柱跡と石敷きが発見されました。これこそ豊浦寺の前身である豊浦宮である。


上の写真は向原寺の住職の蘓我原敬浄さん




上の2枚の写真は向原寺の境内で豊浦宮の説明を受ける参拝者と向原寺の住職の蘓我原敬浄さん




上の2枚の写真は資料の中の蘇我稲目と百済からの仏像(釈迦像)


上の写真は日本書記に記載の蘇我稲目の向原の家の部分


上の写真は向原寺の住職の蘓我原敬浄さんが都塚古墳で蘇我稲目を供養する法要の様子



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