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尼崎生まれの国学者 契沖の生誕地の碑 on 2019-3-3

2019年04月04日 04時04分36秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年3月3日、平成30年度尼崎市立文化財収蔵庫出張企画展「尼崎史を彩る人びと」
の学芸員解説を聞くために阪神尼崎駅周辺に来ていました。

尼崎市立中央図書館の南側に「契沖の生誕地の碑」を見つけました写真紹介します。


上の写真は「契沖の生誕地の碑」です。

契沖阿闍梨(1640~1701)についてWikipediaと説明文から引用要約してみました。

契沖(けいちゅう、寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))は、
江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。古学の祖。
寛永17年(1604)契沖は、尼崎藩主青山幸成に仕えた下川元全(もとたけ)の三男
として摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。
母は九州小倉細川家の家臣間〔はざま〕七大夫の娘。
呼び名として釈契沖、契沖阿闍梨とも。俗姓は下川氏、字は空心。
祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・元全(もとたけ)は尼崎藩士から
牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざる
を得なかった。幼少時、父母から「実語経」や「百人一首」などを学び、11歳で
大坂今里の妙法寺に入り、真言宗の僧となりますがそれらは契沖の生き方の基盤と
なります。高野山東宝院快賢に師事し24歳で阿闍梨位を授かりますが出世を望まず、
己の信ずる仏道者の道をひたすら歩みます。
高野山についで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の
住持となり、その間に下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を
遍歴して、大和の長谷寺にいたり17日間も絶食念誦し、室生寺では37日間、命を捨てようと
したほどの激しい煉行をした。高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、その後、
和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)
の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。
延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝6年(1678年)、妙法寺住持分
となった後、晩年は摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の円珠庵で過ごした。
没後の明治24年(1891年)、正四位を追贈された。
国学者としての契沖は40才半ば頃、水戸光圀から依頼の「万葉集」の全注釈書「万葉代匠記」
を始め、その後の歴史的仮名遺を発見、体系化した「 和字正濫抄」などを従来にない論理的
実証法で著し、「古学の祖」と称えられています。
契沖の表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。
また契沖には六千余首を収めた「漫吟集類題」などの歌集があります。作歌は、契沖の心の
塵を払う「玉箒」となったからです。契沖は、歌は「果無きことを詠む」と人間の自然の
感情を詠むといいます。だからこそ「玉箒」が必要なのです。真実は、自由で、清澄な
心の眼でしか見えないからっです。
元禄14年(1701)62歳で大坂高津の円珠庵〔えんじゅあん〕(現大阪市天王寺区空清町)で
亡くなりました。



この碑は、平成17年10月18日、契沖研究会により建立。
契沖の墓は、高野山にあるそうです。

説明文を拡大したものを添付しておきます。(下の写真)





上の写真は「契沖の生誕地の碑」の横に設置の石碑で「契沖生誕地の比定地」と
書かれています。側面には「契沖研究会10周年記念で建立」との記載もありました。


上の写真は契沖の肖像画(部分)です。
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