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ショスタコーヴィチ交響曲第10番に対する批判へのオイストラフの意見

2014-04-14 21:40:39 | メモ

ショスタコーヴィチの第10交響曲の初演(1953)後の賛否両論の中、ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)は以下のように述べています。(『音楽芸術』1954年12月号)


【残念なことに、ショスタコーヴィチの第10シンフォニーの討論会に出席することができませんでしたが、その討論については「ソヴィエト音楽」6月号に載った報告を読んで知りました。

 第10シンフォニーは非常に熱心な議論を巻き起こしたのでした。起こさないということはあり得ないのです。なぜなら、そのような作品に無関心でいることはできないからです。すべての大きな芸術作品がそうであるように、そのシンフォニーは思想を呼び覚まし、心にかかる多くの創作問題を考えさせずにはおきません。

 ところで、討論会で行われたレニングラードの音楽評論家ユーリィ・クレムニョフ(ソ連の音楽学者、1908-1971)の演説は、私を非常に悲しませました。というのも、ショスタコーヴィチの新作に関する彼の、はっきりと否定的な意見が私の意見とかけ離れているからではなくて、この批評家がここで妙な、私からみれば訳の分からない「耳のわるさ」を示しているからなのです。彼は、そのシンフォニーを聴いても、その芸術的な核心、そのペーソスを作り上げているところのものは聞こえなかったのです。その深い感動的なドラマティズムに満ちた、鮮明な、対照的な緒形象の葛藤の上に組み立てられたシンフォニーには、「本当のテーマ、本当の、歌うようなリズミックなそして和声的な彫り - これらはリアリズム音楽の基礎なのですが - がなく、その主題性は不明瞭でだらだらと長く、しっかりと形づくられていないので、意識にも感情にも強く残らない...」などと音楽家が断言できるというのが私には全くわかりません。

 クレムリョフの耳と芸術的感覚がそのとき彼を誤らせたのだと思われます。ある作品の思想的概念に不賛成を唱えることはできます。ある作曲家の作品を好まず、彼と議論することもできます。しかし第10について、「シンフォニーの主題性は不明瞭だ」とか、「意識に強く残らない」とどうして断言することができるでしょう?

 私は決してショスタコーヴィチの手放しの崇拝者ではありません。彼の作品のうちのある作品を熱烈に愛してはいますが、他のある作品については私は批判的に評価しています。しかし、第10シンフォニーは私に最も強い印象を与えました。そのシンフォニーには私が信じないところのものは何もありません。表面的な効果を狙ってい書かれたものでもありません。そのシンフォニーは、高度の道徳的な基礎、深い人間性、偉大な愛国芸術家の誠実な感覚に貫かれています。その力は、壮大なドラマティズム、鋭い葛藤、魅力的な美しさ、そして形象性の正しさの中にあります。】


。。。さすがに偉大なヴァオリニストの言うことは客観的でマトを得ていると思います。批評家の横暴にも普遍的な苦言を呈しています。それにしても、一曲の交響曲について音楽学者が「演説」しちゃうって、ソ連って本当にすごいところだったんですね!

↑ ムラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、オイストラフ。「プラハの春」音楽祭にて