チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

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バーンスタインが失敗した英雄交響曲(小林研一郎氏の感想)

2015-07-14 23:15:44 | メモ

『ディスクリポート』1983年11月号に、小林研一郎氏がバーンスタインのコンセルトヘボウでのリハーサルに立ち会ったときの感想が書いてありました。



いつのことだかわかりませんが、さぞかしすばらしいリハーサルだったんだろうなと思いきや、逆にバーンスタインには珍しい(?)失敗例でした。

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コンセルトゲヴォーでのリハーサル。その日はベートーヴェンの「英雄」であった。最初提示部を通奏した時、深い響きが鳴り渡り、僕はさすがと感激して聞き入ったものだ。が、ダ・カーポといってから音楽は突然方向を失いはじめる。

カラヤン氏は「オーケストラは生き物である。例えが悪いかもしれないが、馬にたとえるなら、馬にも行きたい方向、したくないこと等、多々あるであろう。うまい騎手ほど馬の心を察知するに敏であり良いタイミングでそれを動かす」....と話されたことがあったが、この言葉の示したようなことが起こったのだ。

この日のオーケストラは、バーンスタイン氏の指示に対しひどくとまどいを見せた。長い歴史はこのオーケストラに独特の響きを植えつけて来た筈である。そしてそれは個性として完全に彼等の上に定着してしまっていたはずである。それを氏は破壊する方向をとり始めたからだ。これには驚愕した。

大抵の指揮者は例えむきつけに自己を主張する指揮者であっても、そのオーケストラの個性、必然的に持ち合わせている響きは尊重する。三流のオーケストラならいざ知らず、いや、それですらボーイング1つ直すのに、フレーズ1つ違うことを要求するのにどれ程多くの困難が待ち受けていることか。だからこの日の氏には固唾を飲んで見守るという形容がぴったりのリハーサルとなった。

氏は、「英雄」をアメリカナイズされた響きにしようと特に意図しているように思われた。「英雄」に執拗に表われるスフォルツァンドをジャズのようにと何度も希望していた。強奏の部分では、正に踊りのように何度も指揮台の上で飛びはねるのであった。

最初は熱気に満ちていた楽員達は、暗く沈みイスに深々ともたれて、ただ時の過ぎ去るのを待っているだけの様な感じさえ受けた。そんな精神状態でのコンサートがうまく行くはずはなかった。リハーサルで方向を失って暗中模索そのままの形がコンサートにあわわれてしまったのである。氏のような偉大な指揮者にしても、自分の意図がオーケストラから歓迎されない時には、全く興ざめなコンサートをもたらすという好例かもしれない。
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バーンスタインが指揮台で飛び上がるのはジャズっぽく演奏しろ、のサインだった!?