『音楽芸術』1996年2月号にショスタコーヴィチ交響曲第14番「死者の歌」初演についてのルドルフ・バルシャイ(Rudolf Barshai, 1924-2010)の興味深い証言が載っていました。
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ショスタコーヴィチと親しくさせてもらっていた私としては当然、私のモスクワ室内管弦楽団のために作品が欲しかったのです。
この初演に関しては、大変有名で寂しいエピソードがあります。演奏の最中に誰かが倒れ、病院に運ばれる途中で亡くなったというのです。
それはアポストロフといってソ連共産党中央委員会の音楽担当部長でした。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の発表以来、終始一貫、彼の弾圧に当たってきた人です。
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Pavel Apostolov(1905-1969)ゴルゴ13に出てきそうなかたですね
実際にはアポストロフが心臓発作で倒れたのは初演前のリハーサル中(1969年6月21日)であり、亡くなったのは約一ヵ月後の7月19日だということですが確かにちょっとだけ呪いっぽいですね。
ところで、第14番の初演に関してはもうひとつ、別のトラブルがありました。
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ショスタコーヴィチは演奏が終わるや楽屋に飛び込んできて、神経質に爪を噛みながら、大変な早口で「これだけは厭だった。これだけは大変厭だった」と繰り返しました。
準備の段階で、ショスタコーヴィチからソプラノにガリーナ・ヴィシネフスカヤを起用する案が出ました。ところが、その頃、ヴィシネフスカヤは大変忙しく、なかなかリハーサルに現れませんでした。
ある日、ショスタコーヴィチが「今、私のオペラで大変素晴らしい歌手が歌っているので、そのオペラを聞きに行こう」と言いました。それが、マルガリータ・ミロシニコワです。
ショスタコーヴィチから私に「すぐ電話がほしい」という電報が届きました。私が電話すると、彼はいらいらした声で言い出しました。
「お願いだから僕を助けてくれ。二人のプリマドンナから私を救ってくれ。」
彼が言うには、二人のプリマドンナが交互に電話を掛けてきて、一人は泣きの一手、もう一人には罵詈雑言で責められ、困惑しているというのです。
私は直ちに彼の家へ行き、こう提案しました。
「よく劇団がやるように、チームを二つ作るのです。第1チームの初演ではミロシニコワが歌い、第2チームの初演ではヴィシネフスカヤが歌うわけです。」
ショスタコーヴィチは「ソロモンの裁きだ」と大喜びし、部屋の中を何度もグルグル回ったものでした。
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1969年9月29日のレニングラード初演時のソプラノ、マルガリータ・ミロシニコワ(Margarita Miroshnikova, b. 1932)
1969年10月6日のモスクワ初演のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(Galina Vishnevskaya, 1926-2012、ロストロポーヴィチの奥様)
。。。どちらが泣きの一手でどちらが罵詈雑言だったのかはわかりませんでした。