中さん

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日記(3.4)コラム「佐藤安太」氏

2019-03-04 15:56:16 | 日常
3月4日  (月曜日)   雨

耕運機の修理代金を払いに行った玉井地区だが
新道路工事があっちこっち出来ていて
中山道からはどこも行き止まりだ。

バイパス側から入ったほうが良いかも!

雨の中、少し歩いてK車両工業まで行く。
帰りにNクリニックによって肩のリハを行う・治ったかと思うが
まだ、滑車ロープで引くと痛みがある。
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コラム
その少年は13歳の時、
高台の洋館に住んでいた一人のお嬢さんが気になってしかたがなかった。
~~~~~~~~~~~~~
▼ 赤い屋根。
   庭にはブランコ。
   1937(昭和12)年ごろの福島での話。
 当時としてはモダンな家だったのだろう。
 女の子は少年と目が合うと、ニコッとほほ笑む。
 少年は洋館の前を行ったり来たりしていたそうだ。
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▼約30年後、大人になった少年はお嬢さんの面影からある人形を考える。
 今なお子どもたちにかわいがられているリカちゃん」人形である。
 「リカちゃん」の生みの親で、

  玩具メーカー、タカラ(現タカラトミー)創業者の佐藤安太さんが
  亡くなった。94歳


▼「ダッコちゃん」
 「人生ゲーム」
 「チョロQ」
 「フラワーロック」
 「トランスフォーマー」。
~~~
  昭和、平成の子どもの恩人ともいえる
 「おもちゃの王様」の旅立ちが寂しい。

▼「リカちゃん」には両親や妹に弟、大勢の友人の人形が存在する。
 同じ着せ替え人形でも
 米国のバービーには両親の人形はないそうだ。

 佐藤さんの幼少期、両親が製材所に働きに出るため、
 独りで留守番することが多かったそうだが、
 あのお嬢さんには寂しい思いをさせたくなかったか!

▼子どもの心が分かる人だったのだろう。
 傑作おもちゃの数々は子どもたちを楽しませ
 寂しい時間までも忘れさせてきた。

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★ 雨では何もできずTV観戦とネットサーフィン。
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日記(3.4)ボルトン氏

2019-03-04 13:46:18 | 日常
3月4日 (月曜日)   雨 

まあ!関係などないが・・ニュースは気になる・・
今回の米朝会談の物別れを
ボルトンの参加が原因だと言っている方が!
~~~~~~~~~~~~~~~~
トランプと金正恩とのハノイでの会談には世界中が注目していた。
2人の間でディールを成立させることに熱心だった。
ところが蓋を開けてみると、会談はあっさりと破綻し、物別れに終わった。
共同会見もしないまま、金正恩とトランプは自分の国に向けて帰って行った。

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会談物別れの原因については
決定的だったのは、この会談にトランプがボルトンを参加させたことだ。

 トランプと金正恩との駆け引きにボルトンが口を挟み、
 ●核兵器の即時全面廃棄とならんで、
 ●生物兵器など他の兵器についても廃棄することをせまった。
 ●それを聞いた金正恩が、そんなことをいうなら、
 ●アメリカも経済制裁の即時全面撤回をすべきだと、

 売り言葉に買い言葉の応酬になり、
 結果として会談が決裂したということらしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^
 ボルトンは、もともとこの会談には否定的で、
 できればぶち壊したいと考えていたので、
 目論見はあたったわけだ。

 この男はウォー・モンガーとして知られており、いわゆる戦争屋だ!
 かつて
 ●イラク戦争を主導したほか、
 ●イラン核合意からの離脱を推進したり、
 ●北朝鮮に対しては先制攻撃を主張していたような人物だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その人物が、北朝鮮にとって絶対呑めない条件を持ち出して、
 話し合いをぶち壊したというのが、
 おそらく真相なのだろう。
 北朝鮮側は、いまのところボルトンを非難してはいないが、
 自分たちのつつましい要求に対して
 アメリカが応じなかったといっている


 今回の会談はボルトンを入れた時から破綻することが決まっていたわけだ。
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 そこで問題は、トランプはなぜボルトンを加えたのかということになる。
 会談にはもともとボルトンが加わる予定はなく、

 ポンペイオのほかには、対北朝鮮大使として
 今回のお膳立てに苦労したビーガンが出るはずだったが、
 そのビーガンはテーブルの背後に追いやられ、
 本来かれが座るはずだった席にボルトンが座ったわけだ。
 ということは、この短い間にトランプが心変わりしたということだろう。
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★真相はわからないが、
 ボルトンという人は米国内でどれほどの力があるんだろうか?
 そしてあのトランプ氏がなぜ会談に参加させたのであろうか?
 流れから行くと不思議なことが起こっているなあ~!。

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日記(3.4)コラム「不易流行」

2019-03-04 08:56:18 | 日常
3月4日 (月曜日)   雨 
きょうは一日中、雨らしい。少々冷たい日。

コラムには”不易流行の事が”

 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり―
 で始まる紀行文「おくのほそ道」の冒頭、

 俳聖松尾芭蕉は、
 >時の流れも、
 その中にあるものも、すべてが流れ行く旅人だ
と記した。

 それから300年以上、旅のスタイルも変化の多い旅を続けている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼芭蕉が「おくのほそ道」の旅で東北や北陸を巡った。
  その約200年後の1893(明治26)年、
  俳人正岡子規は、芭蕉の足跡をたどり旅に出た。


  ただ芭蕉が徒歩で越えた白河の関を子規は列車で越えた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▼列車の旅で愛される駅弁が県内に登場した時期は定かでないが、
  白河駅では子規が訪れたこの年、
  駅前の旅館が販売を始めたと白河の歯科医渡辺友彦さんの文章にある
  (歴史春秋社「白河」)

 ▼駅弁を取り巻く環境も変化が大きい。
  ローカル商品だった駅弁が、今や駅を飛び出し全国で物産展の目玉だ。
  一方、東日本などJR4社は弁当などの車内販売を3月16日から大幅に縮小する。
  利用者減少と販売員確保の難しさが理由だという。


 ▼見慣れた旅の風景が変わることに少し寂しさも覚えるが
  芭蕉の句の神髄といわれる不易流行の言葉も思い出す。
  変化の中に普遍的なものがある。
  過ぎ去る時代を惜しむのも旅情の一つだろう。

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不易流行
「不易」とは、たとえ時が経とうとも変わらないもの。
「流行」とは、時とともに移ろい行くもの。


芭蕉は、元禄二年、『奥のほそ道』の旅
(江戸・深川から、奥州-現代の東北地方・北陸をめぐり、岐阜の大垣に至る旅)に出ました。
 これは旅に出たいという衝動に突き動かされたためと、
 古くから和歌に読み込まれてきた景勝地(歌枕という)、
 また、源義経ゆかりの地をこの目で見てみたいという、強い欲求にかられたための旅でした。


 その旅の中で、芭蕉は、昔から和歌に歌われてきた憧れの地が、
 実際は変わり果ててしまっていた悲しい現実に出会い、落胆したりします。

 しかし同時に、古来言い伝えられてきたそのままに今も残るものに感動したりもします。
 その旅の中で、「不易流行」という真理を体感してゆくのです。
 俳諧の概念というよりは、この世の真理として、まず到達した考えのようですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「世の中は移り変わってゆく…。
  その、『永遠はどこにもない』ということこそが、
  永遠に変わらない真理なのだ」とする考え方もあります。
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★鈍行で旅をするのが好きだったので
 駅弁は特に楽しみの一つでもあった。
 列車の窓から忙しくお金と交換があわただしかったなあ~!

 20歳になるころ14泊15日という九州一周旅行に出たときは
 特に初めての場所なので駅名の珍しさや
 史跡・土地の風土や祭り・神社・城・民謡などが記憶に焼き付いている。
 当時の日記にはスケッチもあって懐かしい。
 駅弁は味の記憶まで強い。
 それらが消えてゆくのか!寂しいことである。
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