夜な夜なシネマ

映画と本と音楽と、猫が好き。駄作にも愛を。

母のこと。その2。

2024年04月12日 | まるっきり非映画
昨日の朝、母が亡くなりました
一夜明け、寂しくはありますが、弟を失ったときの悲しさとは全然違います。
寂しいけれど、悲しみに暮れるというのとは違う。
 
昭和一桁生まれって凄いなぁと改めて思ったのは、大阪府北部地震のとき。
箕面在住の我が家も揺れは過去最大に感じたものの、食器がいくつか割れた程度。
茨木に住む両親に連絡して「大丈夫だった?」と尋ねたら母が「うんうん、大丈夫」。
実家に行ってみてたまげました。「ようこれで大丈夫や言うたね」と。
 
家具という家具はすべて倒れ、食器はほぼすべて見事に割れている。
足の踏み場もないほどの被害で、そのうえガスも止まっているというのに、大丈夫!?
「うん、でもね、生きてるから。命があれば」と母。
 
幼い時分に結核を患ったそうですが、それ以降の母はいたって元気。
女性が車を運転するのはまだ珍しかった時代に仕事で車に乗りこなしていたらしいのに、
父と結婚するとき、自転車すら乗れない父に「車の免許、どうしよう」と聞いたら、
父が「要らないだろう」と言ったらしい。
そう言われてその通りにする母も母ですが、免許を更新せず。
結果、どこに行くにも徒歩か自転車だったおかげで健脚。
水泳も続けていたから、本当に病気知らずでした。
 
私の知る限り、母は寝込んだことがありません。
朝起床して「風邪をひいたみたい」と言っていても、晩には元気になっている。
だから、「今日はしんどいから御飯は作れない」と言ったこともない。
それゆえ私が御飯の支度をしなければいけない状況になったこともなく(笑)。
どんだけ元気やねんと思っていました。
 
今年に入って母の手足と顔にも浮腫が出てきて、私は癌の進行を感じていましたが、
母自身はそんなことを一切感じておらず、「毎日異様に眠たいねん。病人みたい」と言うので、
「お母さん、一応、病人やから」と言ったら「あ、そっか」。ふたりして笑いました。
 
本人はしんどくもなんともないと思っているせいで、末期癌なのにホスピスの面談にも行けず。
昨春に病院の地域連携室担当者がホスピスに連絡を取ってくれましたが、
「自覚症状がもう少し出てきてからでないと」と断られた経緯があります。
そりゃそうだ、本人どこも痛くないしんどくない、何もかも自分でできているのですから。
 
いろんなことを思い出します。
 
池田に住んでいた折、台所の食卓に広げた新聞を読みながら座ったままの母は、
後方のガス台横に置いた炊飯器のスイッチに手だけ伸ばして押さえている。
「お母さん、何してるん」と尋ねたら、「スイッチのバネが壊れてるねん。
お米はちゃんと炊けるから、こうして炊き上がりまでスイッチ押さえてたらええやん」。
確かにそうやけどと大笑いしました。
 
弟が買ってくれた自転車がなくなったと電話してきたこともありました。
「マンションの自転車置き場にないねん」。交番にも届けたそうです。
ところがその夜、ふたたび母から電話がありました。
「自転車でプールへ行って、帰りがけに向かいの関西スーパーへ寄ってん。
関スーからそのまま歩いて帰ってきてしまった」。
実家はマンションの9階。夜になって窓から関スーの駐輪場を見たらチャリが1台。
まさに母が置いてきたチャリがそこに。交番にただちに謝りに行ったとか。
 
笑ってしまう思い出が多いけれど、この数ヶ月は浮腫のせいで転ぶことも何度かあって、
それでもまだ運動不足のせいだからもっと歩かなきゃなどと言っていた姿を思い出すと切ない。
LINEが既読にならない母を心配して実家に駆けつけたら、
寝ていた母が解錠しようと慌てて玄関まで走ってきたために転んだこともありました。
ごめんね、お母さん。
 
悲しかったことはあまり思い出さないようにするわ。それもごめんね、お母さん。
やっぱりありがとう、お母さん。

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母、逝く。

2024年04月11日 | まるっきり非映画
2023年4月11日。今朝、が亡くなりました。
 
医者の見立てって凄いものですね。
先月16日の時点で「あと数日か1週間か、2週間か。3週間はもつことがあったとしても、
1ヶ月は絶対にもちません」と断言され、本当に3週間はもったけれど、1ヶ月には足らず。
 
面会の帰り際、「また明日ね」と言うと、「『また』あるかなぁ」と言うので、
「なんでよ、お母さんが危なくなったら、看護師さんがすぐに電話くれはるねんで。
そしたら私、駆けつけるやん。私が来るまで待っててくれるでしょ?
だからあるで、『また』」と言ったら、「うん」と言っていました。昨日も。
 
入院して持ちなおした直後は、自分が死ぬなんて全然思っていなかったのだと思います。
しばらくしてようやくこれは最期に近づいているなと悟った様子。
でも全然取り乱すこともなければ、投げやりになることもなかった母。
 
2週間前、「今からホスピスに移ることできるん?」と母が聞くので
(あと1ヶ月はもたないので、ホスピスに移ることは現実的でないと主治医から言われていました)、
「え、なんで? この病院が嫌なん?」と聞いたら、母は首を振り「ううん、そやなくて、暇やから」。
暇やから転院したいは通らんと思うわ、お母さん。一緒に笑いましたねぇ。
 
面会時はいつも意識がはっきりしていて、笑うことしょっちゅう。
あるときは「もう出してください言おかと思て」。私が問う「何を?」。母「葬式」。
母も私も爆笑。
 
今週初めにやはり意識低下で呼ばれたときは、「お母さん、今日お釈迦様の誕生日なんやて。
お母さんお釈迦様に引かれて行くんかと思たのに」と言ったら、「私もそのつもりやってんけど」。
「誰が『まだ来るな』言うて押し戻してはるんやろな」と笑いました。
 
お葬式でかけてほしい曲を尋ねたら『アヴェ・マリア』だと言う。
「お母さん、そりゃええ曲やけど、御仏前で『アヴェ・マリア』はやっぱりマズイんとちゃう?」と言うと、
「あ、そっか」とまた母笑う。
好きな花を尋ねたら、「野に咲いてるみたいな小さな花。ヒトリシズカみたいなやつ」と言ってました。
それもお葬式では飾りにくい花やなぁ(笑)。
 
昨日までに、会いたい人にはみんな会った。
会えなかった人もいるけれど、母に代わって私が電話して話をした。
もういいわと安心したのかなと思います。
 
今朝3時に母と話したと言う看護師さん。
母が「今日逝くと思う」と言っていたそうです。「有言実行の人ですね」と一緒に泣いてくれました。
 
心拍数が30を切り、いよいよ最期かなというときに耳元で「お母さん、ありがとう」と言ったら、
母の目から涙ひと筋。たまたまかもしれないけれど、聞こえていたのだと思いたい。
 
お母さん、ありがとう。

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母のこと。

2024年03月21日 | まるっきり非映画
1930(昭和5)年生まれ、93歳の母がその生涯にもうじき幕を下ろそうとしています。
 
母にとっての息子、私にとってのが亡くなったのが一昨年のこと。
あのときは悲しくて悲しくて、だけど息子に先立たれた両親のほうがより悲しかろうと思うから、
私の家とめちゃ遠くもないけれど至近距離にあるとは言えない実家へ仕事帰りに毎日通いました。
後から考えると、よくもあんなに毎日寄れたものだと思います。
母とあの頃のことを振り返り、「みんなアタマおかしくなってたもんね」と話しました(笑)。
 
その年の11月、母の貧血の値がよくないということで総合病院で診察を受けたら、大腸がんだと判明。
手術で切除し、高齢とは思えないほどの回復力を発揮して1週間で退院。
術後の経過も良くて安心していたところ、昨年5月に肝転移していることがわかりました。
 
しかしまったく自覚症状がなく、あまりになさすぎてホスピスでの面談も叶わず。
もうちょっと自覚症状が現れてから予約を取ってくださいと言われてずっとそのまま。
6週間毎に受けている診察では、主治医曰く「もう数値が良くはなることはないが、最悪ってこともない」。
昨年12月に93歳の誕生日を迎えた頃、手足に浮腫が出てきたものの、眠い以外は元気で。
なにせ主治医からは昨年肝転移した時点で「年を越すのは難しい」と言われていたのに、
余裕で年を越して3カ月以上過ぎたのです。
 
今月7日の朝、電話してきた折に「起きて着替えたんやけどね、なんか夢見てるみたい。これは現実かな」と言う。
「大丈夫やで、お母さん、ちゃんと現実で私と話してるで」と言うと安心したようで、
午後からは訪問リハビリの人が来られるし、夕方には私も寄るからということで電話を切りました。
 
ところが午後になって訪問リハビリの人から「部屋のインターホンを押しても応答がない」と連絡が。
慌てて駆けつけたらリビングで倒れていました。
命はあってひと安心しましたが、救急車が到着したときには意識混濁。
がんのせいで肝不全を起こしており、食事はちゃんと摂れていたにも関わらず低血糖に陥り、
体温も計測不可能なほど下がっていました。
 
病院に搬送されたのち、ブドウ糖の点滴を受けるも効いている様子はないとのことで、
相当危ない状況ですと言われましたが、なんとか復活。でももう元通りにはなれません。
 
今日明日いつ亡くなっても不思議はない状態で、あと数日か1週間か。
でも1カ月はもたないと主治医から断言されています。
こんな状態ではあるものの意識不明というわけではなく、面会時にちゃんと話ができています。
幸い痛みはないようで、母はおそらく自分が死ぬなんてことは考えていないと思います。
 
思えば、弟の闘病生活が始まるまではスマホはおろかケータイも持ったことがなかった私。
弟が亡くなった後に母の電話代に驚き、92歳だった母にスマホデビューさせました。
電話はできるようになってもLINEは絶対無理だと周囲から言われていて、実際教えてみると本当に大変。
皆さん簡単に「ここを押せば」みたいなことをおっしゃいますが、
年寄りがスマホを持つとこちらの想定外のことが起こります。タップもスワイプも難しいようで。
 
「あー無理、もう絶対無理!」とキレつつ教え続けました。
「あまりスパルタで教えたげんといて、お母さん可哀想」という友だちの横で母が言う、
「うん、でもねぇ、スパルタじゃないと響かないから」。
そして見事、LINEも使えるようになった母。
 
すごく楽しかったです。
まず、スタンプの使い方にセンスがある。適当に押しているわけではなく、正しいスタンプで笑わせてくれる。
「おはよう 大丈夫」に始まり、「おやすみなさい 感謝」までが日常になりました。
私以外の知人友人ともできるかぎりLINEを繋いで、母は「世の中にこんな便利なものがあるなんて」と嬉しそう。
句読点を上手く打てないおかげで、いま話題になっている「マルハラ」なし(笑)。
 
弟の生前は、弟のほうが私よりずっと実家の近くに住んでいたから、何かと弟に任せることが多く、
それほど頻繁には実家に寄らなかったけれど、弟が亡くなったせいかおかげか母と過ごす時間がグッと増えました。
回転寿司未体験だった母と病院帰りに“にぎり長次郎”へ寄って、季節のおすすめランチを食べるのが恒例。
コメダ珈琲店へは私も行ったことがなくて、母と初入店しました。
京都へのお墓参りや、母の友人を誘ってのランチなど、この2年弱でどれだけ思い出が増えたことか。
 
母は他人への不満を口にすることがなく、いつも「感謝感謝の毎日です」と言っていました。
入院中の病院でも私はたまに「ん?」と思うようなことがあるのに、
母自身はそんなことを思ってもみないようで、看護師さんたちのことを「みんなよくしてくれてね」と言ってます。
自分を囲んでくれている人は当たり前に存在しているわけじゃないのだから、感謝しなくちゃ。
私も見習わなければと思う。

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弟のこと。その6。

2022年12月25日 | まるっきり非映画
より少し時期を後にして闘病生活を送り、11月にもうひとり、亡くなった友人がいます。
 
弟のひとつ年下、弟とも面識がある“かしわくん”。
昨冬、体調を崩して病院に行ったときにはすでにステージ4の肺がんだったそうです。
「かしわくんもステージ4のがんやて」と生前の弟に話したら、
「えーっ、かしわくん、大丈夫かいな」。大丈夫かいなって、アンタと同じやがな(笑)。
 
弟の抗がん剤治療が始まるとき、ハゲたときのためのニットキャップを弟自身が選んでいたら、
会社の同僚たちが「ほな、俺らも同じニットキャップ買ってかぶるわ。
この部署全員で同じニットキャップかぶってたら違和感ないやろ」と言ってくれて。
弟は「バリバリ違和感ありますやん」と笑ったそうです。それを聞いて私も泣き笑い。
 
で、会社の人たちからニットキャップをプレゼントしてもらった弟でしたが、
ニットキャップをかぶる機会がありませんでした。
 
弟に遅れること数カ月で抗がん剤治療を開始したかしわくんは、抗がん剤の効果があるらしい。
ならばと「弟が会社の人からもらったニットキャップ、かぶってくれる?」と進呈しました。
「そういう経緯があるなら、より大切にかぶらせてもらいます」と言ってくれたかしわくん。
 
10月なかば、かしわくんの54回目の誕生日に会う機会がありました。
かしわくんから「ご相談があります。ちょっと面白いこと思いついたんで(^^)」と言われ、
いったい何の話だろうと思ったら、このニットキャップについてでした。
 
かしわくんがハゲた時期は夏で、ニットキャップをかぶるには少し生地が分厚かったのと、
デザインがオシャレすぎて「僕には似合わなくて(^^;」とかしわくん。
「それで、向こうで弟さんとお会いできると思うんで、持って行ってお返ししてもいいですか」。
もうやめて~、そんなこと言われたら泣くから。私、号泣。(^_^;
 
かしわくんが言うには、「親より先に子が亡くなるのは親不孝だから、弟さんと僕は同じ。
天国でか地獄でかはわからないけれど、いずれにしても会えると思うんです」。
 
確かに親不孝かもしれないけれど、私は弟を見ていてそんな思いが変わりました。
両親には自分のことをほとんどしゃべらなかった弟が、いつもどんなふうに過ごしていたかは知る由もない。
でも先に亡くなったおかげで、どんな人に囲まれて、支えられて、あるいは支えて生きていたのかがわかった。
かしわくんも弟と同じく独身だから、かしわくんのお母様にしてみれば、
息子がひとり寂しく過ごすんじゃないかと心配だったかもしれない。
でも、かしわくんがこんなにも多くの人と接してきて、受け入れられて、
温かく送り出されるところを見られてよかったとお思いなんじゃないかな。
だから絶対、親不孝じゃないよ、とかしわくんに言いました。
 
私も母とよくそんなふうに話しています。
本当なら最後に亡くなるはずのたけちゃん(=弟です)が先に逝って、みんなで送り出せてよかったやんって。
そうかしわくんに話しました。
「じゃあ私のことは誰が見送ってくれるのよって話やけどね(笑)」と付け足したら、
「ほらね、そう姉に思わせるところも含めてやっぱり親不孝でしょ」とかしわくんから笑われましたけど。(^^;
 
かしわくんの棺には弟からのニットキャップもちゃんと入れてもらえたそうです。
向こうでもう会ってるかな、かしわくんとたけちゃん。

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弟のこと。その5。

2022年12月24日 | まるっきり非映画
が亡くなって半年以上が経過し、まもなく今年が終わろうとしています。

母が「大丈夫になるもんやね」と言うので、「体が?心が?」と聞いたら「どちらも」との答え。
「そやね、寂しいけど、だんだん大丈夫になるもんやね」と私。
悲しみが消えることはないけれど、毎日泣きながらあれやこれやと片付けていたときを振り返れば、
弟よごめん、こんなに大丈夫になってしもて、と思うほど。
 
それでもいまだに見たり聞いたりするとアカン、泣きのツボがあります。
弟との連絡手段が必要になって、私は生まれて初めて持ったスマホ
できるだけ明るい着信音にしようと選んだ“ロボスピーカー”と、
弟からChatworkでメッセージが届いたときの通知音にしていた“Sticky”は、巷で耳にしても泣きそうになります。
今はあらゆる音を一新して、着信音は吉本新喜劇のテーマ曲です。
あれは新喜劇のために作られた曲ではなくて、正式名称“Somebody Stole My Gal”だとご存じでしたか。
 
弟が好きだったと知ったせいで顔や名前を見ると嬉しくも切なくもなるのが、
朝倉未来、篠田麻里子吉高由里子などなど。
“Breaking Down”は少し待てば無料配信されるところ、有料視聴しています。
ほかには闘病中の弟が気に入って飲んでいたQoo、コカコーラや三ツ矢サイダーのチビサイズ、
コーヒー牛乳を見かけるとついつい立ち止まってしまいます。
 
今年はいろんなことがありました。弟が亡くなったからこんなにもあれこれあったと思うのか。
 
弟の死後ほぼひと月後に安倍晋三氏が撃たれ、旧統一教会問題が大きく取り上げられるように。
佐々木朗希が完全試合を達成した4月は弟はまだ元気で、「凄いことになってるよ!」と連絡をくれました。
 
同じく4月。6月におこなわれる羽生結弦のフィギュアスケートショーに友人から誘われて迷っていたとき、
弟は「僕がどうなっているかに関わらず行ってきたらええ」と言ってくれました。
弟が亡くなって2週間後、観に行きました。
 
弟が楽しみにしていた大谷翔平は今シーズン投打ダブル規定到達。
それでもMVPを取れなかったことは弟も残念がっているかも。
 
11月には442年ぶりに皆既月食と天王星食が同時に起こる。
私は適当にしか見なかったけど、弟は空の上からちゃんと見ていたのかな。

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