小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



小田原市城山にある高長寺の墓地入口の無縁塔が集められている一画に剣術師範の顕彰碑が立っている。もともとその場所にあったのか、墓地内にあったものが無縁となり移されたのかは定かではないが、碑の裏面には100名近い門人が名を連ねている。今は訪れる人も無い様で、剣術の師範として多くの門人に慕われていたであろう人物の顕彰碑も墓地の片隅で寂しげに見える。その明治34年に建てられた剣術師範の顕彰碑には鏡信一刀流と刻まれている。碑には鏡信一刀流の由緒や銘文がないためどのような流派なのかは分からなかった。その後、鏡信一刀流がどのような剣術なのか興味を持っていたが最近、郷土史の本の中で鏡信一刀流の記載を見つけ色々資料を探すと小田原独自の剣術であったことが分かった。鏡信一刀流の流祖横田常右衛門豊房の墓が小田原市内にあると知り、先日板橋地蔵尊を訪れた。板橋地蔵尊の境内には多くの石塔がたっているが、入口を入り右手の一画に赤茶けた自然石の石塔がある。石塔には横田常右衛門豊房 石坂四郎治政宣 墓 と刻まれている。この石塔は以前から知っていたが、鏡信一刀流と縁のあるものとは最近まで知らなかった。何故なら、この碑には一刀流元祖伊藤一刀斎影久とあり横田は六代、石坂は七代と刻まれており、伊藤一刀斎の流れをくむ剣術の師範の墓だと思っていたからだった。この碑に刻まれている横田常右衛門豊房は江戸明和年間以降に現在の栃木県二宮町周辺で剣術の腕を磨き、剣術の名人として名声を高めていった。その腕前を見込まれ諸藩から召抱えの手が延びていたが、当時横田常右衛門豊房の住んでいた下野国真岡が小田原藩領地だったので、藩主の大久保忠由が他藩に横田常右衛門豊房を召抱えられることを懸念し小田原城下に連れてきた。横田が小田原城に呼び寄せられた時に、同地生まれの同士石坂四郎治政宣ほか腕のたつ剣豪を引き連れて小田原に乗り込んだ。小田原に呼ばれた横田常右衛門豊房一門はすぐに小田原城二の丸藩主御殿の庭先で御前試合を命じられ、一門いずれの剣士も見事な腕前だったため、横田常右衛門豊房は小田原藩召抱えとなった。横田常右衛門豊房は伊藤一刀斎の流派の六代目を名乗っていたが、この小田原で道場を開くにあたり鏡信一刀流と新流派を名乗った。この鏡信一刀流は小田原藩士のみならず町人にも流行し、明治維新後も流儀が残り大正時代まで印可伝授の伝統を保っていたとのこと。この鏡信一刀流は実際の戦で試されることはほとんど無かったようだが、幕末から維新前後の混乱した時代、箱根戊辰戦争で鏡信一刀流の使い手である無名の小田原藩士が有名な剣豪であった伊庭八郎の左手を切り落としている。板橋地蔵尊の鏡心一刀流の流祖横田常右衛門豊房の墓から10mほど離れた場所には、箱根戊辰戦争関連で無くなった官軍兵士の供養塔もあり、色々な因縁を感じさせる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )