「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 渡嘉敷三良 ( とかしきさんらー ) の墓 」

2016-03-11 06:24:12 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所
























































那覇の国際通りと美栄橋との間の緑ヶ丘公園の中に渡嘉敷三良の墓がある。

この緑ヶ丘公園がある場所は、周囲の地形を見ると王朝以前は、
ガーブ川が作る谷にそびえていた山であったと思われる。
また、十貫瀬 ( 今の久茂地川の流域辺り ) の海岸線を形作っていた断崖で、
沖縄戦で地形が多少変わっていると思われるが、
その山の頂上の平坦地が今の緑ヶ丘公園だと思われる。
その公園内の一際高い丘陵にあるのが渡嘉敷三良の墓である。

渡嘉敷三良は、久米36姓と呼ばれる明からの帰化人で、16世紀の生まれである。
琉球に産業を興した久米人の中で、彼は瓦職人であった。
彼の偉業は、琉球の地に瓦産業を興したことにある。
その技術は子孫に受け継がれ、四世の安次嶺ペーチンは、
当時板葺き屋根であった首里城正殿を瓦葺きに変えた人物だと言う。

当時は内地風の黒い瓦で、赤瓦登場は江戸時代まで待たねばならない。
渡嘉敷の墓は、1600年以前に造られたことはハッキリしているらしい。
400年以上前の墓にしては、豪奢なつくりで彼の人物像が伺い知れる。

渡嘉敷の墓の周囲はきれいに整備されていて公園と一体化しているため、
墓というよりも公園内の丘陵と言う感が強く、
その墓壁には沖縄戦での銃弾の痕跡がいくつも遺っていた。


第4位 みずがめ座 ・ 今日のラッキーポイント 「 アニマル柄の小物 」

2016-03-11 06:01:00 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ

      このところ寒さがぶり返し、
      そのうえ雨まで降ってきて曇天の冬になった。
      このくらいの寒さが好きだけど、
      フロントガラスが汚れるのは嫌だな。
      そんな今日の順位は4位で、
      ラッキーポイントは、
       「 アニマル柄の小物 」 である。

      大事な課題を任され活躍しそう。
      気負わず頑張りましょう。


沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 張献功 ( ちょうけんこう ) の墓 」

2016-03-11 04:21:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所












張献功は、?~1638(?~尚豊18) 沖縄に帰化した朝鮮陶工である。
和名は仲地麗伸 ( なかちれいしん ) といい、
文禄・慶長の役(1592、97年)で朝鮮から連れ帰った陶工の一人である。


那覇の市街地にある 「 ナイクブ古墓 」 の発掘調査をしている監督に
渡嘉敷三良と張献功の墓の場所を訊ねると、快く教えてくれた。
渡嘉敷三良の墓は公園の中にあり、大きくて立派なものだったが、
それに比べて張献功の墓は小さく、青いビニールシートの車庫の裏の草むらにあり、
場所を聞かなければ見落してしまいそうな墓であった。

そんな張献功の墓は、墓碑に 「 張氏元祖一六仲地麗進 」 と刻まれている。
一六とは、おそらく張献功のことであろう。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、南原市から18姓43人陶工が
薩摩の島津義弘軍に連れて来られ、
琉球王朝の依頼でそのうち3人の陶工が琉球へ派遣される。
「 一六、安一官、安三官 」 のうち2人は去ったが、
一六だけは残り、湧田窯の創始者となる。
中国、アジアの影響、朝鮮の上焼きという釉薬をかけた焼物、
そうした中で琉球独特の焼物が出来上がっていく。
後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行くのであった。

現在も張献功の子孫の方々が韓国方面に向かって座り、
毎年4月には清明祭を行っている。
張献功の関係者の1人は恩納村仲泊に住むが、その子孫は絶えている。
300年前の話であるが、今も仲泊の島袋家には拝所があり、ずっと祀られている。

故郷の韓国に帰ること無く、異国の地で陶芸に励んだ張献功の草に覆われた小さな墓を見た時、
拝み人がいないことに胸が痛んだ。
こうして書いて彼のことを、彼の遺したものを忘れないことが供養だと思う。


沖縄県那覇市壷屋 ・ ブラタモリ / ニュー那覇 「 やちむん通り 」

2016-03-11 03:18:41 | 沖縄

「 ブラタモリ 」 の一行は、2つの那覇のもう一つ、
オールド那覇から戦後闇市として発展したニュー那覇の中核とも言える
「 やちむん通り 」 へと入って行く。


昔、琉球王朝は交易が盛んで、その時渡ってきたのが南蛮焼と呼ばれる陶器。
やがて琉球でもその技術を学び焼き始め、時の琉球王朝の尚貞王は
1682年に美里村の知花、首里の宝口、
那覇の湧田にあった窯場を那覇市壺屋に集め、
陶器産業の振興を図はかりました。
これが壺屋焼の始まりです。
 

その後薩摩にいた朝鮮陶工らを招き、焼き物の発展指導を促しました。
こうして壺屋焼は琉球随一の窯場として国内消費は勿論、
外国との交易にも貢献するほどになったのです。
 
明治から昭和の初期にかけて有田などから安い陶器が大量に入るようになり、
壺屋焼は危機を迎えることになりますが、民芸運動の第一人者であった柳宗悦、
浜田庄司らが来訪して郷土の陶工、後に県下初の人間国宝にもなった金城次郎氏や
新垣栄三郎氏らを指導して技術を高めていきます。 
それを民芸陶器としての壺屋焼を東京などにも情報発信し、壺屋焼の人気があがりました。

大戦で沖縄全土はダメージを受けますが、壺屋は比較的戦災を免れ、
再興によって徐々に元通りになります。
しかし周囲が市街地のためにに薪窯による煙害が深刻な問題となってきました。

那覇市は公害対策のため薪による窯を禁止、伝統的な技法をが使えず
壺屋焼は岐路に立たされますが、
周辺に良質の陶土が豊富な読谷村が窯元の積極的な誘致を行い、
前出の金城次郎氏を初め多くの陶芸家たちが壺屋から読谷村に移りました。

現在では「読谷やちむんの里」として多くの人々に知られはじめてきましたが、
ここ壺屋にも多くの窯元が残り、
この一角が壺屋やちむん通りと呼ばれるようになったわけです。




沖縄県那覇市壷屋 「 やちむん通り 」








重要文化財に指定されている 「 新垣家 」



































沖縄の目抜き通りである国際通りから市場に向かう平和通。
その先に壺屋のやちむん通りと呼ばれる一帯がある。 



平和通りから出た場所










この付近に来ると街中の喧騒が静まり、
緑も増えて両側に大小さまざまな焼物屋さんが店を並べた石畳の道に出る。
やちむんとは 「 焼き物 」 のことをいい、沖縄の方言で陶器のことをさします。
何故?ここに焼物やさんが集まったかということは冒頭にふれているが、
約300年余の歴史あるこのエリアは独特の雰囲気を醸し出している。









壺屋焼博物館 この道の市場側入口付近には那覇市立壺屋焼博物館があり、
沖縄の陶器に関して解り易い説明とそれに関する品々を見ることが出来ます。


壺屋焼は荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョーヤチ)に分けることができます。
荒焼は無釉又はマンガン釉を掛け、多くは素焼きを経ずに焼かれて酒甕、
水甕など大きなものが多く、
上焼は一度素焼きされたものに釉薬を施して食器、酒器など比較的小さいものが多く、
現代陶器の主流です。
このあたりの家は屋根を沖縄らしい赤瓦で葺いたものが多く、散策コースとしてお勧め。
やがてお店がある間隔が狭くなり、
軒を並べるようになると国道330号(ひめゆり通り)のマクドナルドのあたりに出ます。

ここでもうひとつお勧めしたいのが途中の路地を左に入る「いしまち通り」
細い路地ですが帰りはこちらから行くといろんな発見がある。
路地を入るとすぐに重要文化財に指定されている新垣家。
上焼用の登窯 ( 東ヌ窯 ) が少し奥まったところにあり、
母屋や作業所など昔の伝統的な壺屋陶工の住宅形式を唯一残している家です。







道なりに左に折れていくと、角に「うちなー茶屋ぶくぶく」が。
一見すると普通の住宅ですが、玄関先に小さな看板があるのですぐに解ります。
この通りは距離は短く、やちむん通りに沿ったような短い裏通りですが、
車が簡単に通れないくらいの細さ。 そのためか一昔前の沖縄の雰囲気を残しています。
ぶらぶら歩いていくと、右に育陶園というお店の窯と陶芸の体験が出来るお店があり、
その先には「すーじ小」という茶屋がすこし高いところに道を見下ろすように建っています。  

ここも雰囲気がよさそうな店である。
そのまま先を道なりに左に折れると、またやちむん通りに戻ることが出来ます。
那覇の国際通り、公設市場と見て回ったら、
少しだけ時間をとってこの壺屋やちむん通り界隈まで足を伸ばすことをお勧めしたい。