「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

パンヤヨナガ / キラキラ輝いていたパン

2014-12-27 04:38:41 | パン ・ ケーキ ・ お菓子







先日、夕方にパンヤヨナガに行った
窓ガラスから抜けた夕陽が
メロンパンやクリームパンを
キラキラと輝かせていた



沖縄県沖縄市 「 カフンジャー橋 」

2014-12-26 04:37:41 | 沖縄の文化財



小型だががっしりとした造りになっている








橋の袂にある説明板







沖縄市の国道329号線沿いに架かる橋







アーチ頂部から路盤までの厚みがある







左右の壁石も高く積まれている







橋脚同様に壁石も布積みされている







通路部は舗装されて石橋だとは気づきにくい





所在地 /   沖縄県沖縄市美里
架橋  /   1912年
石工  /   不明
長さ   /   5.4m    幅   /   4.6m
拱矢  /    1.85m  径間  /     ?m
環厚  /    34㎝    単一アーチ


カフンジャー橋は沖縄市内を通る国道329号線沿いに架かる橋で、
現在は人しか通ることが出来ないが、その姿も活躍も現役である。
橋の袂の説明板には、
「 西洋から中国を経てきた石造技術を生かしたアーチ型工法の橋で、
( 1912年前後の建造 ) である。
歴史書 「 球陽 」 に、カフンジャーは昔から大雨の時には水流が激しく、
交通の難所であったことが記録されており、
先人の治水への苦心や橋の歴史を知るうえで貴重な石造物である。 」 と記されている。


カフンジャー橋へのアクセス
カフンジャー橋へは、沖縄市を通る国道329号線を
コザ方面から知花に向けて行くと美里小学校の先の美里交差点から
100mほどの場所 ( 右側 ) に架かっている。
駐車は、橋のすぐ横に車一台分の広くなった場所があるので、そこに駐車した。


馬の詩より ・ 『 ドルフィン・ドルフィン 』

2014-12-26 04:36:41 | 馬の詩 ・ それぞれ...






今の君は

空を自由に跳ね

自由に風を切り

青い色を自由に操る











君の尾ビレは

ボクら人間が作ったもの

その尾ビレが

多くの人を感動させ

勇気をもたらした












桜島が浮かぶ錦江湾

人々はこの湾を眺め

色んなことを思い描き

夢を繋いで来たことだろう

あの西郷隆盛 も

桐野利秋も

別府晋介 も

今は ドルフィンポートと呼ばれる

この地から ・・・






鹿児島県南さつま市 / 芋焼酎 『 桜 島 』

2014-12-26 04:35:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒



黒麹仕立ての芋焼酎 「 桜 島 」








鶴丸城跡からの眺望







ドルフィンポートからの眺望





平野国臣が詠う

わが胸の
燃ゆる思いにくらぶれば
煙はうすし桜島山




桜島は鶴丸城跡やドルフィンポートからの眺望が好きで、
鹿児島に行くと、ここからの桜島を楽しみに観ている。

来年は、向田邦子がこよなく愛した鹿児島にしばらく滞在したいと思っている。



12月23日の夕陽と今日の朝陽

2014-12-25 18:41:41 | 朝の風景とその他の風景



今日の朝陽








12月23日の夕陽





23日から暖かくなった日中は、
まるで春のようにポカポカとして上着を脱いでも寒さを感じさせない。
23日の夜は飲み過ぎてブログの作成をしないまま疲れて寝てしまった。
そして24日の朝はムサシがラティスを抜けて脱走してしまい。
朝からテンヤワンヤだった。
それでブログの更新もかまけてしまった。

今日も小春日和の暖かさだった。
今年の仕事は29日までありそうだが、
それまでこの暖かさが続けばいいのだが・・・
外仕事だから寒さは堪えるが、
それなりの対応をすればなんとかなるだろう。

今年の仕事もあと3日だな。


佐賀県唐津市 / 唐津くんち 「 十二番曳山 ・ 珠取獅子 」

2014-12-25 04:45:41 | 日記 ・ イベント





























京町は1875年(明治8)青獅子が朱玉にしっかりと爪をくい込ませて乗っている
「珠取獅子」の曳山を製作した。
京町が唐津城下に「町」としてできたのは古く、
大石町、魚屋町から平野町、名護屋口への街道筋にあり、
全国に名を馳せたくじら組の豪商「日野屋」の常安家などの、
唐津を代表する裕福な商家が軒を並べていた。
珠取獅子のできる以前は「踊り山」と称して、舞台のヤマに京町小町達が着飾って乗り、
曳山巡行の休憩の際には踊りを披露して神輿行列に花を添えていた。
そのために、曳山の製作の取りかかりが遅れたと思われる。

この曳山は唐津焼の「珠取獅子」を原形とした漆の一閑張り仕上げで、
唐津神社に奉納された「唐津神祭行列図」を描いた富野淇園(トミノキエン)と、
塗師・大木夘兵衛(ウヘイ)によって、
これまでに製作された11台にはない新しいデザインで製作された。

この珠取獅子のできた当時までは大手門が存在していたため、
大手門通過の際には曳山の最上部の尻尾の部分をはずせるように細工がなされている。
曳山は幅2.6㍍、高さ約5.2㍍、重さは1.6~1.8㌧ほどある。
当初は深緑色の獅子であったが、大正13年には赤色に塗り替え、
昭和37年に再び元の色に近い青緑色となった。
昭和58年に塗り替え、さらに力強くなった。

曳山の垂れ幕は当初は珠の内側より張られていたが、
新たに木枠をこしらえ、幕をとりつけることによって、
珠の丸みが強調されるよう工夫された。

珠取獅子は一般には片方の前足で珠を押さえているが、
京町の「珠取獅子」のように四本の足で珠の上に乗っているのは珍しい。
その姿は珠をつかんで耳を張り、キリッと見据える正面からの勇姿もさることながら、
横から眺めると、力強く踏ん張った足に深緑の本体と
金箔の輝く毛並みの渦巻き模様のコントラストが秋の日に映えてより美しい。

[参考・転載:唐津くんち「ガイドブック」(1991)] より


天草市崎津小高浜付近を走る

2014-12-25 04:44:41 | 探訪 ・ ドライブ
















天草市崎津小高浜付近を走る





異国情緒が漂う崎津・・・

天草の下島の西岸を走ると、そこには天草灘が広がる。
通詞島から富岡までの天草ロザリオラインから
富岡から大江までのサンセットラインを抜けると、小高浜を経て崎津に出る。

ここは入り組んだ地形から 「 羊角湾 」 と呼ばれており、
一時は予約が取れないほどの釣り場のメッカであった。




あれから15年 「 中村政信の祥月命日 」

2014-12-23 04:36:41 | 競輪・オートレース



愛車 「 トーマス 」 の前に飾られたボクが彼に贈った絵





今日は好きだった中村政信の祥月命日である。
あの落車から今年で15年経つ。

中村 政信(なかむら まさのぶ、1966年8月9日 - 1999年12月23日)は、
日本のオートレース選手。福岡県出身。19期。
元飯塚オートレース場所属。
1999年12月23日の飯塚オートレース場第11レースにて落車、殉職。
享年33。弟子は飯塚オートレース場所属の別府敬剛(23期)。





雪で順延になったあの日もこんな雪だった




「 稀代の戦士 」  中村政信


寒い日でした
丁度はるか彼方に
雪化粧をした
福智山が見えるあたりでした
一度に3車が接触し
落車しました
その中に 中村政信がいたのです

中村政信 33才
全国区のトップレーサーでした
『 車にばかり頼らんで
人間が頑張らんと 』
が口ぐせでした

今は亡き
飯塚が生んだ
稀代の戦士
中村政信



「 車にばかり頼らんで
人間が頑張らんと 」 と、
独特のしわがれ声で語っていた彼の口癖であった。
レースの結果をマシンの所為にしないで、
乗り手が目イチ ( 目一杯 ) 頑張らなければならないということを
言いたかったのだろう。

飯塚が生んだ稀代の戦士だった中村政信。
ボクらはいつまでもその走りを追い続ける。
そして、その走りを忘れることはない。

Forever 中村政信。
好きな人は亡くなっても永遠である。


大分県耶馬溪町 「 山移小学校界隈 」

2014-12-23 04:35:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



この感じが好きな景色








賀治耶橋







ほのぼの茶屋




耶馬溪ダム沿いの道を一目八景に向かって行くと、
右カーブになった場所に 「 山移小学校 」 がある。
ここを抜けて直線を進むと右側に 「 ほのぼの茶屋 」 があり、
その側に 「 賀治耶橋 」 がある。

この界隈の雰囲気が好きでわざわざこの道を通ることもある。



12月22日 「 冬至の朝 」

2014-12-22 18:44:41 | 朝の風景とその他の風景










長靴の中に履いた防寒用のアンダーブーツ





昨夜は夜半すぎまで雨が降っていたが、
朝起きると止んで星が出ていた。

それにしても今朝もよく冷えた。
そんな中の作業だった。
長靴の中に履いたアンダーブーツでさえ爪先がジンジンして痛いくらいだった。
それがヨーイドンからお疲れ様の5時まで続いた。
朝、モルタルを練るのに土のう袋に入った砂を出そうと抱きかかえたら、
ガチガチだったので、ひょっとしてセメン?って思うくらい寒さで固まっていた。
そんな冷えた今日は、一年で一番日中が短くなる冬至である。

冬至(とうじ)は、二十四節気の第22。一年で最も昼が短い。十一月中(旧暦11月内)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろ。
恒気法は節気を冬至からの経過日数で定義するが、
基点となる冬至は定気と同じ定義である。
定気と恒気で一致する唯一の節気である。
暦ではそれが起こる日を冬至とするが、天文学においては、
太陽黄経が270度となる瞬間を「冬至」と定義している。
この場合、冬至の瞬間を含む日を冬至日(とうじび)と呼ぶ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小寒前日までである。
西洋占星術では、冬至を磨羯宮(やぎ座)の始まりとする。


大分県耶馬渓町 「長岩城跡 ( 入り口 ~ 一之城戸 ) 」

2014-12-22 04:31:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )











この橋を渡って城跡入口に行く







一之城戸の入り口にはイノシシ除けのフェンスが設置されている







上から見た一之城戸







しっかりと組まれた石塁に囲まれた一之城戸










この長岩城は今まで巡った城の中でも最高級である。

今まで沖縄や奄美などのグスクを中心に400もの城をめぐって来たが、
これほど大きな規模で、しかも残された遺構が状態良く残っているのは稀で、
今帰仁城に匹敵するか、それ以上ものだと思う。
一日かけても回りきれないほど魅力ある城跡に虜になってしまった。
そんな長岩城跡をこれから数回に分けて紹介して行きたいと思っている。


長岩城は、川原口にある山岳城で、
下毛郡の支配者であった豪族野中氏22代390年間の居城であった。
初代城主野中重房が、建久9年(1198年)創築し、
南北朝、戦国時代に増改築された。
天正16年(1588年)黒田長政の大軍に攻め落とされ、以後廃城となった。

城は、急峻な円錐形をした扇山(標高530m、比高230m)と、
その一帯の支峯や谷窪などに築かれている。
この一帯は、険阻な断崖絶壁地帯で、このような天然の要害を巧みに取り入れ、
断崖の合間などの敵の侵入し易い所には人工的に石塁や、
砲座、塹壕などの防備施設を補完した独創的にして要害堅固な山岳城である。


本城(本丸)は、主峰扇山の頂上にあり、
この山は、7合目所を高さ4~10m位の斬石が東、北、西の3面を取り巻き、
南面は深い谷窪となり、後方は、尾根続きで岩山の連山に連なっている。
西方の支峯に西出城(西之台)、東方の中腹に東出城(東之台)、
これと谷を隔てて相対する岩山にも出城を設けてある。
谷川に沿って一之城戸、二之城戸、三之城戸の3段構えで防備を固めていた。
陣屋跡や馬場の跡も残っている。

長岩城の特色は、地方豪族の中世山城としては規模も大きく、
石塁や砲座などの優れた石積みの構造物が多いことである。
石積みの類は、20余か所で延べ700余メートルに及びる。
特に石積櫓「楕円型砲座」は、石造の櫓としても、構造的にも大変めずらしいもので、
全国に類例を見ない貴重な遺構である。

また、石積みの石が扁平な鉄平石状のものに統一してあるのも特徴である。
なお、城址は、昭和59年に地元保存会などにより一部修復工事が行われた。


【 大分県指定史跡 ( 平成23年3月29日指定 ) 】


競輪選手の練習・モガキ

2014-12-22 04:30:41 | 競輪・オートレース



体重が54キロと華奢だった競輪学校時代










競輪場内でバイクを使ってのスピード練習








動画は熊本時代の練習を動画化したもの






先日、中学生が自転車で九州一周を1周間でしたという話を聞いた。
話によると、一日約130キロ平均で走ったことになるらしい。
1日や2日ならば走れるだろうが、毎日の事になればかなりコタエルだろう。
プロでさえ連続して続けるのは大変なことだと思う。
それをやり遂げたということは、素晴らしいことである。
彼自身、大きな自信と精神力の強さにつながったと思う。

ボクはプロデビューしてからほとんで毎日のように
1日に150キロから200キロの練習量をこなしていた。
寝る時間と食事の時間以外はほとんど自転車に乗っていたから・・・
そうそう、一日で熊本から別府まで九州を横断して日帰りしたことがある。
朝5時に熊本市内を出て別府に着いたのが11時半くらいだった。
そのままとんぼ返りで、車上でパンを噛み噛み自転車を漕ぎ続け
熊本市内に帰り着いたのが夜の8時くらいだったのを憶えている。

今思うと狂気の沙汰である。



熊本県阿蘇市 「 二重峠に建つ藤田義光先生の碑と思い出 」

2014-12-21 05:07:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



二重峠に建つ 「 藤田義光先生の碑 」







南小国町の国道212号線沿いにあった 「 はたべ 」 食堂の前で・・・




昨日紹介した二重峠の手前の交差点に藤田義光先生の碑が建っている。
そんな藤田義光先生と一度だけ会ったことがある。
熊本の夏は暑く、その暑さを凌ぐために
熊本市内に比べて3度~5度の気温差がある阿蘇によく練習に行っていた。
あれは、南小国町にあった「はたべ」という食堂で昼食を食べていた時だった。
代議士をしていた藤田義光先生が秘書を連れだって店に入って来た。
ボクは当時22~23歳くらいだったと思うが、
その頃は政治のことなど興味がなかったので、全く知らなかった。
だから、店の人の 「 藤田先生 」 という言葉を聞いても、
学校の校長先生かなにかだろうくらいの感覚でいた。

漠然ではあるが、先生は 「 山菜そば 」 か何かを召し上がられたような気がする。
そして帰り際に僕達のところに来て、「 若い者はたくさん食べないといかん 」 と言って、
何か料理を追加してくれたような記憶がある。
先生が帰った後に、僕らの食事代金を全額支払ってくれていたことを店の人に知らされた。
そしてこの時、その人が代議士の藤田義光先生だということも教えてもらった。
そんな藤田義光先生の思い出である。

ちなみに藤田義光先生の経歴は以下のとおりである。
熊本県生まれ。1937年中央大学法学部を卒業。大学在学中は、真法会に所属。
朝日新聞記者を経て、1949年、第24回衆議院議員総選挙熊本1区で民主党から立候補し、初当選。
1962年9月、第2次池田第2次改造内閣自治政務次官。
1969年、日本社会党と公明党から衆議院内閣委員長解任決議案が提出されたが61票差で否決。
1979年の四十日抗争では、大平正芳に投票。
1986年、第38回衆議院議員総選挙に立候補したが、選挙期間中に死去。
その後、藤田みどりが無所属(保守系)で補充立候補したが、次々点であった。


 「 光のツリー ( ソウルツリー ) 」

2014-12-21 05:06:41 | 日記 ・ イベント






都会では
華やかなクリスマスツリーを
お目に掛かる人も多い
だが 田舎やへき地に居る人は
煌びやかなツリーなど
ほとんど目にすることはない

だから
煌びやかではないが
そういう人たちに観て欲しい
ソウルツリーは
どこに居ても
天に向かって光が指す方向が
自分の進む道や想いを表現した
背骨のように固い心の芯を思わせる



熊本県阿蘇市 「 二重峠の石畳 ・ 参勤交代の道 」

2014-12-20 05:10:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣









































































二重峠(ふたえのとうげ、標高683m)は大津町から
阿蘇市に向かう途中の阿蘇北外輪を越える峠である。
この峠は古代から利用されていたと考えられているが、
峠道として本格的に整備されたのは江戸時代になってからで、
豊後街道の一部となっている。

現在、大津町から小国町へ通じる「ミルクロード」(県道339号線)と
阿蘇市と菊池市を結ぶ主要地方道23号線が交差する地点が峠となっているが、
豊後街道の二重峠はそこから北に1km登ったミルクロード沿いにある。

ここから麓(ふもと)までは、くねくね曲がった急な坂の連続であり、
谷川は、のぞくと吸い込まれそうなくらいです。
「 豊後街道 」 の標識そばから、下に向かって石畳が延び、
すぐに急な下りになりますが、しっかりとした石畳で足元に不安は感じない。

さらに下ると 「 史跡二重峠 」 の標柱があり、
その先に 「 岩坂村つくり 」 と刻まれた石が残っています。
岩坂村(現 大津町)は、ここから12kmあまり離れた村で、
この道づくりに広範囲の村々から民衆がかり出されたことがわかる。

二重峠から坂下までの道は険しく、
また火山灰土であるために雨が降るたびに道路が痛んだといわれ、
そのために九十九折れの急坂の道に石畳が敷きつめられている。
石畳は長さ2km、幅4m、水きり、水ぬきなどが工夫されている。