ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

さようなら、ユキさん

2020-07-20 | アメリカ事情
母親とマンザナーへ連れていく列車をユニオン駅で待つ2歳のオキナガ・ハヤカワ・ユキ
(Photo:Clem Albers)

ユニオン駅でスーツケースに座って、母親と一緒にマンザナーに連れて行かれるのを待っているオキナガ・ユキを写した写真は、まさに不安にあふれている。

恐怖が思い浮かびはするが、写真の2歳児の表情は読み難い。片方の手で小さなハンドバッグを持ち、もう一方の手で食べかけているリンゴを掴んでいる。行く先は、アメリカが第二次世界大戦に巻き込まれた故に、オーエンズバレーでの有刺鉄線のフェンスの内側での何年にも亘る、何千人もの日系人との生活だった。

その写真はマンザナー国立史跡の訪問者センターで容易に見逃せられるものではなく、訪問者は誰でも同じ質問をするようだ:この子はどなた? 彼女はその後どうなったのでしょうか?

ユキと母親は、最初に到着し、最後にマンザナーを去ったグループに入っていて、出所後クリーブランドに移動して新たな生活を始めた。学校で罵倒され、差別にさらされたが、彼女は著しく力強かった。大学の奨学金を獲得し、学士号を取得し、最終的には修士号を取得したのだ。彼女は結婚し、息子を得て、秘書から大学の副学部長までにもなり、料理本を書き、にこりともせずに間のうまいジョークを頻繁に言うセンスを磨いた。

駅で座っている彼女の写真は象徴的なものになり、本の表紙、看板、展示物に表示されたが、 今年3月8日の彼女の訃報はほとんど気づかれなかった。 COVID-19パンデミックにより、彼女の家族は葬儀を持つこともならず、訃報の公表も行われなかった。彼女は80歳で、しばらく病気でした、と友人のキャロル・ノークロスは語った。

住み慣れた地から根こそぎ追い立てられ、投獄され、不確かな未来を余儀なくされた多くの日系アメリカ人と同様に、マンザナーの記憶は、オキナガ・早川・ルウェリン・ユキの魂に焼き付けられた。彼女は日系アメリカ人であることの意味に取り組み、収容所での監禁について研究をし、そのようなことがいつか再び起こるかもしれないという考えに身震いしたのだった。

「権力を持つ者として(私たちが)選ぶ人々は、そのようなことができる人たちなのです」と彼女は写真家のキタガキ・ポール の著書「Behind Barbed Wire」(有刺鉄線の内側で)で語った。「しかしながら、若者層が投票していることを示す数字は見られません。これが、これから何が起こるかを制御できる唯一の方法なのに、です。」

 

2005年ルウェリン・ユキは幼少期以来初めてのマンザナー訪問をした。(Photo:Paul Kitagaki Jr.)

2005年、ルウェリンは幼少期以来初めてマンザナーに戻った。何年もの間、収容所は荒れ果て朽ちていた。残っていたのは、一対の監視塔と墓地だけだった。マンザナーは最終的に国定史跡と宣言され、訪問者センターやその他が追加された。そこは今、あの病的な人種差別があった証と忍従の恒久な紋章でもある。

ルウェリンは当初、マンザナーと言う古い傷の口を開けるかどうかで引き裂かれるような思いがあった、と彼女と一緒に訪問するためにハイウェイ395を運転して来た友人のノークロスは語った。しかし、彼女(ルウェリン)がそこ(マンザナー)に着くと、覚えていたものはほとんど残っていなかった。

「彼女が自分の考えや感傷を抱くものは何もありませんでした」とノークロスは言った。 「 『私はここにいた』と言えることは何もありませんでした。」

ルウェリンが、2005年にパシフィック・シチズン誌で発表した論評では、バラックスから砂、古い釘、もしや、とあてずっぽう的に竹のかけらなどを記念品として集め、サンドイッチ袋に慎重に入れた、と述べている。彼女がそこに立ったとき、母親がマンザナーを再訪することには興味がなかった理由をついに理解したと彼女は言った。

「大人として、そこは地上の地獄だったのでしょう」と彼女は書いた。 「私が子供だったのは幸運でした。当時は幼い子供でした。私が投獄されないと言うことが、どんな感じなのかもわかりませんでした。」

彼女の息子のデイビッドは、母親がマンザナーを訪れるという言葉が広まると、人々は彼女に近づき始め、国がしたことを謝罪し始めたと言った。何人かは彼女を抱きしめさえした。

「多くの人は自らも幼かった頃に、自国がそのような恥ずべきことをしたのだとは信じ難かったのです」と彼は言った。

ルウェリンは、ニューオーリンズのテュレイン大学で論文を書いている折に夫となるドンと出会った。その後、2人は黒澤明の心理スリラー「羅生門」の劇場用演劇作品を共同制作した。彼らは後に離婚したが、変わらない友人のままであった。

イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校で、秘書から副学部長にまで昇格したルウェリンは、祖先と彼女自身の過去を探求した。著名な日系アメリカ人たちに大学で講演するよう呼びかけ、キャンパスがアジア系アメリカ人の文化センターを開設し、真珠湾での爆撃に続く収容所の設立に向けて動いたマンザナーと(フランクリン・D. ルーズベルト大統領による)大統領令9066条について語った。

 彼女の調べで、ルウェリンは、母親と2人でマンザナーへ急かされて行く前に、すでに母娘から去った父親もキャンプに拘留されていることを発見した。収容所の他の何千人もいた囚人の中で、彼女は父親に会ったことはなかった。

晩年、父を見つけようとすると、彼がすでに死亡していたことに気づかされた。

マンザナーでは、ルウェリンは(展示されている)自身の子供時代の写真をじっと見つめ、思い出がこぼれ落ちて行くように感じた。「最も幸せな瞬間は、私がずっと生涯探し求めていた何かを発見したということです」と論評に書いた。 「私がそれについて書くことができるならば、(そのことに)幕引きができることでしょう。」

ルウェリンは彼女の息子、彼女の義理の娘、および3人の孫を残して旅立った。

マンザナー戦時強制収容所は1945年11月21日に正式に閉所された。
(Photo:Los Angeles Public Library)

 

 

コメント (8)
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