ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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霧深きエルベのほとり・ESTRELLAS

2019-02-25 07:00:00 | 宝塚コラム

 土曜日の総見で見て参りました。

2階席の後ろだったのでショーの時はすごかったですよ。

 霧深きエルベのほとり 

私は初演も再演も知らず、スカステで放送されたぶつ切りだらけの順みつきさんのを見ただけですから先入観はありませんでした。

一緒に見た友人は、激しく順みつきさんの作品を見ていて「ビア祭は曲が違う。でもみっきさんを思い出して楽しかった」と言ってました。私の回りではすすり泣きがすごかったです。

入江薫先生が好きな人たちはビア祭の曲が違う事に違和感を持ち、腹も立てているようで(その気持ちはわかる)でも今回の演出の上田久美子がこだわりを持って、大階段を前面に出したオープニングを作ったのだと思えば、初めて見る人にとっては違和感なしです。

菊田一夫先生が「ハンブルク」という街に興味を持ち、新聞に載っていた「上流階級の令嬢が船乗りとめでたく結婚」という記事にインスパイアされてこの作品を作った事に感動したのと、でもそれを悲恋にしてしまうことがやっぱり宝塚歌劇なんだなと思いました。

宝塚歌劇に必要な

 身分違いの恋

 反対勢力の存在

 どちらかが身を引く

という王道な段階をきっちりと踏んで予定調和で作られているので、流れが自然。そうはいっても泣けるのは、「間」の取り方が絶妙だから。

カールとマルギットが出あって「ひどいことをされる前に帰る」といい、その時の間だけで、その数秒で互いに「結婚まで考える間柄になった」とわかるんですから、これはすごいでしょ?

それから結婚に向けての流れ、傷つき、別れ・・これが全部ビール祭りの間の出来事でまさに「ロミジュリ」を彷彿とさせますよね。最初からこの二人は生きている世界が違い過ぎてうまくいくわけない。それは知っているんだけどあまりにも二人が純粋だから何とかハッピーエンドになって欲しいと願ってしまう観客心理をうまくついています。

また、この脚本には、カールの言葉や行動をマルギットに説明させるシーンがありますが、そうやってはしょるべきところをまとめちゃってるんだなあと。

無駄がなくて間合いがよくて宝塚的王道の作品なんだと思いました。

「霧深きエルベのほとり」は今の星組だから上演可能だったと思います。どんなにいい作品でも脚本は古いです。言葉遣いも古いったらありゃしない。

お前はただの家で娘よ。だがその家で娘ってのが俺あなんだかきがさすんだがな

何が、何がきがさすの

 「気がさす」などという言葉は今や死語でわからに人の方が多いのでは?

罪悪感があるんだよなあ・・とか、ちょっと立ち止まってその先に行けないんだよなあ・・・とか、そんな意味ですよね。

順みつきさんのこのセリフでもちょっと笑ってしまったんですが紅が言うとそうでもない。びっくりしたのはそのあと。

だから、俺に、ひどい目にあわせて貰いたくて誘ったんだろう」

これを順みつきさんで聞いた時にちょっと笑ってしまって、今時「ひどい目」で納得する観客がいるのかな。って。でも紅のセリフだと「ひどい目ってどういう事なのかしら?」とわくわくしちゃうってんだから話にならない(あ、これは姫の話)

キモノを2着買ってやる」

「祝詞をあげてもらったのか」等々現代には合わないセリフが入っていて、この2つは改善の余地があったかと思うのですが。

船乗り=マドロスなんて言わなかった所はいいけど、本質的に船乗りがどんな仕事なのかわからず見ている人も多いでしょうね。マドロスの恋といえば遊びか悲恋と決まっているんですよね。戦前歌謡ではマドロスものがはやったりしていましたから。

で、帰宅してから姫ちゃんに聞きました。

フロリアンが何であんないい人なのかわからない」って。そしたら姫ちゃんは

フロリアンはマルギットを愛しているがゆえに、彼女がカールといつまでも中途半端な関係でいるのは見たくない。幸せを願うだけに結婚するならさっさとしてほしい。そしたら諦められる・・と思ってマルギットとカールの味方をした

へえ、すごいな。年寄りになるとこういう若者の機微がわからなくなるのね・・と反省しました。

フロリアンがマルギットに 「よくお聞き」と説教するところも、これでマルギットに嫌われたら自分も諦められるかなくらいに思っているんだろうと。

私も姫ちゃんの感想を受けて自分なりに考えてみたのですが、フロリアンは現実を知っている大人なんです。社交界というものがどういうものか知っているし、結婚が恋愛だけで成立することがない事も。

彼からしたらマルギットはまだ子供で、純粋に「愛しているから私がやることは全て正しい」と思い込んでいる。でも、世の中には「男のプライド」を傷つけたり現実逃避を愛と思い込むことは決してプラスにならないんですよね。

フロリアンのセリフ「お父さんへの敵意でこの家を飛び出し、お父さんへの敵意からカールと結びついたのだとしたら、その敵意がなくなった時、カールへの愛情はどうなってくるのだ」これをぜひ眞子さまに捧げたい。

確かに、レストランで一般席に行こうとするカールをとどめて特等席に坐らせたのはマルギットの汚点ですよね。自分がカールの立場まで落ちる覚悟がなかったんです。

パーティの時も必要以上にカールを庇ったことは、社交界の人達に言い訳しているようにも見えたでしょう。

女が男をたてる・・・なんて古い考えだけど、そんなつまらない事で男は自信を失う存在でもあるわけですね。

そんなカールが酒場で大泣きするシーンは秀逸で、完全に観客はその世界に入りこんで一緒に泣いてしまいましたよ。

でも一方でそういう古さが似合わない人もいるわけで。それが七海ひろきだったかなと。この人はどこまでもトレンディで今時の人なので、船乗りなのにインテリジェンスで穏やかで・・だからあまりカールに絡まなかったことはよかったと思います。

綺咲愛里のマルギットはごく自然に「乙女」になっていて、彼女だからこそカールが惚れて捨てて泣いて・・・になったんだなあと感じました。

 ESTELLAS 

お正月のBS放送を見た時、めちゃくちゃ静かなショーだなと思ったのですが、実際に見ると、レーザー光線が綺麗で特に2階席から見ると本当に綺麗だなと思いました。

ただ・・・星組は半年も「KILLER ROUGE」をやっていたんですよ。あの時のド派手な衣装や髪型が脳裏にしみついてしまって。今回のショーではみんながみんな普通に見えちゃって(笑)

中村暁は出来不出来の多い作家ですが、今回は手抜きだなと単純に思いました。

最近のショーではJ-POPやK-POPを多用する作品が多いです。はるか昔「ル・ポアゾン」でクイーンの曲を使って最先端を見せた宝塚。

そして藤井大介が「カクテル」でサザンの曲を使ってJ-POPが広く受け入れられて今に至ります。

こういう今時の曲を使うのは斎藤吉正も同じで、「KILEER ROUGE」は勿論、「MISTY STATION」等でも多用してました。

でもJ-POPやK-POPを使うのはセンスがいる事です。それはクラシックも同じでしょうけど、雰囲気や色の違う音楽を単に組み合わせればいいというものではないんですよね。

今回、平井堅やらレミオロメンやら葉加瀬太郎やら次から次へと自分の好きな曲を使って並べたけど全然色が違ってばらばらであること、過去の中村作品と酷似していることなどから、もうネタ切れで羅列するしかなかったんだろうなと思いました。

クラシックの場合、観客がよく知っている曲を使われれば親しみやすいですが、現代の曲の場合、作者や歌っている人の顔が浮かんでしまい、宝塚の中に馴染ませるのは難しいのです。それをうまくするには主題歌が大事で、それにインパクトがないと、まるでJ-POPの方がメインに見えちゃう。

もっとも腹が立ったのは「情熱大陸」ですかね。黒燕尾が丸々録音なんて・・・あんまりです。宝塚座付き演奏家って暇でいいよねーーと思ってしまいますよ。

何であの曲をそのまま使わないといけないのでしょうか?アレンジしちゃダメだったんでしょうか?だったら使わなくてもよかったんじゃないでしょうか?

星組というムードやイメージを無視して、どこの組にも同じような構成を押し付けるなんて演出家にあるまじきことなんじゃないでしょうね・・・・

今回は極慎のかっこよさにやられましたーー

スカステで「ベルリンわが愛」の新人公演を見て、その演技のうまさに驚いてしまい、すっかり虜に。いや・・浮気はいけない。でも浮気じゃない。あ、浮気か。と悩みつつも、極のキザっぷりがすごくてびっくりしました。

草葉の陰からこっそり応援しますね。

 

 

 

 

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天皇陛下在位30周年記念式典

2019-02-25 07:00:00 | 皇室報道

 一言でいうと「皇后陛下を称えまショウ」的な感じがいたしました。何でここまで上座に上がるのか皇后が・・・・

皇居で行われた皇族からの挨拶。まずは皇太子夫妻

秋篠宮夫妻

眞子内親王・佳子内親王

30周年式典に到着した両陛下。

全体的な流れとして総理大臣始め、お歴々の挨拶までは普通でした。

あれ?と思ったのは波野久理子が皇后陛下の歌を披露し、讃え始めてから。

三浦大知の歌も天皇の琉歌に皇后が曲をつけたもので、沖縄の人からすれば光栄なことだったんでしょうね。沖縄一色、何というか・・・都道府県全部回ったという割には特定の県に特化した歌を披露。

それが終わったら、今度は皇后陛下の浩宮への「歌」に曲をつけて披露。

「皇太子は自分達にとって特別なんです」といわんばかりのご披露で、皇后の嬉しそうな顔ったらないです。

そして天皇陛下のお言葉。このお言葉の中に気になるフレーズが。

世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ

へえ、自然災害が気候変動のせいと思っていらっしゃるのね。歴代天皇は全て「自分の不徳のせい」と思っていた筈なのに。

象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」

皇太子もそうですが「象徴は何か」と考える必要はないのでは?何を模索し果てしなく遠いと思われたのか疑問です。国家元首とか大元帥としてどうあるべきかと模索するならわかるけど、「象徴とはしての天皇像」の模索というのはどうみても変です。

まるで「権力行使をどこまでやっていいのかわからない」という話ですよね。

あるいは真逆に「象徴天皇制なんてあるだけ無駄じゃん」と言っているようにも聞こえて。だから退位、相手が断れないのをいいことに憲法違反してまで退位に繋がるのだとしたら、象徴天皇はいらないということになります。

即位の時に「憲法を順守する」と話しておきながら、自らそれを破るという晩年にひどい事をした天皇の実録はどのように書かれるのでしょうか?

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

 しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています」

実はこのフレーズは重要なことで、天皇の素顔をみたりというか、やっぱりそうだったんだと思うものです。

つまり、昭和天皇が崩御して悲しみの中にあるのに、皇后は「国中の人々が共に平和な時代を作っていきますと言ってますよ」歌った歌なのです。

これはつまりアンチ昭和。昭和天皇への痛烈な批判です。

昭和天皇が亡くなった時にこの歌を作ったからこそ、決して声高には言えなかったのです。でも30年後にこれを言った。

なぜか。今、日本は平和から遠ざかろうとしているから・・・と陛下が思っているからです(いや、皇后が)徴用工問題も慰安婦問題もレーダー照射事件も何もかも日本が悪くて勝手に騒ぎを起こしているから平和が脅かされている。

国民は私達(天皇皇后)に「平和を守ります」と言っている・・・それも全国からそういう声が届いているんですよ。安倍総理ってな感じでしょうか。

太平洋戦争の責任は昭和天皇にあるのだと思い込んでいる今上。だから「戦争犯罪者の息子じゃないですか」と言われても「その通り」としか言えないんでしょうね。むしろ、もっとお詫びに行かなくちゃと。

ああ・・・もうほんと、そんな天皇の息子が同じでないといえますかね。

(それにしても悲しみの中でそんな歌を詠む皇后って・・・・・)

陛下が途中、読み間違えをして皇后に助けられるシーンがあり、そういうことがあるから尚更もう皇后なしでは言えないんでしょうね。情けないなあ。

 

コメント (9)
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