ふぶきの部屋

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森暢平の女系論は間違っているし大学教授の資格なし1

2022-07-01 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

悔しかったら原稿料で稼いでみろ・・・と言われそうだけれど。

サンデー毎日に掲載の「江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か?」

は呆れてものが言えない程のこじつけが書かれており。

でも、成城大学の教授が書いているんだからそうなんだろうと思う人も多いと思うのです。(私の同僚は絶対信じるだろう)

しかし、いわゆる「愛子天皇派」のいう事って決まっている。

 女帝の娘が即位しているから女系

 天皇が内親王と結婚して婿入りしたから女性天皇でも女系でもいい筈

どっちも間違いです。

皇室典範の解釈も違います。

まず彼の文章を見てみましょう。

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。

天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

 そんな議論は起きてません。徳仁天皇の次は文仁天皇でその次は悠仁天皇です。

 

 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。

江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。

  近代にしろ現代にしろ、愛子内親王の正統性はありません。

 男系女子ですが皇位継承権を持っていない

それに尽きるからです。(そりゃ他にもありますよ・・・もにょもにょ)

愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。

 愛子内親王が仮に旧宮家の誰かと結婚しても、降嫁するだけですし、皇室典範改正による旧宮家の復帰があるとしても「妃殿下」になるだけです。あくまで投手は「男系男子」です。

 今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。

前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。

 いいえ、男系継承のみです。「男系継承」と「女性皇族の地位の高低」には関連も関係もありません。

 

今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。

当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。

1816(文化13)年2月25日、中宮欣子に男子が生まれた。

高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)である。

欣子は当時36歳(満年齢に換算、以下同じ)。

彼女は20歳のとき、一度男子を産むが2カ月で亡くし、その後出産していなかった。

当時の感覚で言えば「高齢出産」。それゆえにこの皇子誕生は驚きをもって迎えられた。  

欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。

しかし、困ったことがあった。

光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。

彼は9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。  

光格天皇は、閑院宮家出身である。

曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。

町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。

 傍系の宮家出身、それも母方の身分に難があった光格が即位したのは、後桃園天皇の一人娘である欣子と結婚することが担保になっていたためだ。

2人の結婚は1794(寛政6)年、光格が22歳、欣子は15歳であった。

誤解を恐れずに言えば、光格は「婿養子」として天皇本家に入った。

 

ここまでさら~~~っと読みましたか?

ええ・・・何が何だかわからないですよね。

いいんです。わからなくて。ただ、「光格天皇」「欣子内親王」「閑院宮家」を覚えて下さい。

森氏の文章に正当な理論をしかける前に、私達は予備知識が必要です。

まず、「閑院宮」から始めましょう。

 

 閑院宮家って?

1710年に新井白石の進言によって創設された「世襲宮家」の4番目です。

 鎌倉期から天皇家はとても貧乏になった

 徳川政権によってさらに弱体化

 天皇の子供は、皇位を継ぐ男子以外は全て寺に預けられ親王宣下もなし。女子も徳川家、貴族に嫁いだ場合を除きみな寺へ。

 直系に皇統の危機が起きた時に即位出来る「世襲宮家」が誕生。

桂宮

伏見宮

有栖川宮

この3つも色々あって、特に桂宮家は何度も断絶しているのですが、4番目の「皇統の危機を救う宮家」として閑院宮家が創設されたのです。

上記の系図を見て下さい。

閑院宮家は東山天皇の子供から始まっています。

後桃園天皇には一人娘の欣子内親王しかいなかった。

俗に「女一宮」と呼ばれ、天皇の一人娘。

森氏はこの欣子内親王を愛子内親王に重ねているのです。

もし、ここで安易に女性天皇が認められていたら、欣子内親王が女性天皇として即位してもおかしくないですよね。

過去に明正天皇、後桜町天皇などがいたのですから。

しかし、天皇になった女性は結婚出来ません。

なぜなら女性天皇に子供が出来ると、皇位を巡って継承争いが起こるからです。

ゆえに、江戸期の女性天皇は弟や他の男系男子が成長し天皇となるまでの「中継」として即位し、譲位後は院になるのが普通でした。

さて、光格天皇は確かに「傍系」の男子ですが、立派な男系男子です。東山天皇からみれば曾孫であるし、後桃園天皇からみても遠い従兄弟くらいの近さです。

他の3家よりはずっと天皇家と血が近かった事。

そして、欣子内親王と年齢も釣り合うことで、光格天皇が即位し、欣子内親王はその身分にふさわしく「中宮」となったのでした。

 

森氏のいう「担保」という言い方は恐ろしく不敬です。

 江戸時代、天皇の妃は一様に「女御」となり、「皇后」は追贈される場合が多い。

 欣子内親王が中宮になったのは、皇族であったから

です。

ただ光格天皇が即位出来た事はものすごく運がよかったんですね。

それというのも、いわゆる「次の天皇」を決める事を始めたのが欣子内親王が1歳の時。

 天皇の血筋に近い宮家出身

 欣子内親王と歳が近い未婚の男子

 法親王になる予定がある

光格天皇は閑院宮家の第6子ですが、長子は既婚、その下は皆法親王になっていたので還俗できず。1歳下の弟は寺に入る予定がない。

そんな様々な条件をクリアできたのが光格天皇だったのです。

光格天皇は後桃園天皇の養子になって立太子せずに即位しました。

この場合、語るべきは「光格天皇は婿養子になったから即位出来た」ではなく、「光格天皇は後桃園天皇の養子となったので欣子内親王を妻とした」になるのです。

 

父親の後桃園天皇からすれば、一人娘を即位させて後に寺にいれるなんて重い運命を送らせるより「妃」として君臨した方がよいと思ったんじゃないかと思います。閑院宮家としてもこれはよい話でした。

 

コメント (3)
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