ふぶきの部屋

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明仁天皇・美智子皇后の中国訪問における外交文書

2023-12-22 07:00:00 | 皇室報道

 すみません。無知なんですけど。

1992年の両陛下訪中に関しては、正直、あまりよく覚えていないのです。

当時は秋篠宮両殿下の新婚時代で、そっちに芽を奪われていました。

それに、まさか両陛下が左翼思想の持ち主であったとは、夢にも思っていなかったんです。

当時の中国は、毛沢東が死んで、社会主義に行き詰まりがあり、民主化の動きが段々目立ってきた時代。鄧小平は「社会主義的資本主義」みたいなのを掲げていましたから、アメリカとかヨーロッパなどが「中国が民主化するのではないか」と思って、様々な支援をしていたのです。

しかし、1989年胡耀邦の死をきっかけに学生を中心とした民主化運動が始まり、あの有名な「天安門事件」が起こるわけです。

この事件に欧米は真っ青・・というか、中国が全然中身が民主化していない事をしって失望したのですね。

しかし、日本だけはそういう態度をせず、中国の要請に従って天皇皇后を訪中させてしまったんです。

国内では「訪中はダメ」という保守派が頑張っていたんですけど、なんせ天皇陛下自らが「私は行きたい」と言い出す始末。

じゃあ、中国へ行ったら謝罪するのか? 中国が求めていたのはそれです。

日本としては「不幸な歴史」程度でおさめておきたい。

でも、中国は謝れという・・・そして天皇は、「日中戦争で迷惑をかけたのは日本」と信じていたし、昭和天皇に戦争責任があると思っていたから大乗り気です。

結果的に両陛下は訪中。

晩さん会では

貴国とわが国の交流の歴史は古く、わが国民は、長年にわたり貴国の文化に深い敬意と親近感を抱いてきました。

今世紀に入ってからは、貴国の有為の青年が数多くわが国を訪れるようになり、相互の交流は一層活発になりました。私は、両国民間の交流の伝統をかけがえのない、貴いものと考えます。
しかし、両国の関係の永きにわたる歴史において、わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。

これは私の深く悲しみとするところであります。

戦争が終わった時、わが国民は、戦争を繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました。

貴国との間においては、末長い平和友好を誓い合う関係が生まれ、広範な分野での交流が深まりつつあります。
私どもの訪問が、両国民にとり、お互いに良き隣人として将来に向かって歩む契機となれば誠に喜ばしく思います。」

というお言葉を述べられました。

 

ではこの中国訪問は成功だったのか。

いえ、成功ではありませんでした。

中国は天皇の訪中を実現させた事で、より軍事力を増し、経済力を身に着け今に至っているのです。

さらに尖閣諸島の領土問題も抱える事になりました。

当時、庶民の間で「天皇訪中」の良しあしを語る人はいなかったと思います。

「中国」=パンダのイメージ。

天安門事件もよその国の話。そして日本人の中には自虐史観がはびこっていましたから、謝罪してもしょうがないくらいに思っていたんじゃないでしょうか。

しかし、天皇の訪中はとても危険な事だったのですが、この度の外交文書の公開により、

訪中を押し進め、マスコミを操作したのが小和田恒(皇后の父)である事がはっきりしました。

当時の小和田恒事務次官は2月13日の幹部会議で「訪中前に国内プレスの報道が否定的な状況になれば、行けなくなることもあり得るので、報道対策を事前にしっかりと考えておくべき」と発言。

「天皇を政治に巻き込む」とか「保守の考えが」とか揺れていた宮沢首相の背中を押して中国へ行かせたのは小和田恒。

という事は、当時から彼はマスコミ操作に長けていたと言う事になり、特に左翼思想が強く、娘を皇室に入れる事で、「皇室を私物化し破壊する」という中韓の考え方とマッチしていた事になりますね。

その後、小和田雅子氏が皇太子妃に決定するのですが、ありとあらゆるつてを頼って、秋篠宮家を貶め、小和田雅子を「皇太子妃候補の筆頭」に持ち上げたのですから。

 

もし、あの時に訪中していなかったら。

中国を切り捨てていたら、今のようにはならなかったかもしれないと本当に思います。

 

 

 

コメント (5)
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