夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私は『おひとりさま』の日々となり、平素よりも更に自由自在の時を過ごし、そして・・。

2011-05-18 19:06:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年近くなっている・・。

家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに、行ったりしている。

今回はたまたま15日(日)~22日(日)となり、7泊8日となり、
家内は孤軍奮闘しているのである。

私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

そして、『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、資源として再生される『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日と、
日付別のメモ用紙に書いたりして、少しボケた私は自戒させたりしている。


私は年金生活になってからは、程々に気ままな生活を過ごしているが、
更に家内が留守のを幸いに、自在な時間を送ったりしている。

私は幼年期は農家の三男坊の田舎者であったが、
齢ばかり重ねた私は少し都会風にお洒落(しゃれ)をした洋装で、駅前の本屋に行ったり、
スーパーに寄ったりし、中年以上の女性のしぐさに見惚(みと)れることもある。

居間にいると、映画のビデオ・テープ、DVDの作品を映画棚から取り出して、
テレビ画面を通して視聴したり、好きな音楽も大音量で聴いたりしている。

いずれも家内は、大音量が苦手な身であるから、平素は抑制しているが、
この時とばかり、映画の作品はある程度の音量でないと、
音楽もそれ相当の音量がないと、魅感が薄れると固く信じているので、自在にしている。

そして、洗濯に関しては、たまたま昨年に乾燥の機能がある洗濯機に買い改めたので、
オール自動セットとし、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、平素より遅かったりしている。


このような生活をしているが、万一、家内が先に死去された場合は、
本当に『おひとりさま』の生活になるのだろう、と昨夜ぼんやりと思ったりした。

やはり、家内と長年寝食を共にし、苦楽の人生を共に35年を歩んできた私にとっては、
会話がないと、寂しい、と改めて感じたりした。


私の近所にお住まいの10年ぐらい齢上の男性の方がいて、
奥様を亡くされて2年ぐらいになるが、
過日の2ヶ月前の頃、私は遊歩道を散策している時、
偶然に道路の脇のベンチに座られて休息したいたのを見かけ、私は近づき、会話を重ねた・・。

この時の会話の中で、この齢上の男性の方が、
『空気のように連れ合いを思っていたが・・亡くなって初めて・・大変な存在の人だった・・』
と私に発露された言葉が、
昨夜、蘇(よみが)ったのである。


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曽野綾子・著の『都会の幸福』、この人生の確かな格言と感じ、思わず正座させられて・・。

2011-05-18 09:59:29 | 定年後の思い
昨日の昼下り、私は和室の奥にある3畳ばかり書庫に行き、
曽野綾子・著の『都会の幸福』(PHP研究所)の単行本を抜き取った。

この本は、1989年11月24日に発刊と明記されているので、
平成元年に発売された本である。
私は本が何よりも好きなひとりで、我が家にある本は殆ど私が買い求めてきたが、
この本は、20数年前に家内から依頼されて、会社の退社後に最寄の本屋に立ち寄り、購入した本である。

私は家内が読み終わった後、いずれ読もうかしら、と思ったりしていたのであるが、
この当時は私もサラリーマンのひとりとして、特に多忙期であったので、
睡眠時間を削り奮闘していた時でもあり、何かと読む機会を失ってしまった。


過日、老後のことを配慮して、家内に手伝ってもらい、
5000冊前後の本の整理をして、やむなく3000冊ぐらい処分したが、
今後も読むと思われる2000冊ばかりの本は残した。

この時、私なりに選別していた時に、この本が私の前に出てきて、
この本は未読の本だよねぇ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。


小雨が降りだした午後の2時過ぎに、
私は居間のソファーで読み始めたのであるが、本書の前半にある箇所で、
動顚させられたのである・・。

《・・
もし人間が人間らしく複雑でまともであれば、
どれほど物質的に恵まれても、
家庭的に幸福でも、
社会的に安定していても、
人生の目的が明確でも、
なお深奥に不安や虚しさや寂しさを持ち得るものなのである。

それが人間というものの複雑さであり、
怜悧さであり、強靭さであり、偉大さであり、ふくよかさである。

これがなかったら、もはやそれは人間ではない、言うべきであろう。
・・》
(本書、52ページ)
注)著作者の原文をあえて改行した。


この綴られた文を読み、この人生のまぎれなく確かな名言だ、と感じて、
ふたたびかみ締めるように、読んだりした・・。

そして、気がつくと、私は絨毯の上に正座していたのである。


著作者の曽野綾子(その・あやこ)さんは、1931(昭和6)年の生まれであり、
私は恥ずかしながら1944(昭和19)年に農家の児として生を受けたので、
13歳ぐらい齢上のお方となる。

私の叔母で父の妹のひとりが同年代であり、
私の父が1953(昭和28)年に病死されて、私は小学2年生であったので、
私なりに幼年ながら、何かと戸惑っていた時期もあった。

この叔母が嫁ぐ前の頃でもあり、私を何かと可愛がってくれた人でもあるが、
ときには叱咤激励を私にする方であった。
東京の近郊の農家としては、都会的なセンスがあると私は感じ、
ハイカラな叔母さん、と私は秘かに思いながら、なついたりしていた。

この叔母さんが、その後の私の人生の節目に、
私にさりげなく叱咤激励の意味合いの言葉を、ときおり冠婚葬祭などで、
お逢いすると私に言ったりする方であり、
現在でも身体は弱っても、心は健在の人である。


このように私は作家の曽野綾子さんの作品を読んだりすると、
この叔母に思いを重ねる時もある。

今回、この本書を一節を触(ふ)れて、
私は年金生活の7年生であり、これまでのつたない人生航路を振り返ったり、
ときには現在でも心の奥底に、《・・不安や虚しさや寂しさを・・》を感じる時があるので、
20数年前に発刊された本書を、早く読んでおけば、私の人生観は少し変ったかしら、
と深く思ったりしたのであった。

このよう心境で、私は正座をさせられた、と思ったりしている。

尚、本書は半(なか)ばまで読んだ限りであるので、
愚図の私でも、買物、散策を終えた後、こっそりと続きを読み、
この人生の哲学書のような本書を読もうとしている。


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