夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

X JAPANの『The Last Song』、小雨舞い降る情景を眺め、思わずを心の中で唄えば・・。

2011-05-29 15:21:44 | 真摯に『文学』を思考する時
東京郊外は、一昨日より『入梅入り』となり、
今朝も朝から小雨が降って、小庭の樹木の枝葉はしっとり濡れ、
先ほど、庭のテラスのはずれで、ぼんやりと空を見上げたりしていた・・。

こうした時、突然に脳裏からひとつの歌が流れて、
私は心の中で唄いだした・・。


♪傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかける

【『The Last Song』 作詞、作曲・YOSHIKI、編曲・X JAPAN 】


私はどうしてこの歌が思いだされたのか、
我ながら、どうしてなの、と少しばかり驚いたりしていた。

この歌は、ロック・グループのX JAPANの最後の頃の名曲であるが、
改めてどうしてなの・・、と私は思い返したりしていた。

私は昼前に、【『究極の節電 昭和の「非電化」製品に人気』のニュース、私は懐かしげに微笑んで・・。】
と題した投稿文を綴ったりしたので、
こうした昭和のことを思いだし、過ぎ去った私の軌跡を思い浮かべたのかしら、と思ったりした。


私は昭和19(1944)年に東京郊外で農家の児として生を受け、
小学2年の時、父に病死され、
東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年に大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら、映画・文学青年の真似事をしたりした。

その後、あえなく挫折し、25歳の時に企業に何とか中途入社し、
35年ばかり音楽業界のある会社に勤め、定年退職した。

私は中学時代の頃からは、表面は明るく振舞っていたが、
心の中で血みどれに自己格闘し、
ときおり確固たる根拠なく自信をもたげて独断・偏見の言動もあり、
ときには卑屈になったりして、屈折した半生でもあった。

このような心の軌跡があるので、
サラリーマンの家で生を受け、それなりの文化に育(はぐく)まれて、
大学を卒業し、大企業で勤めたエリートの人々とは、
最も遠い存在と思ったりしているのである。

このような心情を思い返してか、

♪終らない雨 抱きしめた 夜が朝を向かえる
 心はまだ濡れたまま
 傷つくだけ 傷ついて 解かったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかけている

【『The Last Song』 作詞、作曲・YOSHIKI、編曲・X JAPAN 】

このような心の中で唄っているのである。

この心の根底には、つたない私でも命の果てるまで、
確固たる散文のひとつだけを書き遺(のこ)したく、もとより文章修行が必要であるが、
ときには自信が揺らぐ時もある。

多くの作家は、一流の大学の文学部の国文科を卒業しながら、
文学修行して、この中のごく一部が作家として、何とか筆一本の生計が成り立つのが、
ここ50年に多いと思われる。

私は場合は、独りよがりで独学であり、
かって若き日は、30代を迎えた時、とても妻子を養う自信がなく、
早々と敗退宣言をした苦い体験があるが、
現在は年金生活をしているので、生計だけは心配がないだけであり、
かっての感性と感覚の衰えは隠せないのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が、
遺(のこ)され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、と念願している。

私にとっては、多少の人生経験を頼りに、
果たして確固たる散文のひとつを遺せるか、自信が揺らぎ、
独りよがりの思い込みをやめて、安楽な年金生活を過ごすことゆだねれば、
ともうひとりの私が誘惑するのである。

こうした迷いで弱気になった時、心の片隅みに揺れ動き、
このような歌が浮かび上がった、と私は苦笑している。


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『究極の節電 昭和の「非電化」製品に人気』のニュース、私は懐かしげに微笑んで・・。

2011-05-29 11:50:19 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようと、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
たまたまひとつのニュースにめぐり逢え、思わず微笑んだりした・・。

《  究極の節電 昭和の「非電化」製品に人気
             魔法瓶 土鍋 よしず、販売増 》

見出しされた記事で、私は昭和19(1944)年に生を受けたので、
懐かしさもあり、そして精読した・・。

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20110526-OYT8T00660.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《 究極の節電 昭和の「非電化」製品に人気 》☆


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の児として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ときには小作人の手を借りながら、
程々に広い田畑、竹林、雑木林、そして田んぼの外れに蓮(ハス)専用の水田があった。
父、祖父が亡くなる小学生の前半までは、このような情景であった。

この当時は、母屋、納戸小屋ふたつ、蔵があり、
母屋の裏手には井戸があり、釣瓶(つるべ)の井戸は使われなくなり、
手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、一坪ぐらいコンクリートの水辺を設置され、
樽(たる)、桶(おけ)、そして最新のブルキのバケツが置かれていた。

樽は、夏の時節には、西瓜(スイカ)、瓜(うり)、
桶(おけ)には、茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)などを浮かべ、冷やされていた。

もとより水道もなく、母屋に台所、風呂場があるので、
それぞれ使用に応じて、この手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、使用していた。
確か私も小学一年生の頃になると、
叔母の父の妹にまといつきながら、風呂の水汲みに手伝だったりした。

梅雨の頃から秋のお彼岸の頃までは、
家の廊下の一部には、茣蓙(ござ)を敷いたり、
各部屋は簾(すだれ)で陽射しをさえぎったりしていた。
そして、団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりし、暑さをしのいだりし、
祖父、父、母、叔母たちは、外出の時は扇子(せんす)を用いていた。

夜になると、和室の10畳のふたつ、8畳の部屋は、
それぞれ蚊帳(かや)が吊られて、少し暗さ増す中、
それぞれ布団が敷かれて、寝室に変貌した。

そして廊下の外れに、風鈴(ふうりん)が微風を受けると、鳴り響いていた・・。


電気は関しては、この当時の生家は、
蛍光灯もなく、それぞれの傘の付けられた電球の灯りに頼り、
テレビもなく、ラジオからニュース、流行歌を聴いたりしていた。
そして、電話もなく、緊急の場合は、近所の知人、或いは電報の時代であった。

そしてガスもない時代であり、竈(かまど)で枝葉、薪(まき)、
簡易なコンロで炭(すみ)火、或いは練炭(れんたん)などで、煮炊きしていた時代であり、
風呂も枝葉、薪(まき)で、風呂釜を沸かしていた。

魔法瓶は私が小学高学年から、利用されていた。
ヤカンで水を沸かした後、お湯を魔法瓶に移して、
母や叔母たちは、大変助かるわ、と悦んでいた・・。
私は遠足に簡易な携帯魔棒瓶を持っていった記憶があるが、
この当時の魔法瓶は丁重に扱わないと壊れてしまい、私は怒られた記憶もあった。

その後、私が中学生になると、冷蔵庫、扇風機、電話、テレビが生家に入り、
大きく変貌した。


齢ばかり重ねた今の私は、暑さが何よりも苦手となっている。

我が家は毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。

この後は、私は居間のクーラーの冷気に頼っていて、
外出の買物、散策は帽子を深くかぶり、扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
歩いたりしている。

そして、帰宅後は洗面所で冷たい水で顔を洗ったりし、
着替えをした後、居間のクーラーの冷気の下で涼むことが圧倒的に多くなっている。

そして、ときおり団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりし、
私の小学時代の昭和32(1957)年の頃を懐かしく、思い重ねたりしている。


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