夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私のブログ『極楽とんぼ・・』、そして『夢逢人・・』の命名した発想、そして秘かな願いは・・。

2013-04-02 14:05:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして年金生活を始めてまもなくブログの世界を知り、パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性になってしまったかのように投稿を重ねてきた・・。

ブログサイトの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治の分野まで発露でき、
何より従来のホームページ形式より手軽に開設、運営できると思ったりした。
               
そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、深く思案したりした。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
ひとつの発想の根拠としては、他のサイトで綴ったが、私の幼年期からの深い想いでがあった。

私が小学校に入学したのは、1951〈昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

その後、父は病死し、一年後に祖父も死去したので、没落し始めた・・。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家で独りで留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 ・・(略)・・
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』(新潮社)を
私は1992〈平成4〉年の頃に愛読していたので、恥ずかしながら拝借し、
定年退職後の年金生活を、自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。
               

そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、コメントを頂き、私なりに喜びであり、
コメントをして頂いたお方の日記に、私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

こうした中で、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、この当時は幾たびかエラーなどが発生し、
初心者として技量もなく、何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、私は他ブログ・サイトを探した。

そしてブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
『すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管した。

私は【すくすくブログ】の加入した短い間、この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
もとより無関係の私に非難のコメントを送られたりし、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。
                              

その後、幾たびかブログサイトに彷徨(さまよい)い2010(平成22)年の7月から、
【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称し、
そして発信名だけは、2005(平成17)年の春過ぎの頃から『yumede-ai』として、
長らく継続している・・。

そして『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』は、いつまでも年金青年ではないと実感し、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』と改称したが、
過ぎし3月29日に於いて、何かしら私が短絡的に綴れるのは、《たわむれ》として逃げ場がある、
と後ろめたくなり、『夢逢人かりそめ草紙』と改めたりした。
               

今回、私はこの『夢逢人・・』のタイトル、発信名の『夢逢人(yumede-ai)』の発想を記載する。

私の若き頃の高校生の2年になった1961〈昭和36〉年4月過ぎ、
生家の居間で、次兄と共に何気なしにテレビを視聴していた。

すらっとした大人の女性が、上半身を右に傾けてお辞儀をされて司会をされ、
何かしら毎回のテーマに基づいて、これに伴いショートコントが展開したり、
その間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などがあった番組だった、とぼんやりと記憶している。

この番組はNHKの『夢であいましょう』であり、番組の内容もさることながら、
何よりも司会をされた中嶋弘子さんの都会の大人の麗人のしぐさ、顔立ち、声質に、
高校生の私でも、圧倒的に魅了されて、見惚(みと)れていたのである。

この後、何故かしら中嶋弘子さんは降板され、この後は苦手な黒柳徹子さんが司会をされたので、
これ以降、私は『夢であいましょう』を視聴をやめた。
そして私は17歳の身ながら、中嶋弘子さんに関して、高嶺の花のあこがれの君のような存在となり、
長らく私の心の片隅みに残影し、今でも残っている。
               

私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった、
               
次兄が自営業の資金繰りに失敗し、睡眠薬を多量に飲み自裁し、
この当時の私は住宅ローン返済で苦慮していたので、次兄から無力と感じとられて何の役にも立てずにいた・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したのである。


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