夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

この人生は笑いと涙のあふれた『七転八起』かしら、と拙(つたな)い私でも思い馳せ・・。

2013-04-25 15:46:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68の身であるが、
ときおり、過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私たち夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思い重ねる時がある・・。

私は中小業の音楽業界のあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を発露するのが大切と思ったりしている。

このような思いを秘めてきた私は、数多く投稿文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、といっても差し支えない。
               

私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19)年の秋に旧家の農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学生の前期に父に病死され、まもなく一年過ぎた頃に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。
その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄妹は何とか世間並みの生活が出来るようになった。

この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて、熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。

私は小学生の後半から映画に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。

そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。


結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
ある大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
               

この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。

そして、ぎっくり腰で1ヶ月ばかり入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たる空気の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。


こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。
私たち夫婦は子供も恵まれなかったので、老後も2人だけの家庭となるので、
残された歳月、その後の片割れになった時も配慮したりした。

老後の資金も肝要なので、私は出向先の不馴れな物流情報センターで、
何とか頑張れて、定年退職を迎えることが出来たのである。
              

そして定年退職後は、予定通り年金生活となり、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。

ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、
学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態である。


私の日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。


このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活は大幅に変更を余儀なくされている、
と思ったりしている。
               
定年後、念願の年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身の何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
悪戦苦闘の多かった半生を重ね、微苦笑する時もある。

そして人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた、
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に感謝の念を深めている。

そして老後の生活を迎えている私は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

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