夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

小雨舞い降る朝、『城ヶ島の雨』を心の中で唄い、詩人・北原白秋に思いを馳せたりし・・。

2011-05-24 08:29:44 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む身であるが、今朝6時半過ぎに玄関庭の軒下に下りると、
小雨降っていたので、やむなく樹木の枝葉を洗い清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。

しかし、一昨日の22日の昼下がりまで初夏のような暑さが3日ばかり続いた後、
突然に強い風が吹き荒れ、やがて本降りの雨となり、
昨日の23日は、小雨が降ったりやんだりし10度ばかり気温が低下し、
4月中旬のように気候に戻ったりして、私は戸惑ったりしていた。

早朝に地元の天気情報によれば、
本日は午前中まで小雨が降り、その後は回復して明日の26日までは晴れ間となり、
その後は長らく曇り時々雨となり、ぐずついた日々となります、と報じていた・・。

私の住む地域は本格的な『梅雨(つゆ)』は毎年6月中旬の頃であり、
その前に一時的に長い期間降る序曲のような長雨かしらと思い、『走り梅雨』と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と心の中で思ったりし、小雨舞い降る情景を眺めていた・・。


♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
《・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・》

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。


私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
《・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・

(略)

白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・》
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。

そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。

♪雨はふるふる
 日はうす曇る
 舟はゆくゆく
 帆がかすむ

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを15分ばかり思ったりした。



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つたない私、定年退職直後から年金生活を始めた理由、その後の秘かな目標のひとつには・・。

2011-05-23 18:17:25 | 真摯に『文学』を思考する時
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりである。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、優等生であったが、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、
貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむえず田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。
私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、
高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆し、やがて挫折した後、
民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
ある大手の民間会社に中途会社にできたのは、1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなくレコード会社に異動させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいると勘違いしたり、
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

この後、私が54歳を迎える頃、レコード業界はピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われ、
リストラ旋風となった。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私も翌年の早春に同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。

私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、残された歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。

私は出向を受けて業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。
この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は自慢史が多いと云われているが、私は程遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の60代は五体満足で生かしてくれ、
これ以降の70代は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かった。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


しかしながら、いつの日にかは命(いのち)果てる時がある。
ある日、川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。

木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。

5年先か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。


尚、私は葬儀は家族葬とし、死者は土に還るという意味あいから、樹木葬にと、
私達は子供に恵まれなかったこともあり、寺院の墓地は不要である、
とここ6年ばかり家内に云ったりしている。


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東京スカイツリーの高い所にある大型クレーン、どうやって地面におろすの、と私は学童から訊かれ・・。

2011-05-23 12:44:27 | 時事【社会】
私は過日の10日前、いつものように散策をして自宅の近くに戻った時、
小学校の下校時間を過ぎた後らしく、近所に住む二人の学童を見かけた・・。

『おじさ~ん・・こんにちは・・』
と私はこの中のひとりのから、元気よく挨拶された。

この後、この学童から、
『おじさん・・変なことを訊(き)くけれど・・
東京スカイツリー、工事をしていますよねぇ・・
あの高い所で活躍している大型クレーン・・
工事が終った時、どうやって地面に降ろすの・・?』
と私に問いかけたのである。

『おじさんは・・恥ずかしいけれど、東京スカイツリーのあのようなことは、解からないよ・・』
と私は学童に言ったりした。


このようなこともあり、私は近所の学童に失望させてしまい、
少しばかり心の片隅に残っていたのであったが、
先ほど、たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていて、
ひとつのニュース記事に思わず、微笑(ほほえ)んだ・・。

《 こうやって下ろす…ツリーのクレーン撤去開始 》

と見出しされた記事であった。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
     こうやって下ろす…ツリーのクレーン撤去開始

今年3月に目標の高さ634メートルに到達した東京・墨田区の東京スカイツリーで23日朝から、
大型クレーンの撤去作業が始まった。

大型クレーンは4基あり、2基は高さ約500メートル、残る2基は約400メートルの位置にある。
この日はこのうち1基で作業をスタート。
クレーンを第1展望台の屋上(375メートル)まで下げて、
ここで解体し、隣のクレーンを使って地上まで下ろす。

この方法で3基を撤去。
最後の1基は、隣に一回り小さなクレーンを設置しては解体するという作業を繰り返して
徐々に小さくしていき、最後は人の手で分解する。
すべてのクレーンが撤去されるのは今年秋の見通し。

(2011年5月23日11時30分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110523-OYT1T00409.htm?from=main7
☆【YOMIURI ONLINE】《 こうやって下ろす…ツリーのクレーン撤去開始 》☆


私は66歳の年金生活の身であるが、
小学生の頃から、理科、工作などは通信簿『2』の劣等生であった。
小学4年生の時、工作の授業で、小さな本箱を作るように、と先生から指示された。
結果としては、クラスの男女45名の私たち学童は、それぞれの孤軍奮闘したが、
何故かしら私を含めて10人ばかりが、不出来であった・・。

恥ずかしながら、いまだに飛行機が空を飛べて、無事に目的地の飛行場に着陸できるのか、
解からないのである。

このような私は、今回のニュースを二度ばかり読み返して、
このように大型クレーンの撤去作業はするの、と読んだりしていたのである。


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齢ばかり重ねた年金生活の私でも、残された人生の日々は、『退屈』は死語なり・・。

2011-05-23 09:34:46 | 定年後の思い
私は中小業の民間会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
年金生活をしている身であるが、
早くも6年は過ぎても、7年生になってしまったか、と微苦笑する時がある。

私の現役時代の50代の時、先輩が定年退職された後、
お逢いした時、暇でねぇ、と聞いたりしたりしたりする時もあった。

そして昨今、ときおり家内と共に駅前に出た時、家内が買物をしている合い間、
コーヒーショツプの『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている時、
私と同年代の男性の1部の方が、
暇を持て余しているのを見かけたりする。

私はこうした男性を見かけたりした時、
退屈そうにしている人の心情が解からないのである。


私は日頃は買物、散策をしたりする時に四季の移ろいを享受し、
小説、随筆、歴史書、現代史などの読書をしたり、
古き良き時代の映画を居間で観たり、或いは音楽を居間などで聴いたりしている。
その上に、日常の生活で感じた事や思考したことを文章に綴り、
ブログのサイトに殆ど毎日投稿している。

そして、ときおり小庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行で、その地の風土、文化などを学んだりしている。

こうしたことを定年退職後の年金生活を過ごしてきたが、
退屈とか、暇だとか感じたことはないのである。

むしろ一日が早くも終ってしまった、
とため息をしながら、
明日もあるのだからと枕元のスダンドの灯を消すこともある。


私は退職後の年金生活に入った時は、
せめて10年間だけは五体満足で生かしてくれ、
その後は余生と思ったりしているひとりである。

人は永(なが)らえても100年程度の命であるので、
残された人生の後半は、出来る限り自身の心に忠実に日々を過ごしたい、
と念願しながら毎日を過ごしている。


何よりも時間の配分を自在に使える年金の身なので、
ご自分の好きなことに精進、そして深化できれば、
この人生に於いて、限りない贅沢な時期と確信している。

このことは年金の多少にかかわらず、
その人の心の自覚と思っている。

私は高齢者の方も含めて、生きがいをなくされた方、
暇で退屈な人生と思われる方には、
言葉をかけることなく、目の輝きを失ったご自分を粗末にされている、
と思ったりしている。

このようなことを小庭の樹木を眺めたりしながら、思ったりしている。


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遥か遠い昔の昭和35(1960)年の夏、私が高校1年生で初めての独り旅をして・・。

2011-05-22 09:41:47 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として生を受けたのは、
昭和19(1944)年の秋であった。

長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
祖父、父は三番目は女の子を期待していたらしく、幼児ながら私は感じ取り、
いじけた可愛らしくない言動が多かった。

その上、兄ふたりは学校の成績も優等生で、
私は地元の小学、中学校の学業は、私だけが通信簿『3』と『2』の多い劣等生であった。
『お兄さんのふたりは・・優秀だったのに・・』
と先生から通信簿を頂くたびに、ため息まじりで私に言ったりした。

この間、父が小学校2年の時に病死され、祖父も翌年に亡くなり、
大黒柱ふたりを亡くした生家は、その後やむなく農業をとりやめ、
母はアパート経営などで生計をし、私たちは育った。

こうした中で、私は小学3年生ぐらいから、独りで映画館に行き、
映画作品に熱中したり、群れをなして行動するのは苦手で、
何かと独りで行動することが多かった・・。

昭和35(1960)年の春、私は兄ふたりの影響のない都心の私立の高校に入学して、
突然に学業が楽しくなり、クラスの中で初めて上位グループのひとりとなり、
読書などに目覚めた時であった。


このような高校1年の夏休みの時、初めて独りで旅行に思い立った・・。

夜、東京湾の晴海埠頭(はるみ・ふとう)から乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、三島まで私鉄を利用し、国鉄で東京駅に帰京するプランであった。

このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊予約済の観光ルートであった。


旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒したかボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごしたのであった。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、
少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊をした後、
午後、元町港から下田港行きの観光船に乗り、
下田の観光旅館に予約済みであったのである。


このような思いがあったので、うつろな思いで、
初めての大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、
と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、
と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。


空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、
私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、
そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。

この当時は、俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であったせいか、
海に魅了される人たちの思いも解かったような心情となった。


わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。

この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。


下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、
という思いが強く、安堵したのである。

夕食の時、和服を召した綺麗な若き女性の仲居さんが、
『何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は若き仲居さんに少し見惚(みと)れながら、
不馴れな浴衣姿で照れながら云ったりした。

この後の周遊は、予定通り順調であった。


私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。

この当時の私は、もとよりビールの味も知らず、
和服を召した若き仲居さんに、綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であった。


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大津美子さんの『ここに幸あり』の歌、私が皿洗いをしていた時、思わず鼻歌を唄い・・。

2011-05-21 20:58:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年近くなっている・・。

家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに、行ったりしている。

そして今回はテレビに関して、
遅ればせながらデジタル対応に家内の母は、やむなく決意したので、
テレビを買い改めたり、新たなるアンテナの設置工事などで、
たまたま15日(日)~22日(日)となり、7泊8日となり、
家内は孤軍奮闘しているのである。

私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。


こうした時、私は台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、皿洗いをしたりしている・・。

前掛けをして、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。

本日の昼下り、台所で奮戦していた時、どうした心境が解からないが、

♪嵐も吹けば 雨も降る
 女の道よ なぜ険(けわ)し
 君をたよりに わたしは生きる
 ここに幸あり 青い空

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄いだしたのである。


私は苦笑しながら、確か私の小学五年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりしていたが、
思い出すように、

♪いのちの限り 呼びかける
 こだまのはてに 待つは誰

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄ったりした・・。


私はカラオケは苦手であるが、現役時代のサラリーマンの時は、
おつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、唄ったこともないのである。

私の少年期に聴いた曲が、心の片隅にあったのかしら、
と少し照れたりし、戸惑ったりした・・。

こうして、皿洗いをして、台所を清めると45分前後の作業だったが、
成果のある小綺麗になった台所を見ながら微笑んだりした。


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『小満(しょうまん)』の時節を迎え、余りにも快適な日々となり、私は微笑(ほほえ)みながらも・・。

2011-05-21 12:35:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
早朝、ぼんやりとカレンダーを見ていたら、
『小満(しょうまん)』と明記されていた。

そして私は、6時過ぎに庭のテラスに下り立ち、
朝の陽射しをまばゆく感じたりして、
いつものように私は陽に向かい、感謝の意味で両手を合わせたりしていた。

雲ひとつない青空となり、快晴の朝を迎え、
朝方の6時に18度前後、昼下がりは27度前後、夕暮れの6時には24度前後、
と地元の天気情報は報じて折、
平年ならば梅雨(つゆ)の晴れ間のような陽気かしら、と私は微苦笑をしたりしていた。

昨日もこのように余りにも恵まれた陽気で、
昼下りは26度ぐらいとなり、少し熱いかしら、と感じたりしていた。


先ほど、私が定年後から何かと愛用している『日本文化いろは事典』のサイトを頼り、
『小満(しょうまん)』を開いたりしていた。
《・・
小満とは秋に蒔(ま)いた麦などの穂がつく頃で、
ほっと一安心(少し満足)するという意味です。

田畑を耕して生活の糧(かて)を稼いでいた時代には、
農作物の収穫の有無は、人の生死にかかわる問題でした。

そのため、麦などに穂がつくと
『今のところは順調だ、よかった』と満足したことから、
小満と言う名前が付いたようです。
・・》
と教示されたりしていた。

そしてNHKの天気予報などで可愛らしい女性キャスターのひとりが、
陽気がよくなり、草木が繁って天地に満ち始める頃という意味です、
と報じられていた。

いずれにしても、25度前後の燦燦とした陽射しを受け、
ときには初夏のような暑さとなったり、
ある時は本格的な梅雨の前、一時時期にある小雨が降ったり止(や)んだりする走り梅雨の日々、
そして大切に耕し保存管理してきた豊かな土壌、
この三拍子の調和の中で、
農作物はもとより果樹、樹木、草花がめざましく成長する、
と私は現代風に思ったりしている。

先程、庭のテラスに下り立ち、樹木のたわわな青葉が日増しに色合いを深めたり、
枝葉を勢いよく伸ばしたりしているのを眺めたりすると、、
それぞれの樹木が、この時節が一年の中で最も心地よいのよ、
と言っているように私は感じられている。

そして稲穂に近い小判草(コバンソウ)の群生は揺れ、
半夏生(ハンゲショウ)、唐糸草(カライトソウ)は日増しに成長し、
この時節を教示してくれる。


そして私は暑さが何よりも苦手なので、
この時節は、秘かな願いとして、
23度前後の快晴の日々が4日ばかり続き、曇り空の一日、そして雨降り一日、
こうしたサイクルに天上の気候の神々が采配して下されば、
私はこよなく愛(いと)おしい日々であると身勝手に思いながら、
空一面に青空の広がっている情景を、ぼんやりと見つめたりしている。


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東電の次期社長、読売新聞に明記されたが、就任できなかった方に、私は思わず同情し・・。

2011-05-21 09:18:33 | 時事【社会】
私はいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたが、
《 東電、赤字1兆2473億円 》、《 原発特損1兆円 》、
《 社長に西沢氏 》
と見出しされた記事を見て、
あれぇ、確か次期社長は、築舘(ちくだて)さんではなかったのかしら、と思ったした。

昨日の朝、読売新聞の朝刊を読んでいて、トップ面の記事に、
《 東電社長に築舘氏 》
と大きな見出しの後に、《 清水氏引責 》、《 赤字1.5兆円 》と見出しされた記事があり、
この記事を読んだりしていたのである。

そして、空前の難題の中、次期社長に就任される方は大変だなぁ、
と思ったりし、この方の紹介欄が掲載されていたので、読んだりした。

築舘勝利氏(ちくだて・かつとし)であったが、
何かしら常任監査役を2007年6月からされている方、と私は解かったが、
いずれにしても、この時期に責務は大変だ、と思ったりしていた。


昨日の20日の金曜日の朝刊から、今朝の21日の朝刊には、
次期社長には、西沢俊夫氏(にしざわ・としお)と明記されているので、
たった一日で、東電の次期社長が変ってしまったことに、
私は驚いてしまった。

私は年金生活をしているが、現役時代は、
中小業の民間会社に35年ばかり勤めていたサラリーマンの身であったが、
もとより電力業界も無知であり、まして東京電力の内情も知らないので、
巨大な大企業は、こうしたことがあるのかしら、と思ったりした。


この後、この記事の最後に、
《・・
後任社長は、築舘勝利常任監査役(69)が短期間務める案も一時浮上したが、
最終的には西沢氏の昇格が決まった。
・・》
と結び文として書かれていた。

そして、この後には、
【おわび】という欄があり、
《 20朝刊で、「東電社長に築舘氏」との記事を掲載しましたが、
  誤りでした。
  おわびします 》
と明記されていた。


私は大手のメディアのひとつの読売新聞でも、
こうした誤報をするのかしら、と苦笑したりした。
そして、大手・中小に関わらずメディアの報じる記事に対して、
【おわび】の記事は、余りにも小さ過ぎて、
書かれた方は、書かれ損、と感じたりしていた・・。


今回、築舘勝利常任監査役はたとえ一日でも、次期社長として祭り上げられ、
当人はもとより、側近のメンバーの心情を配慮すると、思わず同情させられた・・。

この後の私の心情としては、たった一日の中で、東電の首脳陣の内部はもとより、
関連の内閣府の原子力委員会、経済産業省原子力安全・保安院、或いは政府関係者の意向など、
何が行われ解からないが、不思議な世界である、と苦笑したのである。


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曽野綾子(その・あやこ)さんに、公然とお逢いできる、ひとつの方法としては・・。

2011-05-20 11:47:26 | 定年後の思い
私は最近の読書の傾向として、
作家・曽野綾子さんのエッセイなどを読むことが多くなっている。

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
大学を中退して、アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をしていた時代もあった。

こうした中で、作家・曽野綾子さんの作品を初めて読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新な全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子(その・あやこ)、北杜夫(きた・もりお)』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

その後の私は、文学青年の真似事も挫折し敗退した後、
サラリーマンとして民間会社に勤めだしたのは、 1970(昭和45)年4月であった。

そして2004(平成16)年の10月に定年退職するまでの35年弱、
数多くのサラリーマンと同様に多忙な期間でもあり、
曽野綾子さんの作品は、題名も忘れてしまったが、エッセイ集の単行本を3冊ぐらい買い求めたり、
明確に覚えているのは、月間雑誌の『新潮45』に於いて、
『夜明けの新聞の匂い』と題された連載のエッセイを1990(平成2)年の前後3年ぐらいは、
読んだ記憶があるが、これ以外は定かでない。


私は退職の5年前の頃には、退職後の10年は五体満足で生かしてくれ、
その後の70代以降は余生であり、平均寿命なんて・・と公言したりし、
年配者の一部から険悪されたりしていた。

そして、退職後の1年を過ぎた頃、
亡き作家・城山三郎(しろやま・さぶろう)氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。
・・》

この名言をお借りして、私の残された人生の信条としている。

私は66歳の高齢者2年生となった身であるが、
やはり人生の残された歳月を漠然と考える時、強がりの私でも不安がある。

ここ一年ぐらいは、突然に曽野綾子さんの作品を読み始め、
数多くのエッセイ集の単行本、新書、文庫本を本屋で買い求めたり、古本屋で偶然に見つけて、
購読している。

曽野綾子さんの綴られたエッセイを読むと、短縮した言葉であえて表現すれば、
もとより明確な人生観を根底にあり、たぐいまれな言動を重ねて、
超高齢化社会の高齢者世代に、残された人生の指針を具体的に発露され、
そして読者は生きがいの要素の再確認と安堵感をもたらす、
と私は思ったりしている・・。


今朝、いつものように読売新聞を読んでいて、
2面の下段に、曽野綾子さんの微笑した写真があった。

徳間書店の出版の広告が掲載されて、

《 ベストセラー『老いの才覚』に続く 最期の備え
             この時代をより良く生きるために

  『人生の第四楽章としての死』
                曽野綾子  》

と重版の広告であった。

そして《 人生は明るく前向きに 締めくくることができる 》と大きく横書きされ、
8か条のような箇条書きが明記されていた・・。

著作権の関係もあり、ひとつだけ転記させて頂く。

《 最後に残るのは、財産でもなく名声でもなく愛だけだ 》

と明記されていた。

このような箇条書きのひとつを読むと、つたない人生を歩んできた私でも、
降参します、と思いながら本屋に行き、買い求め読みたくなる不思議な本である。

まぎれなく私が精読すれば、市販のビタミン剤より少なくとも百万倍は、
心身ともに効果がある、と感じている。


このようにぼんやりと感じていたら、
この広告の右隅に、
《 刊行記念サイン会のお知らせ 》
と明記されて、詳細内容が明示されていた。

この後、これだったら曽野綾子さんに、公然とお逢いできる、
と思い、微笑んでしまった・・。

しかし私にとっては、昨今に敬愛を深めている曽野綾子さんにお逢いできるには、
たとえ私が、家内から珍しく誉められた初夏のスーツのようなブレザーの容姿で私が行っても、
あこがれの君のような高嶺の花の曽野綾子さんの前では、
ドキドキしてしまうと思われる小心者の私なのである。

近日中に本屋で買い求めるか、
或いは恥ずかしながら一ヶ月過ぎた後のサイン会の直前に買い求めて、
高嶺の花の曽野綾子さんのお逢いするか、
齢ばかり重ねた私は迷いながら、微苦笑している。


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『レディー・ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位』、齢を重ねた私でも、絶賛し・・。

2011-05-19 16:17:25 | 時事【社会】
先ほど、パソコンを立ち上げるとトップページは【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
このトピックスの見出しとして、

《 ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位 》

やはりこのお方が世界セレブ番付の頂点に達成されたのか、と思いながら、クリックした。

【Movie Walker 】配信された記事であり、無断ながら大部分を転載させて頂く。

《・・
         レディー・ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位に

                          Movie Walker
                          5月19日(木)11時4分配信

フォーブス誌が毎年発表している世界のセレブ100人番付で、
今年はレディー・ガガが1位に選ばれたと米ABCニュースほか、複数のメディアが伝えている。

2005年から1位をほぼ独占していたオプラ・ウィンフリーだが、
今年はガガにその座を明け渡した

フォーブス誌のセレブ番付といえば、
トム・クルーズとアンジェリーナ・ジョリーが、
それぞれ1位になった2006年と2009年を除くと、
オプラ・ウィンフリーが2005年から1位をほぼ独占してきたが、
今年はガガに首位を奪われ、2位落ちの結果になった。

年収ではオプラの推定2億9000万ドルが、ガガの推定9000万ドルを大きく上回っているものの、
メディアやインターネットでの影響力を考慮すると、
ガガの方が有力と見なされたようだ。

「ガガが今年、オプラを抜いた理由は、ソーシャルメディアでの影響力だ。
彼女はFacebookやTwitterでファンを熱狂させ、
それがレコードの売上やメディアでの注目度につながる。

彼女は、今後セレブリティーがどのようにして自分のキャリアを管理するべきかの良いお手本だと言える」
とフォーブス誌のエディターは語っている。

(略)

【UK在住/ブレイディみかこ】
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110519-00000010-mvwalk-movi
☆【YAHOO! JAPAN】
 <==【Movie Walker 】レディー・ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位に ☆


私は年金生活の7年生なっている66歳の身であり、なぜレディー・ガガに興味を持ち、
突然このような記事を取り上げたのは、
たまたま現役のサラリーマンの時代に、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑などの片隅みにいた・・。
しかしながら、何よりも、日本の場合も1998年をピークに、
この業界のCDなどの売上げが、ここ10数年低下するばかりで、
世界の主要国も同様な事態となっているのに、無力な私でも、いたたまれず綴ったのである。

昨今は、アーティストの作詞、作曲、編曲、歌手、そして演奏者たちも、
多くの人たちは収入激変で、肝要の創作活動に一部に支障さえ出でいる、
と風の噂で聞いたりしている・・。

もとより音楽配信の正規でない違法な拡大、正規の音楽配信の余りにも低価格、
そして趣味の多様化などが、主因と私は思っているが、
これでは益々明日が見えなくなる音楽の世界になってしまうのでないか、
と無力ながら憂いてきている。


こうした中で、私は遅ればせながら半年前の頃から、
レディー・ガガの破竹の勢いでアメリカ市場はもとより、日本を始め各国で、
昨今の低迷している音楽市場の中で、驚異な売上げをしている、とネットのサイトで学んできたのである。
そして私は、レディー・ガガの軌跡を知り、動顚させられたり、
特に洋楽に苦手な私でも、2曲ばかり聴いたりしてきた・・。

そして、私の無知なFacebookやTwitterを活用し、
伸長してきたのには、ただ驚き、ため息させられたりした。
ここ10年ぐらいネットの蔓延した世界で、世界の音楽業界が低迷している中、
逆に徹底して活用していたことに、ただ驚き凄いお方だと感じたりしてきたのである。


先ほど、これに関しては明確で具体的に、綴られたサイトの寄稿文がある。
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表取締役・斉藤徹(さいとう・とおる)氏が、
『レディーガガに学ぶソーシャルメディア活用最前線』と題したサイトであり、
私は2時間ぐらいで読んだりした。

http://blogs.itmedia.co.jp/saito/2010/02/post-e25c.html
☆斉藤徹(さいとう・とおる)氏の『レディーガガに学ぶソーシャルメディア活用最前線』☆


私は無念ながら、FacebookやTwitterなどの世界が無知なので、
想像力を駆逐しながら読んだりしたのである。

いずれにしても、音楽業界が烈風の中、貴女は新たな時代を自ら切り開いた桁外れに凄い人だ、
と私はレディーガガを絶賛している。


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『サラリーマン川柳』、我が人生のまぎれない哲学書のひとつであり、幾たびも哀歓を重ねて・・。

2011-05-19 13:09:40 | 定年後の思い
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、
33面の【社会面】を見ていた、

《 久しぶり~ 名が出ないまま じゃあまたね~ 》

と風変わりな見出しがあり、何かしらと思い注視させられたのである。

記事を見ると、小さく、

《 サラリーマン川柳1位 》

と明記されていたので、私は第一生命保険が主催する『サラリーマン川柳』のことだ、
と瞬時に理解でき、記事を精読したのである。

無断ながら、この記事を転記させて頂く。

《・・
第一生命保険は18日、恒例の「サラリーマン川柳コンクール」のベスト10作品を発表した。

1位は、名前が思い出せずに会話を交わす歯がゆさを表現した
「久しぶり~ 名が出ないまま じゃあまたね~」だった。

2位は「クレームも 社員じゃわからん パート出せ」、

3位は「何になる? 子供の答えは 正社員」で、
厳しい雇用環境を反映した作品が上位に並んだ。

「指なめて ページをめくる アイパッド」(5位)、
「ボーナスは メガネかけても 飛び出さず」(6位)と、
多機能情報端末や3D(3次元)映像などの新商品・サービスを反映した作品も目立った。

今年2月に選ばれた入選100作品の中から、約8万票の投票で決まった。
・・》
注)新聞の記事の原文に、あえて改行を多くした。


この後、私は主催して下さっている第一生命保険、そして詠まれた方に感謝しながら、
このサイトを毎年見ているのが、ここ6年の習性となっている。

http://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/24th/best_10.html
☆【第一生命保険ホームページ】
   <==【私が選ぶサラ川 ベスト10 全国投票結果発表!!】
         <==【第24回 「サラリーマン川柳コンクール」ベスト10作品】☆


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
ときおり『サラ川』と称せられている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』を愛読している。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受け、
大学を中退後、映画・文学青年の真似事をし、
民間会社に中途入社し、35年ばかり勤め、2004(平成16)年の秋に定年退職をした。

この間、最後の5年は出向となったりし、中小業の音楽業界のある会社に勤めていたので、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。


このようなつたない私の半生であり、
何かと『サラリーマン川柳』が好きで、現役時代から愛読し、励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、ときには本を開いたりしている。


今回の第24回の第一位の選定された作品、

   久しぶり~ 名が出ないまま じゃあまたね~ 
            
                       作者・シーゲ

私も幾度も体験があったので、読み終わって数秒後に、微苦笑させられたのである。


会社の懇親会の立席パーティなどの時、
相手の顔を明確に覚えているのであるが、苗字が思いだせないまま談笑したりする。

或いは、半年前、駅のプラットホームで電車を待っていたら、
『しばらく・・でした・・』
と私は声をかけられ、確か会社時代の後輩だった思ったが、
苗字が思い出せないので、私は、
『どうも・・しばらく・・お元気そうで・・』
と言ったりし、別れたのである。

その後、デパートで買物をしている時、『確かXXだった・・』
と後輩だった人の苗字が判明したりした。


今回のベスト10の作品の中で、私が思わず涙を浮かべそうになった下記の作品である。

    おこらすな ママのいかりは パパにくる

                       作者・ベスパパ

私達夫婦は子供に恵まなかったが、たった2人だけの家庭であるが、
私は深く理解できるのである。


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遅ればせながら、菅首相、『原子力行政は「根本的に見直す」・・』、と発言され、私は苦笑し・・。

2011-05-19 07:44:42 | 時事【政治・経済】等
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
菅首相は18日、首相官邸で記者会見し、
この中のひとつとして、原子力行政は「根本的に見直す」と明言されたことを知り、
私は思わず、遅ればせながら根幹の問題に気付かれて、発言されたと苦笑したのである

もとより原子力を推進する立場の経済産業省と、
安全規制を担う原子力安全・保安院を分離する方向で検討することである。

このことに関して、政治に疎(うと)い私でも、このサイトに、
3月30日に於いて、

【 日本の『原子力行政の組織』、無知な私さえも不可解と感じ、国民より信頼される原発体制の構築を・・。】

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/5f4ea6e8214661e6e42e44e9c114c874

と題して、無力な私でも、いたたまれず投稿している。

その後、幾たびか投稿してきたが、この根幹の問題が解決しない限り、
明日の原発体制の見えないので、少なくとも菅首相の側近が気付き、提言され、
菅首相は、強力に発言し、実施すべきであった、
このようなことを今朝、ぼんやりと私は感じたのである。


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私は『おひとりさま』の日々となり、平素よりも更に自由自在の時を過ごし、そして・・。

2011-05-18 19:06:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年近くなっている・・。

家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに、行ったりしている。

今回はたまたま15日(日)~22日(日)となり、7泊8日となり、
家内は孤軍奮闘しているのである。

私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

そして、『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、資源として再生される『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日と、
日付別のメモ用紙に書いたりして、少しボケた私は自戒させたりしている。


私は年金生活になってからは、程々に気ままな生活を過ごしているが、
更に家内が留守のを幸いに、自在な時間を送ったりしている。

私は幼年期は農家の三男坊の田舎者であったが、
齢ばかり重ねた私は少し都会風にお洒落(しゃれ)をした洋装で、駅前の本屋に行ったり、
スーパーに寄ったりし、中年以上の女性のしぐさに見惚(みと)れることもある。

居間にいると、映画のビデオ・テープ、DVDの作品を映画棚から取り出して、
テレビ画面を通して視聴したり、好きな音楽も大音量で聴いたりしている。

いずれも家内は、大音量が苦手な身であるから、平素は抑制しているが、
この時とばかり、映画の作品はある程度の音量でないと、
音楽もそれ相当の音量がないと、魅感が薄れると固く信じているので、自在にしている。

そして、洗濯に関しては、たまたま昨年に乾燥の機能がある洗濯機に買い改めたので、
オール自動セットとし、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、平素より遅かったりしている。


このような生活をしているが、万一、家内が先に死去された場合は、
本当に『おひとりさま』の生活になるのだろう、と昨夜ぼんやりと思ったりした。

やはり、家内と長年寝食を共にし、苦楽の人生を共に35年を歩んできた私にとっては、
会話がないと、寂しい、と改めて感じたりした。


私の近所にお住まいの10年ぐらい齢上の男性の方がいて、
奥様を亡くされて2年ぐらいになるが、
過日の2ヶ月前の頃、私は遊歩道を散策している時、
偶然に道路の脇のベンチに座られて休息したいたのを見かけ、私は近づき、会話を重ねた・・。

この時の会話の中で、この齢上の男性の方が、
『空気のように連れ合いを思っていたが・・亡くなって初めて・・大変な存在の人だった・・』
と私に発露された言葉が、
昨夜、蘇(よみが)ったのである。


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曽野綾子・著の『都会の幸福』、この人生の確かな格言と感じ、思わず正座させられて・・。

2011-05-18 09:59:29 | 定年後の思い
昨日の昼下り、私は和室の奥にある3畳ばかり書庫に行き、
曽野綾子・著の『都会の幸福』(PHP研究所)の単行本を抜き取った。

この本は、1989年11月24日に発刊と明記されているので、
平成元年に発売された本である。
私は本が何よりも好きなひとりで、我が家にある本は殆ど私が買い求めてきたが、
この本は、20数年前に家内から依頼されて、会社の退社後に最寄の本屋に立ち寄り、購入した本である。

私は家内が読み終わった後、いずれ読もうかしら、と思ったりしていたのであるが、
この当時は私もサラリーマンのひとりとして、特に多忙期であったので、
睡眠時間を削り奮闘していた時でもあり、何かと読む機会を失ってしまった。


過日、老後のことを配慮して、家内に手伝ってもらい、
5000冊前後の本の整理をして、やむなく3000冊ぐらい処分したが、
今後も読むと思われる2000冊ばかりの本は残した。

この時、私なりに選別していた時に、この本が私の前に出てきて、
この本は未読の本だよねぇ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。


小雨が降りだした午後の2時過ぎに、
私は居間のソファーで読み始めたのであるが、本書の前半にある箇所で、
動顚させられたのである・・。

《・・
もし人間が人間らしく複雑でまともであれば、
どれほど物質的に恵まれても、
家庭的に幸福でも、
社会的に安定していても、
人生の目的が明確でも、
なお深奥に不安や虚しさや寂しさを持ち得るものなのである。

それが人間というものの複雑さであり、
怜悧さであり、強靭さであり、偉大さであり、ふくよかさである。

これがなかったら、もはやそれは人間ではない、言うべきであろう。
・・》
(本書、52ページ)
注)著作者の原文をあえて改行した。


この綴られた文を読み、この人生のまぎれなく確かな名言だ、と感じて、
ふたたびかみ締めるように、読んだりした・・。

そして、気がつくと、私は絨毯の上に正座していたのである。


著作者の曽野綾子(その・あやこ)さんは、1931(昭和6)年の生まれであり、
私は恥ずかしながら1944(昭和19)年に農家の児として生を受けたので、
13歳ぐらい齢上のお方となる。

私の叔母で父の妹のひとりが同年代であり、
私の父が1953(昭和28)年に病死されて、私は小学2年生であったので、
私なりに幼年ながら、何かと戸惑っていた時期もあった。

この叔母が嫁ぐ前の頃でもあり、私を何かと可愛がってくれた人でもあるが、
ときには叱咤激励を私にする方であった。
東京の近郊の農家としては、都会的なセンスがあると私は感じ、
ハイカラな叔母さん、と私は秘かに思いながら、なついたりしていた。

この叔母さんが、その後の私の人生の節目に、
私にさりげなく叱咤激励の意味合いの言葉を、ときおり冠婚葬祭などで、
お逢いすると私に言ったりする方であり、
現在でも身体は弱っても、心は健在の人である。


このように私は作家の曽野綾子さんの作品を読んだりすると、
この叔母に思いを重ねる時もある。

今回、この本書を一節を触(ふ)れて、
私は年金生活の7年生であり、これまでのつたない人生航路を振り返ったり、
ときには現在でも心の奥底に、《・・不安や虚しさや寂しさを・・》を感じる時があるので、
20数年前に発刊された本書を、早く読んでおけば、私の人生観は少し変ったかしら、
と深く思ったりしたのであった。

このよう心境で、私は正座をさせられた、と思ったりしている。

尚、本書は半(なか)ばまで読んだ限りであるので、
愚図の私でも、買物、散策を終えた後、こっそりと続きを読み、
この人生の哲学書のような本書を読もうとしている。


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幾つになっても、つたない私は、ときには物狂いになり、我ながらあきれ果て・・。

2011-05-17 13:49:57 | 定年後の思い
私は民間会社に35年ばかり勤め、2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
その後は年金生活を始め、買物、散策などの時、四季折々のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。


本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く、
過日5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と感じている。

映画の場合は、VCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
ときおり選定し、居間で観賞している。

音楽については、たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた影響で、
レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年前に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれないのである。
しかし、本と映画は、これからの老後を配慮し、過日に大半を処分した。


古ぼけた築後33年の一軒屋で、このような中でつつまれていると、
誰しも同じような体験があると思われるが、
私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが多いが、
少なくとも1年以上続いたのを振り返った時、私なりに微苦笑しているのである。


音楽の場合は、1971(昭和46)年にシャンソンの『バルバラ』に魅了され、
その後は『金子由香里(かねこ・ゆかり)』を盛んに聴いていた。
この当時は、レコードが主流であったので、
擦り切れる程度の少なくとも百回以上聴き惚れていた・・。

1964(平成元)年の少し前の頃には、
シンガー・ソング・ライターの『中島みゆき(なかじま・みゆき)』を偶然に聴き、
カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生のいく度かの苦境の時に、3曲から救われ、私の秘かな女神となっている。

そして1997(平成9)年の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
瞬時に魅了され、帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。


映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の直前に、大学を中退し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として『橋本忍(はしもと・しのぶ)』を神様のように信愛した。
映画監督の場合だと『デビット・リーン』、『セルジオ・レオーネ』に夢中になったりしていた。
アルバイトをしたりして、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。


その後、文学に移り、純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
小説分野に於いては、私としては魅了され突出した作家としては、
『立原正秋(たちはら・まさあき)』であった。

この当時の私は、確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、随筆の場合は、作家の『山口瞳(やまぐち・ひとみ)』、
紀行文は『宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)』を熱読したりしていた。

テレビの脚本は圧倒的に『倉本聰(くらもと・そう)』が多く、
随筆も数多く精読している。


定年後に魅了された作家は、
『塩野七生(しおの・ななみ)』、『嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)』、
随筆は『藤原正彦(ふじわら・まさひこ)』、
ノンフィクション作家は『佐野眞一(さの・しんいち)』が、突出している。


私は幼少の頃から単細胞の為か、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様に、
この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、寝る間をほしんで物狂いになる・・。

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので苦笑する。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と名言にあるので、私は困ったなぁ、と思ったりすることがある。


いずれにしても私のつたない感性で、
この広い世の中で、偶然に目に留まったり、聴いたりした人々の方たちである。
そして、私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

尚、このように綴ると、私自身の思想、信条、そして日常の心情が解かるので、
発露をするのは少し危険かしら、と微苦笑しているのである。


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