夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外にある『実篤公園』を訪ね、私の少年期の故郷の情景に思い馳せ・・。

2012-11-15 18:31:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
日常は買物担当の私は、スーパーなどで行った後、
付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、季節のうつろいを享受している。

本日は最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅の商店街で指定された品物を買い求めた後、
少し遠回りして、近くの公園に寄ろうと思い、音楽専門学校の桐朋学園の隣接している路を歩いたりした。

私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。

この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。


このようなある日、私は田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。
そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。

『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。


私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955〈昭和30)年、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。

そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985〈昭和60)年10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。

私は20数年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかった。
そして本日、久々に『実篤公園』に昼の少し前に訪れた・・。

           
こうした情景だったかしらと思いながら歩いた・・。           
           
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、野趣の中、
私は子供心にひとりの老人を見つめていた。
 

池の中にいる鯉も確かあの当時いたが・・私に興味がなく、あまた雑木の情景に見惚れ、
あの当時の情景に思いを馳せたりした。           
           
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園に雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
           
ぼんやりと私は眺めているが、毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は反復したりした。
          
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも47年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりし、この公園を辞して、自宅に向った。

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はかなくも夢幻の淡き夢、齢ばかり重ねた私は目覚めれば・・。

2012-11-14 16:15:00 | 定年後の思い
私は独りの老師に導かれて、庭園を導かれていた・・。

何かしらにのような初夏のような情景の中、私は老師の少し後ろに歩いた。

          

そして私は左前方から目の前に広がる光景に、ため息をしたりした。

          
その後も老師に導かれて、私は老師の少し後ろに歩いた。

          

この後、少し歩くと老師は、
          
『いかがでしたか?』
と私に訊(たず)ねられて、私はなぜか言葉は発することができなく、微笑みの表情を浮かべるばかりであった。
そして老師は微苦笑を浮かべながら、私を手招くように歩きだした。

          

この後の私は、茶室の前にいて、
私はどうした訳が分からないが、お茶会に招待され、和菓子は避けて、抹茶を頂いている。
周囲の客人も面識のない女性ばかりであった。

この後、私は独りで軒下でたたずみ、
枯山水の庭を眺めていると、老師がふたたび現れて私の傍に寄ってきた・・。
そして老師は、軒下にいた部下のような40代の男性に簡易な椅子を二席用意させ、
私に座るように目でうながしている・・。

私はこの庭園を創設された足立全康(あだち・ぜんこう)氏とは面識がなかったが、なぜかしら招待を受けて、
初めてお逢いできた老師が足立全康氏と瞬時に解かったが、
確か1990(平成2)年の年末近くに亡くなわれたお方なのに、
どうしてなの、と改めて感じたりしていた。

私は座ると、家内のような女性が抹茶の茶碗を私に手渡した・・。

私は頂ただくと、常温の純米酒であることに気付き、
私は照れて、扇子を取り出し、扇(あお)ぎはじめた・・。

『お気に頂けました・・?』
と創設者は私に訊(たず)ねた。

『これだけの庭を創られたこと・・大変な事と・・感じました・・
思いつきはどなたでも出来ますが・・いざ、具現化する時には・・
資金があったとしても・・出来ないことでして・・』
と私は言った。

創設者は微苦笑して、私の家内のように人に、
私が頂いている抹茶茶碗を指して、お代わりを持ってくるように、手振りをしていた・・。

私は気付き、
『充分・・頂きましたので・・』
と言ったが、声にならなかった。


ここで突然に情景が変わり、しばらくした後に私は目覚めた。
夢かょ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は齢ばかり重ねた68歳の身であるが、思い込みの激しい人なので、
関心のある方、興味のあることが、幼年期より夢の中で、よく見ることがある。
亡くなわれた足立美術館の創設者が夢の中で出てきたのである・・。

確か一か月前の頃に、『足立美術館~日本庭園と近代美術~』(山陰中央新報社)、
足立全康・著の『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日本経済新聞出版社)の2冊を再読したりしてきた。
最初の一冊は足立美術館の基本解説書であるが、
あとの一冊は美術館の依頼主の人生の軌跡であり、つたない私なりに気になるお方である。

こうしたことが脳裏に残り、不可解にも夢幻と現(うつつ)の世界を行き来することもある。

今朝、ぼんやりと小庭のテラスに下り立ち、落葉樹の朱紅色、黄色に染め始めた情景を眺めながら、
過ぎ去りしの2007〈平成19〉年の6月中旬に、山陰地方を私たち夫婦は旅をした中で、
この時に足立美術館に初めて訪れた。

私は枯山水の庭は、日本の各地で10数ケ所しか観ていないので、
設計されたお方の創作に基づき、作庭師が具現させながら、庭師の方達が従事する総合作業と思い、
依頼主の思考を加味させた総合芸術のひとつと確信している。

その上、季節の移ろいに応じて変化する景観なので、
創作はもとより維持管理は苦労の絶えない庭と感じている程度である。

従って、素人なので観た感覚しか綴れない。

最初に感じたのは、借景が十二分に生かされたゆるぎない美の結晶と思い、
5分程、眺めた後は、確固たる美でありすぎるので、心に余情が生まれないのである。

こうした思いになると、西洋人の一部のお方が絶賛する理由が分かるのである。

いずれにしても、その季節の移ろいごとに眺め、
百年後の風雪に耐えた枯れた庭を観たい気になるが、こればかりは叶わぬ夢である。

私は絵画、彫刻の世界には興味はないが、陶芸の世界は多少興味がある程度である。

館内から茶室の『寿立庵』までの飛び石の配置、
そして松を中核とした庭には、和(なご)やかな心となり、素直に感銘をした。

晩秋のひととき、この茶室で抹茶を頂ただき、余情を感じたまま、
その後、枯山水の庭を眺めるのも一考かしら、と夢をみたりしている。


このように当時は感じたりしていたが、
やはり私は幼年期に農家の児として育てられたので、自宅の付近の小公園の情景に
やすらぎを感じのである。
          
年金生活をしている私、もとより庭園を造れる財力もなく、
こうして、錦繍の時節を迎えた今、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
ぼんやりと、時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、悦びのひとときである。

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一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌、定年後の私は何かと心を寄せて・・。

2012-11-13 17:14:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

昨日の午前中、日常の買物の担当の私は、いつものようにスーパーで買い物を終えた後、
自宅に戻り、この後は近くの遊歩道を歩き、小公園に寄ったりした。

そして秋日和の陽射しの中で、花水木(ハナミズキ)の樹が恥ずかしげに朱紅色に染められ、
陽射しを受けていた。
あまたの葉の一部は、早くも落葉していたが、私は長らく見惚(みと)れていた・・。



私は長らく見つめた後、確か3月の初旬の頃に芽吹き始め、
やがて幼い葉を見せて、その後に小枝の先に白色の花弁状をした四つばかりの大きな総苞をつけ、
中心に緑黄色の小花が頭状にに集まって純白色、或いはピンクの花色となり、
葉色はまだ緑黄色は淡い色合いとなっていたのを思い馳せたりした。

そして年金生活をしている私には、過ぎ去る日々は齢を重ねるたびに早く感じられる。

この後、帰路の遊歩道をトボトボと歩いたりした・・。

私は定年退職後、その直後から年金生活をして早くも9年目を迎えているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花に、心の濾過を託すように圧倒的に魅せられてきたのである。
そしてこの時節を迎えると、やがて葉をすべて落とし、冬木立となり、
来年の芽吹きの時期まで、お別れねぇ、と愛惜を重ねたりしてきた。

この後、私は自宅に向いながら、
突然にひとつの歌が脳裏に浮かび、心の中で静かに唄いだしたのである。

♪空を押し上げて
 手を伸ばす君 五月のこと
 どうか来てほしい
 水際(みずぎわ)まで来てほしい
 つぼみをあげよう
 庭のハナミズキ

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】

私は遅ればせながら、2004〈平成16〉年の秋に退職後に、
この一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』の歌を偶然にラジオから流れて瞬時に魅了されて、
そして確か7年前だったと思われるが、NHKテレビの音楽番組の中で、
一 青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。

一 青窈ちゃんは美麗ながら、心の深淵まで託したご自身の思いを唄い、
徳永英明さんは、透明感あるシルキー・ヴォイスで、圧倒的な歌唱力の声量で唄い、
この歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい圧倒的に感銘を受けたのである。

この後、遊歩道で人影が少ないのを確かめて、かぼそい声で唄いだした・・。

♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】

私たち夫婦は、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
私たち夫婦は、この先いつまでも慎(つつ)ましながらも
年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、どちらがいずれ片割れになる・・。

このような思いをいつも重ねてしまう。

私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、と実感しながら家路に向ったのである。

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東京の郊外に住む私、この時節の日常の散歩路のひとつは・・。

2012-11-12 14:58:39 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60数年となっている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良い『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。


昼下がり、自宅の小庭のテラスに下り立ち、黄色、朱紅色に染められた落葉樹を眺めたりしていた。
そして私は秘かに待ち焦(こ)がれた錦繍(きんしゅう)の季節となっている。

平年ならば、11月3日の『文化の日』の頃から、
11月23日の『勤労感謝の日』の頃まで錦繍(きんしゅう)の時節となるが、
今年は暖かな日に恵まれたせいか、10日ばかり遅れている、と微苦笑したりしてきた。

私は幼年期の頃から、初春の芽吹き、そして秋たけなわの錦繍(きんしゅう)の時節に、
圧倒的に魅せられている。

こうした秘めたる私は、この深まるいく錦繍の時節から
晩秋の黄色、朱紅色の葉が舞い散る時節までの季節は、少しばかりそわそわとしてしまう。

私の散策の好きなコースのひとつとして、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道があり、
週に3回ぐらい歩いたりしている。


この野川は、自宅が少し歩くと、下流の『喜多見』方面に片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所でもある。

錦繍の時節を迎えた今、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
ぼんやりと、時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、
定年退職後から深め過ごしてきた・・。



この散策路は、小田急電鉄の【小田急沿線 自然ふれあい歩道】の中で、
《狛江駅~喜多見駅(野川)コース》にも『野川の川沿いの遊歩道』として掲載されていたのを
私は2年前に知り、微笑みを重ねたりした。



この遊歩道には、『きたみふれあい広場』の小公園も隣接されて、
私も幾たびが立ち寄って歩き、四季折々の情景に魅せられている。







帰路は自宅付近を通り過ぎて、上流に向い団地の小公園に立ち寄ったりし、
この時節の情景に、心を寄せたりしている。




このような散策を日常生活の中で、ひたすら歩き廻り、この時節の情景に魅せられている。


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つたない私の定年退職時の記念樹、やがてめざましく成長し、早や9年生・・。

2012-11-11 13:39:07 | 定年後の思い
私は東京の郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年秋に定年退職し、
その後は年金生活を始めて丸8年が過ぎて、早くも9年生となっている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、主庭のはずれに一本の樹があり、つたない私でも定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い・・。

《画面をクリックしますと、拡大されます》

この小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま飛び立つときに、小鳥からの贈り物のひとつであった。


私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達された世にいわれているエリートとは、
遥かに遠い平凡な道を歩いたりしてきた。

その上、たまたま私が勤めてきた音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の晩秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


こうした中で、定年を半年後となった2004(平成16)年の春、
私は五十肩のように右腕が何かと重く感じ、
毎週土曜日に自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。
こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、
と苦笑したりした。

そして5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。
そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、夜通し看護する身となった。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している大学病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々であった。

こうした我が家として危機のような状況もあり、やむなく私は有給休暇を利用して、
実質定年退職時より早めの8月の月末で通勤を断念して、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。
主庭の草ぼうぼうの中で、草取りをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
取るのをやめて放置した・・。


この後、家内の父は10月初旬に死去し、葬儀を終えてまもなく、
私の定年退職時を正式に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
慌ただしい日々を過ごしたりした。

翌年の入梅前に私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたのである・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。


《画面をクリックしますと、拡大されます》

こうして歳月は過ぎ去り、掲載して写真は、午前中の曇りの中で撮った二葉である。
恥ずかしながら、この樹はなんという名前の樹か私には解らない。
昨年の10月の終わりの頃、剪定していたらイチゴを小さくした赤い実がたくさん成っていたので、
ヤマボウシかしら、と思ったりしている。

この樹・・何の樹・・と思いながら、9年目を迎えているが、
お読み頂けた人の中で樹木にお詳しい方にご教示をお願い致したく、
恥ずかしも小庭の狭さ、そして写真に未熟な私は、あえて掲載した次第である。

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秋日和の中、ときには私たち夫婦は庭の樹木の剪定に奮闘して・・。

2012-11-10 17:34:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
一昨日の夕食時に、私は家内に、
『庭の樹・・伸びているので剪定するよ・・土曜日は晴と予報されているので・・』
と私は家内に言ったりした。
『そうねぇ・・玄関の庭の方だけでも、手入れをしないと・・
私も手伝うから・・年末に備えて枝切りを徹底的にしましょう、私も頑張るわ』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、年に数回ぐらい家内の支援がある。

今朝、地元の天気情報を見たら、朝の6時は12度、昼下りは17度、夜の6時は13度、
秋日和の爽やかな日中となります、と明記されていた。

朝の9過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにした後、どの樹から剪定しょうかしら、
と思ったりした。

とりあえず過ぎし夏の間に彩(いろど)ってくれた紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の樹を
短めに切っていると、
家内は、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被り、ウォーキング・シューズの万全な容姿で、
滑り止めの軍手をして、高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。

この後私も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝もっと短く切り落として・・』
と家内の指示の声がする・・。

我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したり、
或いは生家の貸駐車場と隣接した塀際に植えているハクバイ、モミジなどを切り詰めたり、
玄関に近いナンテンなども短めにした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。
そして紫式部〈ムラサキシキブ〉は、それぞれの枝にたわわに実は紫色に深く染めている情景を見たり、
花梨〈カリン〉の実は黄色の染め始め、今年は8つばかり、と数えたりたりした。

この後、剪定した後の切り落とした枝葉を市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。
こうした整理したりしていると、昼下がりは過ぎ、結果としては昼食も抜きで、互いに奮戦した。

家内は62歳の身であるが、何かしら心身溌剌としている。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感する時がある。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

そして午後の2時半過ぎに、『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない?』
と私の方から家内に提案し、その後、散乱した枝葉を掃き清め、3時に終了とした。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は玄関の前の石畳に簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりしていた。

そして玄関庭は何とか終わったが、来週の一日は主庭の樹木も剪定しょう、と思ったりした。

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世の中の『新語・流行語』、高齢者68歳の私は、何かと程遠く隔(へだ)てて・・。

2012-11-09 15:48:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活68歳の身であるが、
昨夕、ネットでニュースを見ようとして、ひとつの記事を読み、ため息を重ねたりした。

多くの方に愛用されている『現代用語の基礎知識』発行する自由国民社から、
好例の『ユーキャン新語・流行語大賞の候補語50語』の2012年が発表された記事である。
http://singo.jiyu.co.jp/nominate/50645fd2021a2.html
☆【自由国民社】公式サイト <==2012年『ユーキャン新語・流行語大賞の候補語50語』☆

私は読みながら、恥ずかしながら、殆ど無知であった。
ほんのうわべながら少し知っていることは、『オスプレイ』、『原発ゼロ』、『維新の会』、
『決められない政治』、『キンドル』・・ぐらいで、たった5つなので、
10%かょ、と苦笑して何かと世の中から、程遠く隔(へだ)ててしまったかしら、と微苦笑したりした。


私は民間会社の中小業に35年近く勤め定年退職したのは、2004(平成16)年10月20日であった。
そして定年退職後、ただちに年金生活をしたので、丸8年が過ぎて、
年金生活は早くも9年生となっている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。


私は小学校4年の頃から映画館に独りて通っていた映画少年で、
高校生の時に脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
もとより同世代は、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍していたが、
私は明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。

サラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達されたエリートとは、
遥かに遠い平凡な道を歩いたりしてきた。

その上、たまたま私が勤めてきた音楽業界は、1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の晩秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


定年後の日常は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、サラリーマンの身であり、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたりしたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

このように私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

このような年金生活をしていると、もとより現役世代のサラリーマン時代と大幅に変貌し、
私は何かと世の中の状況が疎(うと)くなっている。
せめて国民のひとりとして礼節、そして責務に応じた税金などを支払い、
或いは有権者のひとりとして最低限の知識で、清き一票を投じることができれば、
世の中の『新語・流行語』などは、どうでもよい、と微苦笑したりしている。

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過ぎ去りし2008年、秋山郷に往還した時の錦繍の情景を思い馳せれば・・。

2012-11-08 12:53:21 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、本棚をぼんやりと見ていて一冊を取りだした・・。
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)の単行本であるが、再読してしまった。

そして深夜、私は2008年の10月下旬に『秋山郷』を往還した旅路を思い馳せたりした・・。


私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら25年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない我が家は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。

たまたま2008年の10月下旬に志賀高原の発哺温泉滞在に2泊3日の団体観光バスツアーの旅で、
秋山郷を周遊するコースがあったので、
私たち達夫婦は魅了させられて、ツアーに参加の理由のひとつとなった。

そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に関しては、
若き日の二十歳過ぎに読んだりしていたので興味を増し、
この時の旅の前には磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を初めて読んだりし、『秋山紀行』も学び、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。

このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。

奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦繍の世界であった。

道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。

このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、地上に落下していた。

私は思わず、
『夢のような情景だね・・林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に言ったりしていた・・。


私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。


《画面をクリックしますと、拡大されます》

自由食であったが、地元の食材を加味した食事処で、お握(にぎ)りと茸(きのこ)汁などを
私たちと同行した人が多かった。
呑兵衛の私は、食事処の片隅で地酒のワンカップを見つけて、
そして炉辺で焼かれている岩魚(イワナ)を私たち夫婦はそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒を2本吞みながら、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。

その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられて折、私は近眼で老眼を感じているので、丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で記念として私は顔を洗ったりしたのである。

このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。

『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
《・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。

そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。

重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・》

そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。

最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりした。

このような山里の食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と私は確信を深めた。


宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーさんのご好意で、臨時停車となり、錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したりした。






秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に心酔した私は、
私たちと同行した多くの方は、日頃の行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりし、帰館した。

このような『秋山郷』を往還した旅路を深夜のひととき思い馳せたりしたのである。

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暦(こよみ)の上では『立冬』であるが、東京郊外は錦繍(きんしゅう)の情景を迎え・・。

2012-11-07 09:15:01 | 定年後の思い
私は年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら『立冬』と明記されて、私は微苦笑したりした。
古来より『立冬』は、冬のはじまりと云われているが、
東京の郊外は、4日までは秋日和に恵まれ、一昨日の5日は曇り、昨日の6日は小雨の降る一日であった。

今朝6時過ぎに目覚めると、濃い霧につつまれて前方の30メートル先も見えなく驚いたりしたが、
古き人々から朝霧は晴れ、と伝えられてきたので、私は思わず微笑んだりした。

そして地元の天気情報に寄ると、
朝の6時は11度、昼下がりは19度前後、夜の6時も15度前後と予測され、
暖かな秋日和を迎えて、この後もしばらくの間は晴れマークが続いている。

我が家の小庭には紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は紫色に色合いを深め、
花梨(カリン)、無花果(イチジク)の葉は黄色に染めはじめている。

ここ一週間、買い物や散策の時に見かけたのであるが、
小公園に通り過ぎると、花水木(ハナミズキ)の樹の数多くの葉は朱紅色に染まり、
陽射しを燦燦と受けて、光帯びていたして、しばらく私は見惚(みと)れたりした・・。
そして早くも一部には落ち葉が散乱し、
地上の片隅に吹き寄せのように落ち葉が道路のはずれ、建物の片側に押し寄せられていた・・。

帰路、住宅街を通り過ぎたが、どのお宅も落ち葉の吹き寄せとなっている。
風のあたらない一角に空き地があるが、
陽射しを燦燦と受けて、コスモスの残り花、、薄の白い穂が微(かす)かに揺れていた。

このような思い過ごしてきたが、確かに東京郊外は晩秋がはじまった、と実感している。

これから時節、我が家の雑木の多い庭も付近の情景も紅色、朱色、黄色に染められた錦繍の時節を迎えるので、
12月の初旬の頃まで私の心は小躍(こおど)りして、過ぎ行く晩秋に愛惜を深めて散策したりしているのが、
毎年の私の秘かな習(な)わしとなっている。


私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、この地域ではあまたの落葉樹が恥じらうように
朱色、紅色、黄色に染め始めている・・・。
こうした中で、私が散策しているコースのひとつで、
過ぎし年の11月8日にデジカメを持ちだして、撮ったりした・・。


《画面をクリックしますと、拡大されます》







果たして、今年の錦繍の美景は・・と思いながら、
私はぼんやりと主庭の梅(ウメ)、紅葉(モミジ)の枝葉を眺めたりしているが、
たわわな葉の色合いは初秋の余情であり、ときおり澄み切った青空を見上げたりしている。

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北海道の洞爺湖、錦繍の時節に滞在旅行した私、心に残る深い思いは・・。

2012-11-06 13:31:12 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ときおり家内との共通趣味のひとつである国内旅行に行ったりしている。

過ぎし10月22日より、たまたま北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日で滞在した。
この旅路は、ある旅行会社が指定した航空便で往復して、新千歳空港から往復の送迎バスで宿泊滞在している間で、
周辺の観光地を自在に観て下さい、というフリープランのひとつであった。

私たちは夫婦は北海道の旅路は、何かと心身波長に合い、春、夏、秋そして冬に各地を幾たびか訪れてきたが、
たまたま道内の洞爺湖は、通過点のように通り過ぎりばかりであったので、
洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに滞在して、未知の洞爺湖はもとより周辺の観光地を訪れよう、
と私は家内を誘ったりした。

そして10月下旬に道内のこの地域を訪れる場合は、平年ならば晩秋の時節と思い、
落葉樹のたわわな葉が朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍は終わりを告げて、
葉が舞い散り、落ち葉を踏みしめて、この地の観光地を歩くことになるだろう、と私は思いを馳せたりした。

しかしながら、初めて洞爺湖の地を訪れると、平年より数週間遅い秋たけなわの情景であった。
そして私たち夫婦は、あまたの落葉樹の葉が朱紅、紅色、淡い黄色、黄色に染められてゆく錦繍の情景の中で、
私たちは幾たびか散策をしながら、心奥深く情感を重ねた。

誰しも旅行を終えて帰宅後、何かと旅先の思いを話し合ったりされると思われるが、
私たち夫婦も旅を終えた後に、あの時は・・と談笑しているのが昨今でもある。


宿泊した観光ホテルは洞爺湖の湖畔に建つ『湖畔亭』であり、
私たち夫婦は5階のある指定された和室は10畳であり、その前に3畳ばかり広さで椅子とテーブルが置かれ、
そして湖面に面したベランダの3畳ぐらいであった。

そして私たちは椅子に座ったりして、ベランダ越しに、
円形のような洞爺湖の中核には、中島と総称されている大島、観音島、弁天島、饅頭島の4つの島が浮かび、
左方の遠景にときおり蝦夷富士と称されている羊蹄山(ようていざん)が雄大に聳え立ち、
左岸、右岸にも湖岸から山里の情景が観え
洞爺湖の湖水の色合いは早朝、午前のひととき、昼下り、そして夕暮れは、
陽射し、雲の流れと共に蒼色、青色、淡き青色に変貌し、幾たびか私は長らく眺めも見飽(みあき)ることのない美景であった・・。

《画面をクリックしますと、拡大されます》

こうした滞在をしている中で27日には、快晴の中、『西山火口散策路』を訪れた。
前方の彼方に火山ヘの路が視え、その後はゆるやかな石段を登ると、
隆起したアファルト道路が隆起し、廃道となった道を見ながら、私たちは歩いた。

この道も2000年3月に噴火した際、地殻変動により盛り上がった地面であり、
まもなく展望台の第一、第二からは、火口を間近でみられ、
地熱、噴煙など、噴火の甚大さを感じることができる所であり、
第二展望台から下山のように長く整備された散策路も歩いたりした。

そして2000年3月に噴火した時、1977年の噴火時、昭和新山の噴火時、そして明治期の噴火の跡も
学んだりした、2時間ぐらい歩き廻ったりした。
この後、下山した散策路の途中、群生した薄(ススキ)は白い穂をなやびかせ、
落葉樹は黄色、朱紅色に染めらる中、赤トンボが悠然と飛び回っていた。

前方には洞爺湖の左岸の山里、遥か彼方の遠方には蝦夷富士と称されている羊蹄山が雄大に聳え立ち、
圧倒的な展望に私は絶賛したりした。

散策路を歩いているのは家内であり、平素は私が2メートルぐらい後方でいて、
ボディガート兼お供で買物などに行ったりしているが、風景写真を撮りたくて、このような情景となった。

29日は晴れ渡った朝を迎え、私たちは湖畔の左岸の幾つかの公園を歩くことにした・・。
噴火記念公園を始め、幾つかの公園を歩くと、
シラカンバ、ミズナラ、カツラ、ナナカマド、モミジなどが色合いを染め、
私たちは錦繍の世界を享受した。
その後、公園は途切れたので、やむなく道の歩道を歩いている一葉を情景である。


このような情景写真を三葉を掲載したが、もとより旅先の魅力のひとつは未知の人との出会いである。
今回のフリープラン滞在旅行で、たまたま私たちと同行となったのは、11名であった。
私たち夫婦を含めて男性が5名で、女性6名で、60、70歳代の方ばかりの上、
何よりも私たちだけが夫婦で、いずれも《おひとりさま》であり、
私たち夫婦はグループ参加の旅としては初めてであった。

この同行した方たちと、滞在している観光ホテルのロービー、食事処、
帰路の送迎車の車内などで幾たびか談笑したりした。

そして私は観光ホテルのロービー、喫煙室などで、見知らぬ札幌の35歳前後のご夫婦と15分ばかり、
別の日にもやはり20分ばかり60歳ぐらいの小樽市にお住いのご婦人と談笑したりした。

或いは26日に『登別 洞爺 楽しみ探検号』と特別企画のバス観光地周遊コースに於いて、
洞爺湖温泉ターミナル ~ 昭和新山 ~ オロフレ峠 ~ 登別ターミナル ~ 白老ポロトコタン、
このようなコースを運行する経路で、
30人乗りぐらいの中型バスであったが、乗客は私たち夫婦と25歳前後の青年だけあった。

そして温和な60代のドライバーさんの解説を聞いたりし、
やがて登別ターミナルで青年は下車すると、
私たち夫婦は貸切専用バスとなり、ドライバーさんとお互いに談笑を重ね、
互いに日常の生活状況まで語り合ったりした。

そして鮮烈なのは、『西山火口散策路』の入口に近い処で、
廃材を活用した小屋風の前で、卵、皮ごとに焼いたトウモロコシ、そしてジャガイモなどを
石焼きをしている賄(まかない)して下さる中年のご婦人と、
そして経営者の70代の男性と私たち夫婦は、二度ばかり訪れて談笑したりした。

私たち夫婦は、四季折々の情景に魅せられて旅を重ねてきたが、
見知らぬ人と偶然に語り合うことも、旅の思いが深まるのである。

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どうして写真が消えてしまったの、と初めて投稿文に写真を添付した私は、ため息を重ね・・。

2012-11-05 15:24:40 | 定年後の思い
私は年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
定年後にブログの世界を知り、これ以来ほぼ毎日投稿文を綴り、8年生となっている。

昨日の昼下がりのひととき、 いつまでも文章だけでは時流に残されてしまうと危惧し、
遅ればせながら投稿文に写真を添付するのに挑戦した。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人もいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の使い方の中に於いて、
《画像入りの記事を投稿する》の解説を読んだりした後、一枚の写真を添付する投稿文ができた。

しかし一枚だけ最上段に掲げて、その下に投稿文を綴ることが完成したけれど、
やはり投稿文の後に写真を添付し、その下にも文章を表示させた後、写真を掲げることに挑戦し、
【 初めて写真掲載、遅ればせながら68歳の私が手習いして、微苦笑を重ね・・。】
このようなタイトルを付けて、何とか完成して投稿したのは、午後の5時少し前であった。

そして高齢者の私でも出来たんだ、と安堵を重ねて微笑んだりした・・。

この夜の10時過ぎに、写真添付が何とか出来たので、
忘れないうちにと明日用の投稿文の下書きをした・・。
そして既に投稿文に添付した写真は送信済であったので、写真を削除して、
新たな写真をアップデートした。


今朝、パソコンで地元の天気情報を確認した後、ブログサイトを開いたら、
確か写真を添付した投稿文の写真が消え、
『どうして写真が消えてしまったの・・』と私は心の中で呟(つぶや)きながら動顚し、
やむなくシステム上の写真専用のピクチャ・ファイルから再度写真を選定して、
投稿文を修正したりした。

この間、私のサイトに見て下さった方は、写真の縁取りだけの空写真の投稿文で、
驚き失望され、苦笑いをされた方もいると思われる。

この後、私はマニアルの《画像入りの記事を投稿する》の解説を読んだり限り、
どうやら画像の保存をしていなかった、と判明した。

いずれにしても初めての写真の添付の出来事であり、
画像の保存もおぼつかなく、この他にも原因があるのかしら、うつろな思いでいる。

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初めて写真掲載、遅ればせながら68歳の私が手習いして、微苦笑を重ね・・。

2012-11-04 16:57:03 | 定年後の思い
私は年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
定年後にブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、8年となっている。

諸兄諸姉の投稿を読ませて頂くと、ここ5年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

本日の昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
初めての手習いの身で、自動車で表現するならば、教習所でハンドルを始めて手にしたようで、
若葉マークも付けられない技量に乏しい限りであるが、
誰しも最初は不安を秘めながら、と思い投稿した次第です。

この添付掲載した写真は、東京郊外の調布市の片隅みに住む私が
四季ごとに散策している『都立 神代植物園』の過ぎし年の11月1日の情景です。
ほんのりと染め始めた一葉です。

この一葉も同じ日に写した一葉です。

今後の投稿文に関して時折、写真添付をする決意ですので、
未熟な技量とセンスにご笑話して頂ければ幸いです。

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この時節の東京の郊外は、私は秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名し・・。

2012-11-04 07:33:11 | 定年後の思い
私は年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
昨日の朝、カレンダーを見ると、『文化の日』と朱記されていたので、微笑んだりした。

私の住む所は東京郊外の調布市であるが、世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には霞嶺神社、明照院があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

毎年、11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められている。
この後は公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が主役となり、彩(いろど)りを見せ、
舞い散る頃に12月の『師走(しわす)』の初旬を迎えている。

このような情景を毎年この時節の錦繍の情景の移ろいに、齢を重ねるたびに心深く寄せられているので、
この11月はもとより『霜月』とか『雪見月』と古来より称せられているが、
私としては、秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名している。


昨日の朝のひととき、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は10度で、日中は風もなく秋日和の暖かな陽射しに恵まれて16度、
その後の夕暮れ後の6時には12度となっていた。
そして夜のひととき月を眺めれば、何かしら微笑んでいるように見え、
ときおり恥じらうように雲隠れしていた。

私は、このような移ろう錦繍の情景に、ときめきを感じながら見惚(みと)れ、
日頃の運動不足を兼ねて、独りで付近の遊歩道、公園などに出掛けることが圧倒的に多くなり、
歩き廻っているのは、定年退職後の習性となっている。


私は定年後は日常の買物の担当となっているので、
午前中にスーパーで買物をした後、昼過ぎに散策した・・。

私の住む近くには野川が流れていて、少なくとも40年前に、
護岸工事のされて整備され、川沿いに遊歩道や小公園も新たに設けられたりしている。

私はさわやかな秋日和の中、この野川の遊歩道を歩きだした・・。

澄み切った青空で風もなく、『文化の日』の祭日の為か、
家族連れの方たちの散策されたり、ジョキングをされる若い人たちを見かけたりした。

川の流れも清流で音もなくゆるやかに流れ、水面は昼下がりの陽射しを受けてきらめいて、
水辺の近くには群生している薄(ススキ)は、所々散乱したようにあるが、白い穂となっている。
こうした中で、小鷺(コサギ)、大鷺(ダイサギ)、カルガモの親子が遊泳していたり、
或いは白鶺鴒(ハクセキレイ)、カワセミ、ときおりコゲラなども飛来してきているが、
私は興味がなく、陽射しを受けた眩(まばゆ)い川面に見惚(みと)れたり、
そして清冽な水の流れを見つめたりした。

この後、桜並木のような数多くの桜を眺めたのであるが、
たわわな葉の中、ほんの一部が朱紅色に染められて、私は微笑んだりしたが、
小公園にある欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどは、
色合いは初秋の余情であり、晩秋の錦繍には程遠かったのである。

帰路、野川の遊歩道からはずれの団地の近くを歩いていたら、
花水木(ハナミズキ)が朱紅色に染まり、陽射しを受けて光帯びていたので、
しばらく私は見惚(みと)れたりした。
そしてこの中の一本の樹は、早くも散りはじめて、小枝にたわわな朱色の実を付けていた。


帰宅後、庭にある無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレン)の多くの葉が、黄色く染めはじめ、
紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は、紫色に染められたのを私は眺めたりし、
散策は一時間半ばかりであったが、自宅の小庭の情景も加味して、
少しは錦繍の情景の初めとしては、確かに受容できたと思ったりしている。

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錦繍の”洞爺湖”滞在記【12.10.22.~10.31.】 最終章 旅の終りは金比羅火口散策路、そして・・。

2012-11-03 18:32:22 | 
私たち夫婦は30日の朝、明日は帰京する日なので、
旅の終りとして、どちらを訪ねようか、と少し迷ったりしたが、
やはり付近の情景の中で散策しょうと『金比羅火口散策路』に行こう、と決めたりした。

温泉街の外れにある私が建物として、圧倒的に魅了された『ビジターセンター』の横から、
『金比羅火口散策路』に向い歩き始めた。

そして標識が見え、正式名所は『金比羅火口災害遺構散策路』と学び、
濁流、土砂などの川のような大きな溝が観られ、所々に防止の堰き止めのコンクリートがあり、
過ぎし日の2000年3月に噴火した有珠山噴火体験を次世代に伝承し、
減災につなげる遺構として、噴火災害の様子をそのまま保存した散策路と理解した。

そして少しばかり登り道を登ると、左側には蒼い水をたたえた有ちゃん火山口、
右側の奥には珠ちゃん火山口が見られ、
やがて熱泥流に押し流された橋や、泥流、火山灰に埋もれた建物などが見られ、
当時の噴火による大災害の状況が理解できる散策路となっていた。

この後、まもなく中学生の20数名が先生方4名に引率され、
それぞれの標識案内板の近くで説明を受けたりしていたので、野外講習、と感じたりした。

そして私たち夫婦は、歩き続けると落葉樹が多く観られるようになり、
朱紅色、黄色に染められた情景となり、どの地域でも見られる林道の錦繍の時の情景となった。
その後、おだやかな林道のような散策路を下っていると、
前方の彼方の森の外れに煙が立ち昇る状況が見られた。

『もしかしたら先日の石焼きさんの処かしら・・』
と家内が私に言ったりした。
『西山火口散策路の入口に近い方角だし・・可能性は大だねぇ・・』
と私は応(こた)えた。

『お昼代わり、寄りますか』
と家内は私に訊ねると、
『行きましょう・・軽食代わりに最高ねぇ』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように明るく大きな声で賛意した。

この後、私たちは10分ばかり歩き、過ぎし27日に訪ねた石焼きに行った。
そして独りで賄(まかな)っている中年のご婦人は、驚いた表情で私たちを迎えた。
『煙が立ち昇っていましたので、こちらのお店かと思い・・来ました』
と私は挨拶代わりの言葉を明るく言ったりした。

そして廃材を活用した小屋風の前で、やはり廃材の素朴な椅子に私たちは座り、
卵、皮ごとに焼いたトウモロコシ、そしてジャガイモを注文して、
まもなく素朴なテーブルに置かれた。

この間、賄(まかな)って下さる中年のご婦人と私たちは、
この地域の天候状況などを和気藹々と談笑したりした。
そして茶色した鰹節の棒状のような品が四つばかり置かれ、
『サービスです。よろしかったら、食べてみて下さい』
と中年のご婦人は私たち言った。

私は割り箸でこの品を口に入れた後、歯でかじるようにしていたら、
風味のあり奥行きのある味をする食べ物で、私は訊(たず)ねると、
『トバです。秋鮭を干した後、お醤油に味醂を加えた・・この地方の保存食です。
手でむいてほぐしても、或いは炙(あぶ)っても・・お召し上がりいただけます』
と私に教えてくれた。
『香ばしい食べ物ですし・・お酒にも合いますよねぇ』
と呑兵衛の私は応(こた)えた。

そして私は、ビール置いてありますか、と中年のご婦人は言ったりし、
私はビールを吞みながら、この美味なトバを頂いたりした。

そして70代の経営者の男性が戻り、私は再会の悦びの挨拶したりし、
談笑したりした。

この後、店内にあるトバを買い求めたりしたが、
焼き卵を6つサービスとして頂き、私たちは滞在している観光ホテルに帰還した。


翌日の朝、今回の洞爺湖フリープランに参加した私たち一行は、
ロビーの片隅に9時20分に集合し、やがて観光ホテルの送迎バスに乗車し、
新千歳空港から午後2時発の航空機で、都心の外れの羽田空港に向った。

                           《終》
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錦繍の”洞爺湖”滞在記【12.10.22.~10.31.】 第7章 西山火口散策路、そして後日に公園を散策

2012-11-03 14:58:56 | 
27日の土曜日の朝、私たち夫婦は有珠山、昭和新山のような観光客がにぎわう所でなく、
素朴な所を散策しょう、と話し合ったりした。

そして27日には、快晴の中、『西山火口散策路』を訪れた。
洞爺湖温泉ターミナルのバス発着所から7分ばかり乗車した後、火山資料館のあるバス停で降りると、
前方の彼方に火山ヘの路が視え、その後はゆるやかな石段を登ると、
隆起したアファルト道路が隆起し、廃道となった道を見ながら、私たちは歩いた。

この道も2000年3月に噴火した際、地殻変動により盛り上がった地面であり、
まもなく展望台の第一、第二からは、火口を間近でみられ、
地熱、噴煙など、噴火の甚大さを感じることができる所であり、
第二展望台から下山のように長く整備された散策路も歩いたりした。

そして2000年3月に噴火した時、1977年の噴火時、昭和新山の噴火時、そして明治期の噴火の跡も
学んだりした、2時間ぐらい歩き廻ったりした。
この後、下山した散策路の途中、群生した薄(ススキ)は白い穂をなやびかせ、
落葉樹は黄色、朱紅色に染めらる中、赤トンボが悠然と飛び回っていた。

前方には洞爺湖の左岸の山里、遥か彼方の遠方には蝦夷富士と称されている羊蹄山が雄大に聳え立ち、
右側には中島の一番大きな大島が観え、圧倒的な展望に私は絶賛したりした。


この後、火山資料館のあるバス停の歩いて5分前の散策路の脇に、
石焼きの張り紙が見えた。
何かしら廃材を活用した小屋風の前で、炭、焼いた石の代わりに砂粒の中で、数多くの卵が置かれていた。
竈(かまど)には、廃材が薪(まき)代わりに燃え、
その上部に円形の鉄製と思われる大きめの箱の中に砂粒が集積させ、砂粒の熱さで卵を茹(ゆ)でている、
と解った。

家内は温泉処にある黒い卵は知っているが、珍しいわ、と立ち寄ることにした。
そして家内は卵、皮ごとに焼いたトウモロコシ、そしてジャガイモ、
私も皮ごとに焼いたトウモロコシを生まれて初めて食べたり、ジャガイモも頂いたりした。
そして賄(まかない)して下さる中年のご婦人と私たち夫婦は、談笑したりした。


この後、温泉街の中を歩き、『洞爺湖サミット記念館』に立ち寄った。
もとより2008年に行われたG8と称した主要国の要人が、
洞爺湖サミットの会場となった場所をその会議で使用された円卓や、
各国首脳に送られたお土産、各国からのお土産の紹介など、サミット関連の資料が展示された館である。

私たち夫婦は、60歳前後の男性から丁重に1時間ぐらい説明をして頂き、
恐縮しながら円卓の椅子に座らせて貰ったりした。

そして湖岸の遊歩道を歩いていると、まもなく冬が訪れますよ、と告知するように、
数多くの雪虫が飛来し、私たちは手で払いながら、宿泊している観光ホテルに戻った。


28日の日曜日は早朝から雨が降り、夜半まで降り続き、
日中の定期観光船も欠航となり、夜の花火大会も中止になった稀な一日となった。


29日は晴れ渡った朝を迎え、私たちは湖畔の左岸の幾つかの公園を歩くことにした・・。
噴火記念公園を始め、幾つかの公園を歩くと、
シラカンバ、ミズナラ、カツラ、ナナカマド、モミジなどが色合いを染め、
私たちは錦繍の世界を享受した。
その後、公園は途切れたので、やむなく国道の歩道を歩いていると、
栗のいがらが見られ、家内は栗が入っているわ、と私に伝えた。
そして10分ぐらい栗のいがらから、栗の実を40個ばかり収穫した。

この後は国道から道道の路を歩いていると対岸の遥か彼方に宿泊している観光ホテルがわずかに観え、
5キロぐらい歩いてきたのかしら、と私は家内に言ったりした。

そしてまもなく歩いていると、小雨が降りだし、傘を持参してこなかった私たちは濡れ始めた。
やむなく撤退と決めたが、家内はフリースに付いている帽子を被り、
私は長袖の冬のスポーツシャツであったので、空から舞い降る雨を浴びたりした。

やがて本降りの雨となり、最近の俺の行いが悪かったのかなぁ、と私は家内にぼやいたりした。
そして宿泊している観光ホテルの一キロ前の頃になると雨は上がり、
通ってきた左岸の上空から湖水にかけて虹が観え、この虹が上段、そして下段の二重の虹となっていた・・。

私は生まれて68年になるが、二段重ねの虹は初めて観るので、
このようなことがあるんだ、と私は家内に話しかけたりした。

そして私は雨で濡れた衣服を見つめながらも、大浴場の熱い湯に入れば心身全快よ、
と高齢者の私は家内に明るく言ったりした。

                           《つづく》
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