福永光司さんを大分県中津市のご自宅に訪ねて、もう十余年になりました。一対一の個人授業を受け、ぜいたくな時間を過ごしたことは、人生の思い出深い大きなひとコマになっています。
そのときの話しのひとつですが「つい先日まで、考古学の佐原真さんが中津に来ていました。駅前のビジネスホテルに一週間泊り込み、毎日ここまで通ったのです。君は日帰りですが、彼は徹底していましたよ」。さすが碩学のおふたり、一日や二日の議論では、時間が足りないのです。わたしは、三時間でぎゃふんでしたが。
おふたりのいちばんのテーマは「生菜」の解釈だったそうです。三世紀に書かれた『魏志倭人伝』は、この国を記した最古の文献ですが、狗奴国の記載に「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」。生菜が生野菜のサラダであるのかどうかが、おふたりの最大の論点だったのです。
佐原さんが興味を抱いたきっかけは、藤原京の遺跡からトイレの遺構が見つかり、寄生虫の卵の化石―回虫・鞭虫などが発見されたからです。生か半ナマの野菜から人体に入ったのです。なお、生中とは一切関係はありません。
倭人伝は、飛鳥の時代から数百年もさかのぼる記録です。佐原さんは福永さんにまず手紙を送りました。「困ったときの福永頼み」だそうです。返事は「生菜は生の野菜と解して間違いはありません」。その後、徹底議論のために、豊前中津に乗り込まれたのです。
『魏志倭人伝の考古学』によると、「金関恕(ひろし)さんとともに、福永光司さんの魏志倭人伝の講義を受けたさいに、この字は三世紀当時ではこういう意味です、という解釈が何回かありました。古代から現代まで、中国語は変化してきています。字の意味も変わってきています。だから、古典をよく読み、よく通じていなければ、中国のひとが魏志倭人伝を読んでも誤解する危険があります。日本人の場合だととくに、ということになります。コワイ、コワイ」。なお、この記述は藤原京トイレの寄生虫化石の発見以前だと思います。
また佐原さんは『考古学の散歩道』で、次のように記しています。福永光司さんの『老荘に学ぶ人間学』によると、荘子は「遊び」を何ものにも、とらわれない自由の精神をもつこととしてとらえているという。荘子も学ばなければ。そのためにまた忙しくなるのではないか、と妻がいう。それなら、あそびの時間をつくりだして、先人の考えを学ぼう、いや楽しむことにしよう。
佐原・福永・多田道太郎、三人を結ぶきずなは強い。みな京都大学文学部の出身者ですが、福永・多田は京大人文研で学者としてご一緒でした。三人に通底するのは、老荘でしょう。
ところで、佐原さんは五年前、福永さんはその前年に亡くなられた。多田さんに至っては、まだ四十九日も過ぎていません。自由遊心の彼の地・仙境で、先着の佐原・福永両氏は首を長くして、多田さんの到着を待っておられることでしょう。
三人が勢ぞろいされたら、興味深い談論がきっとはじまる。とりあえずのテーマは、「彼岸と此岸における、怠惰と勤勉の比較研究―考古学的知見もまじえて」。こんなところでしょうか。なお向こうでは、彼岸はわたしたちの住む世界を指し、此岸はお三方の居住地を意味することは、いうまでもありません。左前の通り、逆転します。
わたしも興味深い鼎談をそばで聴講したいのですが、残念ながら彼の地に至る道順すらさだかではありません。あまり急がずに道草を楽しみ、その内にみなさんと合流したいものです。
※なお今回は「先生」の呼称を、あえてもちいませんでした。大家三人登場のために、文章が先生だらけになってしまう。それで避けました。ご容赦を。
<2007年12月23日>
そのときの話しのひとつですが「つい先日まで、考古学の佐原真さんが中津に来ていました。駅前のビジネスホテルに一週間泊り込み、毎日ここまで通ったのです。君は日帰りですが、彼は徹底していましたよ」。さすが碩学のおふたり、一日や二日の議論では、時間が足りないのです。わたしは、三時間でぎゃふんでしたが。
おふたりのいちばんのテーマは「生菜」の解釈だったそうです。三世紀に書かれた『魏志倭人伝』は、この国を記した最古の文献ですが、狗奴国の記載に「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」。生菜が生野菜のサラダであるのかどうかが、おふたりの最大の論点だったのです。
佐原さんが興味を抱いたきっかけは、藤原京の遺跡からトイレの遺構が見つかり、寄生虫の卵の化石―回虫・鞭虫などが発見されたからです。生か半ナマの野菜から人体に入ったのです。なお、生中とは一切関係はありません。
倭人伝は、飛鳥の時代から数百年もさかのぼる記録です。佐原さんは福永さんにまず手紙を送りました。「困ったときの福永頼み」だそうです。返事は「生菜は生の野菜と解して間違いはありません」。その後、徹底議論のために、豊前中津に乗り込まれたのです。
『魏志倭人伝の考古学』によると、「金関恕(ひろし)さんとともに、福永光司さんの魏志倭人伝の講義を受けたさいに、この字は三世紀当時ではこういう意味です、という解釈が何回かありました。古代から現代まで、中国語は変化してきています。字の意味も変わってきています。だから、古典をよく読み、よく通じていなければ、中国のひとが魏志倭人伝を読んでも誤解する危険があります。日本人の場合だととくに、ということになります。コワイ、コワイ」。なお、この記述は藤原京トイレの寄生虫化石の発見以前だと思います。
また佐原さんは『考古学の散歩道』で、次のように記しています。福永光司さんの『老荘に学ぶ人間学』によると、荘子は「遊び」を何ものにも、とらわれない自由の精神をもつこととしてとらえているという。荘子も学ばなければ。そのためにまた忙しくなるのではないか、と妻がいう。それなら、あそびの時間をつくりだして、先人の考えを学ぼう、いや楽しむことにしよう。
佐原・福永・多田道太郎、三人を結ぶきずなは強い。みな京都大学文学部の出身者ですが、福永・多田は京大人文研で学者としてご一緒でした。三人に通底するのは、老荘でしょう。
ところで、佐原さんは五年前、福永さんはその前年に亡くなられた。多田さんに至っては、まだ四十九日も過ぎていません。自由遊心の彼の地・仙境で、先着の佐原・福永両氏は首を長くして、多田さんの到着を待っておられることでしょう。
三人が勢ぞろいされたら、興味深い談論がきっとはじまる。とりあえずのテーマは、「彼岸と此岸における、怠惰と勤勉の比較研究―考古学的知見もまじえて」。こんなところでしょうか。なお向こうでは、彼岸はわたしたちの住む世界を指し、此岸はお三方の居住地を意味することは、いうまでもありません。左前の通り、逆転します。
わたしも興味深い鼎談をそばで聴講したいのですが、残念ながら彼の地に至る道順すらさだかではありません。あまり急がずに道草を楽しみ、その内にみなさんと合流したいものです。
※なお今回は「先生」の呼称を、あえてもちいませんでした。大家三人登場のために、文章が先生だらけになってしまう。それで避けました。ご容赦を。
<2007年12月23日>