ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲という名前 第二話 <若冲連載7>

2007-12-29 | Weblog
若冲の名づけ親といわれている、相国寺の大典和尚の生涯をざっと見ておきましょう。
 彼は享保四年(1919)五月九日、近江神崎郡伊庭郷に生まれました。滋賀県の湖東、いまの東近江市能登川町伊庭。若冲の三歳年下でした。
 俗姓は今堀氏。字(あざな)は梅荘。諱(いみな)は顕常。大典と号し、また蕉中、北禅などと号す。東湖、不生主人、淡海竺常ともいう。淡海は生国近江・琵琶湖のことです。幼名は大次郎。
 八歳のとき、黄檗山萬福寺の塔頭・華厳院にあずけられましたが、兄弟子との不和がおきる。
 毎夜遅くまで勉学にはげむ大典でしたが、兄弟子の瑞倪が隣室から「おい、まだ本を読んでいるのか」といいました。
 大典は「いいえ、読んでいるのではなく、看(み)ているのです。」
よくあることですが、できのよい若者は、不出来な先輩からいじめられます。禅寺において、師匠なり兄弟子との不和は、ふたりの将来のために不幸であり致命的なことです。
 大典の父は不仲を知り、彼が十歳のときに萬福寺から、旧知の相國寺塔頭、慈雲院の独峯慈秀和尚のもとに移しました。そして享保十四年三月(1729)、十歳のときに独峯和尚によって得度し、名を大次郎から顕常にあらためました。
 独峯死後、相国寺塔頭・慈雲院住職をついでいた大典は三回忌を終えたのち、病と偽って相國寺を辞し、京の郊外に閑居す。大典和尚、四十一歳のときです。そして十三年間、鷹峰、山端、華頂山下などに住まいして市井にまじり、詩作、文筆著述業に専念しました。
 そして明和九年四月(1772)、度々の相国寺帰山の要請をついに断りきれず、大典は寺に帰ります。すでに和尚、五十四歳のときでした。
 その後、五十九歳にして相國寺住持に、翌年には五山碩学に推挙され、六十三歳のときには朝鮮修文職にそして対州以酊庵に任ぜられました。僧として最高の栄達をきわめるのです。
 ところが天明八年(1788)正月晦日の大火が京も相國寺も燃やしつくし、大典は寺再興のために全力をつくします。そして寛政十二年(1800)九月十日に、若冲は伏見深草・石峰寺門前の寓居にて八十五歳で永眠。その半年ほどのち、翌享和元年二月八日(1801)、大典禅師は畏友・若冲を追うかのように、相國寺慈雲院で示寂す。享年八十三歳。
 この日二月八日は、くしくも若冲が錦街で生まれた誕生日でした。
 <2007年12月29日 南浦邦仁>
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