珍しく今日は、聞き書きです。山科にお住まいの吉田志津子さんは、間もなく八十歳を迎える元気な女性。彼女の人生目標は、かつて大活躍したタレントの金さん銀さんです。百歳をこえても、元気でジョークを飛ばす、そんな楽しい女になることを目指しておられる。
志津子さんから、京都の競輪場の話しを聞きました。いまから五十数年前、おそらく昭和26年ころのこと、わたし片瀬がやっと離乳食をはじめた時期です。彼女は独身で二十二歳ほどのころ、家業は屋台で売るお好み焼き屋さんでした。
父親は夜にこういったそうです。「明日は競輪の開催日。朝のうちに屋台をひいて競輪場に来ること」。尊敬する父の命令には絶対服従でした。彼女は朝早く、当時住んでいた壬生から、重い屋台をひいて、向日市にいまもある府営向日町競輪場に汗だくで向かいました。昭和26年か翌27年の7月17日、真夏の暑い日でした。
ところが、やっと到着した向日町競輪場(昭和25年開場)ですが、平日のこの日にはレースがありません。「…?」。守衛さんに聞くと、宝ヶ池競輪場は本日開催という。7月17日は祇園祭巡行の日です。平日ですが、京都市民には祭日だったのでしょう。巡行見物には行かず、競輪に向かう市民が多かったようです。
いまは向日町だけですが、そのころ京都府内にはふたつの競輪場があったのです。父が志津子にいった競輪場とは、昭和24年12月にオープンした、いまはなき京都市営宝ヶ池競輪場だったのです。
間違いに気づいた志津子は、取って返して洛北に向かいました。しかし遠い。また7月17日は、祇園祭巡行の日なのです。抜け道も知らない彼女は、四条通から河原町通に折れようとしました。通りでは、祇園祭の山と鉾が、朝から綱でひかれ、晴れの祭典を演じていました。
祭りを見物するひとたち、また警備や巡行のひとたちは、唖然としました。ゆっくり進む山鉾を追い抜いて、重い屋台をひく小柄な娘が四条から河原町通を、北に一目散に歩いていくのです。眼には粒の汗が、ひりひりとしみています。
しかしだれひとり、彼女を制止する者はいませんでした。昭和26年か翌年、そのような時代だったのです。細く背の低い、二十歳そこそこの娘が、汗だくでどこに向かうのか。山鉾の行列に眼を伏せながら、一歩一歩と力強く、屋台をひきひき歩いて行く巡行道。沿道の溢れるばかりの観客は、エールをおくったことでしょう。「おーい、がんばれ!ねえちゃん!」
大幅に遅刻して、やっと宝ヶ池競輪場に到着した志津子をみつけた父は、激怒しました。「一体、いま何時や思てんねん! どこへ行ってたんや!」。しかし彼女は、ひとことも言い訳しませんでした。「早合点して間違ったうちが悪いんや…」
急いで炭火をおこし開店したお好み焼き屋は、その日も大繁盛でした。「ねえちゃん、待ってたで。何や、今日は遅かったなあ」。屋台の店は、場内で営業する許可も得ていません。公道を仕切る金網越しで、お好み焼きを手渡す商いでした。この日、彼女は溢れる涙をとめることができませんでした。
いまでは古い記憶の市営宝ヶ池競輪場ですが、昭和33年(1958)に廃止されます。営業期間の9年間、開催日数は99日、総売上高は77億1500万円余。総収益は4億8237万円。市営事業なので、収益金は市民に還元されました。失対事業、道路整備、市営住宅の建設、児童福祉費などです。
ところで宝ヶ池競輪場が廃止になった理由は、昭和32年ころから市の財政がようやく黒字基調になったこと。それと同じ年、市職員の汚職事件が発覚した。彼は競輪場に日々通って、資金に窮したうえでの不正であった。
昭和33年正月、高山義三市長は年頭訓示でこう語る。「市民憲章に反し、家庭生活を破壊する競輪は、六大都市中さきがけて廃止する」。それまでのバクチ収益で赤字を埋める行政のあり方を、断固として否認したのです。
競輪場が廃止されたとき、志津子さんの父は、場内に小さいながらも常設の店舗・うどん屋を構えていました。立退き料は、額はもう覚えていないが決して小額ではなかった。そのように彼女は語っておられました。
<2008年7月6日 蒸し暑い日々、祇園祭巡行を目前に>
志津子さんから、京都の競輪場の話しを聞きました。いまから五十数年前、おそらく昭和26年ころのこと、わたし片瀬がやっと離乳食をはじめた時期です。彼女は独身で二十二歳ほどのころ、家業は屋台で売るお好み焼き屋さんでした。
父親は夜にこういったそうです。「明日は競輪の開催日。朝のうちに屋台をひいて競輪場に来ること」。尊敬する父の命令には絶対服従でした。彼女は朝早く、当時住んでいた壬生から、重い屋台をひいて、向日市にいまもある府営向日町競輪場に汗だくで向かいました。昭和26年か翌27年の7月17日、真夏の暑い日でした。
ところが、やっと到着した向日町競輪場(昭和25年開場)ですが、平日のこの日にはレースがありません。「…?」。守衛さんに聞くと、宝ヶ池競輪場は本日開催という。7月17日は祇園祭巡行の日です。平日ですが、京都市民には祭日だったのでしょう。巡行見物には行かず、競輪に向かう市民が多かったようです。
いまは向日町だけですが、そのころ京都府内にはふたつの競輪場があったのです。父が志津子にいった競輪場とは、昭和24年12月にオープンした、いまはなき京都市営宝ヶ池競輪場だったのです。
間違いに気づいた志津子は、取って返して洛北に向かいました。しかし遠い。また7月17日は、祇園祭巡行の日なのです。抜け道も知らない彼女は、四条通から河原町通に折れようとしました。通りでは、祇園祭の山と鉾が、朝から綱でひかれ、晴れの祭典を演じていました。
祭りを見物するひとたち、また警備や巡行のひとたちは、唖然としました。ゆっくり進む山鉾を追い抜いて、重い屋台をひく小柄な娘が四条から河原町通を、北に一目散に歩いていくのです。眼には粒の汗が、ひりひりとしみています。
しかしだれひとり、彼女を制止する者はいませんでした。昭和26年か翌年、そのような時代だったのです。細く背の低い、二十歳そこそこの娘が、汗だくでどこに向かうのか。山鉾の行列に眼を伏せながら、一歩一歩と力強く、屋台をひきひき歩いて行く巡行道。沿道の溢れるばかりの観客は、エールをおくったことでしょう。「おーい、がんばれ!ねえちゃん!」
大幅に遅刻して、やっと宝ヶ池競輪場に到着した志津子をみつけた父は、激怒しました。「一体、いま何時や思てんねん! どこへ行ってたんや!」。しかし彼女は、ひとことも言い訳しませんでした。「早合点して間違ったうちが悪いんや…」
急いで炭火をおこし開店したお好み焼き屋は、その日も大繁盛でした。「ねえちゃん、待ってたで。何や、今日は遅かったなあ」。屋台の店は、場内で営業する許可も得ていません。公道を仕切る金網越しで、お好み焼きを手渡す商いでした。この日、彼女は溢れる涙をとめることができませんでした。
いまでは古い記憶の市営宝ヶ池競輪場ですが、昭和33年(1958)に廃止されます。営業期間の9年間、開催日数は99日、総売上高は77億1500万円余。総収益は4億8237万円。市営事業なので、収益金は市民に還元されました。失対事業、道路整備、市営住宅の建設、児童福祉費などです。
ところで宝ヶ池競輪場が廃止になった理由は、昭和32年ころから市の財政がようやく黒字基調になったこと。それと同じ年、市職員の汚職事件が発覚した。彼は競輪場に日々通って、資金に窮したうえでの不正であった。
昭和33年正月、高山義三市長は年頭訓示でこう語る。「市民憲章に反し、家庭生活を破壊する競輪は、六大都市中さきがけて廃止する」。それまでのバクチ収益で赤字を埋める行政のあり方を、断固として否認したのです。
競輪場が廃止されたとき、志津子さんの父は、場内に小さいながらも常設の店舗・うどん屋を構えていました。立退き料は、額はもう覚えていないが決して小額ではなかった。そのように彼女は語っておられました。
<2008年7月6日 蒸し暑い日々、祇園祭巡行を目前に>