大正四年(1915)十一月十五日、鴎外森林太郎は、史伝『北条霞亭[かてい]』を書く前、霞亭の師・皆川淇園の墓に詣でた。「寺町通今出川上る阿弥陀寺なる皆川淇園の墓を訪ふ」。蝶夢の墓も同地にある。なお森鴎外は史伝『北条霞亭』の新聞連載のはじまった大正六年、陸軍軍医総監を退き、帝室博物館総長に就任する。九鬼隆一がかつてつとめた任であった。
ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話[かっしやわ]』の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人・柏原瓦全と親友であった。霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈[おい]を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。
あまり知られていないようだが、蝶夢も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。たとえば天明四年二月二十六日から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊[ばんこうけい]、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。
また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。
江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛[みくまかてん]が天明八年(1788)春、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。畸人伝ともに当時、大ベストセラーになった。名文である。
<7月21日 百華繚乱>
ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話[かっしやわ]』の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人・柏原瓦全と親友であった。霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈[おい]を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。
あまり知られていないようだが、蝶夢も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。たとえば天明四年二月二十六日から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊[ばんこうけい]、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。
また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。
江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛[みくまかてん]が天明八年(1788)春、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。畸人伝ともに当時、大ベストセラーになった。名文である。
<7月21日 百華繚乱>