若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年(一七九八)夏、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた<畸>[き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。
観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作がある。
また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かきず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはないであろう。
<2008年7月2日 「若冲 天井画」は原則毎週一度、平日に掲載予定 南浦邦仁記>