1500年1月4日「大こく千しゆ万せゐ申」大黒党が千秋萬歳(せんしゆうばんぜい)を申す。<御湯殿>
1503年1月5日「千秋萬歳来、如例」<実隆公記>
1505年1月4日 禁裏議定所の庭で千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1505年1月5日 禁裏議定所の庭で、北畠声聞師による千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1507年 今の舞々と申すは、世間を往来する声聞士が仏菩薩の因縁を唱へ人を勧る<旅宿問答>
1509年1月4日 禁裏にて大黒の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月5日 禁裏にて北畠の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月11日 禁裏にて目白の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月13日「神主方千寿萬歳、如形在之」<春日社司祐稱記>
1510年1月13日 春日社の神主方で千秋萬歳が形の如くある<春日社司祐稱記>
1512年1月2日 近江国志賀郡堅田庄の伊豆神社に、毎年千秋萬歳が来て、禄200文は下司が出す<居初寅夫家文書>
1512年1月5日 禁裏に北畠声聞師七、八人が参内し、千秋萬歳を催す<後柏原院御記>
1515年1月5日 三条西実隆邸に「千秋萬歳来」<実隆公記>
1516年1月13日「千秋萬歳来、如例年、給禄」<後法成寺尚通公記>
1518年1月11日 伏見宮に参じた天王寺千秋萬歳が帯をもらう<伏見宮貞敦親王日記>
1519年1月4日 伏見殿に千秋萬歳が参入。芸を尽くし太刀を与えられる<二水記>
1520年1月4日 禁裏に千秋萬歳が常の如くに参る<二水記>
1520年1月5日「千秋萬歳来」<実隆公記>
1522年1月5日「今日北畠聖門師、申千秋萬歳、於議定所申之」<隆康卿記>
1523年1月5日 千秋萬歳、三条西実隆邸に参入<元長卿記>
1528年1月9日「雪ふる。せんすまんさい大こくまいる。きちやう所の御庭にて申。めてたしめてたし。宮の御かたなる」千秋(せんず)萬歳大黒が参り、議定所の庭で申す。目出度し目出度し<御湯殿>
1528年1月10日「きたはたけまいりてせんすまんさい申」北畠の千秋萬歳<御湯殿>
1529年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1529年1月5日「きたはたけまいる。まいなととしとしのやうにまいまいらする」北畠が年々の如く舞々等を舞う<御湯殿><言継卿記>
1530年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1530年1月5日「きたはたけまいる。まいなとまいてめてたし」北畠が舞を舞う。目出度し<御湯殿>
1531年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1531年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。としとしのことくまいなとまいまいりていつる」北畠の千秋萬歳、舞を舞う<御湯殿>
1532年1月4日「千秋万さいまいりて御さか月(御盃)まいる」<御湯殿>
1532年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月5日「きたはたけまいりて。としとしのことくまはられ候て めてたしめてたし」<御湯殿>「北畠之声聞師千秋萬歳三人参候了、如例参議定所御庭曲舞[盛長夢物語・頼朝都入等也]<言継卿記>
1534年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1534年1月5日「千秋万歳まいる。きたはたけ」<御湯殿>
1535年1月4日「千す万さいまいりて御さか月まいる」<御湯殿>
1535年1月5日「千す万さゐきたはたけまいる。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1537年1月4日「千秋万さいまいりて御さかつきまいる」<御湯殿>
1537年1月5日「きたはたけ千秋万さいまいる。まわせらるゝ」<御湯殿>
1537年1月7日「千秋萬歳、二日ニ来候と、又今日来候と、両度の唯今来候、然而見苦敷事候間、させず候て、嘉例のごとく代物、二日のに百疋、又七日のに二百疋遣候」<證如上人日記>
1538年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1538年1月5日「北はたけまいる。としとしのことくまいなとまいまい(舞々)らする」<御湯殿>
1539年1月4日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1539年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり」<御湯殿>
1540年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1540年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>
1542年1月4日「千す万さいまいりて申。…千す万さいの御さか月もまいる」<御湯殿>
1542年1月5日「北はたけまいりて。千す万さい申」<御湯殿>
1543年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1543年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月5日「きたはたけまいる。千す万さい申」<御湯殿>
1545年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1545年1月5日「北はたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1546年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>千秋萬歳7人、禁裏孔雀間において行なう<後奈良院宸記><言継卿記>
1546年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>「千秋萬歳北畠五人参、孔雀間有之」<後奈良院宸記>「今日四過時分参内、北畠千秋萬歳参五人、於孔雀間申之、舞三番了」<言継卿記>
1547年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1547年1月5日「きたはたけまいる」<御湯殿>
1548年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1549年1月5日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1549年1月6日「北はたけまいりて千す万さい申。これは五日の事也」<御湯殿>
1549年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、後段は無しという<中臣祐金記>
1550年1月4日「千す万さいまいる。くしやくのまにて申」<御湯殿>禁裏に千秋萬歳が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1550年1月5日 禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞(和田酒もり・なす与一)を舞う<言継卿記>
1550年閏5月8日 伏見宮家の侍・三木新五郎によって声聞師大黒が殺害された。これがために大騒動が起こり、伏見宮家では声聞師成敗のために二千人を動員。事件の拡大を恐れた禁裏は、伏見宮に「穏便之御沙汰可然之由」と収束を指示<言継卿記>
1551年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1551年1月5日「北はたけまいりて。としとしのことくまい【まい】らする<御湯殿>禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞[和田酒盛・こし越・ゆり若]を演じる<言継卿記>
1551年1月7日「千秋萬歳両日之分七人来由候」<證如上人日記>
1551年1月中旬 イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルがはじめて京の都に到着した。ちょうど一年後に記された書簡で「都地方のひどい寒さや、いたる所で旅人を襲う盗賊の群れのことなどは、今更語ろうと思わない。/都には数日間[近江坂本も含め11日間]いただけである。私たちは国王[後奈良天皇]に謁して、日本で信仰教義を説く許可を得ようと思ったのである。ところが私たちは、国王に謁することができなかった。その上、国民はずいぶん前から、王に従わなくなっている由を聞いたので、私は国王に近づこうとするこれ以上の努力を中止し、国王から許可を得ることはあきらめた。…この地方には当時、新しい戦争が起こりかけていたので、私たちは、いまこの地方は聖教を受け入れる態勢になっていないと判断せざるを得なかった。/都はかつて大きな都会であったけれども、今日では打ち続いた戦乱の結果、その大部分が破壊されている。昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさからみて、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家がならんでいそうに思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである」応仁の乱以降も、京の荒廃と惨状は延々と続いている。また彼は比叡山に入ろうとしたが、献上品がないということで、入山もかなわなかった。ザビエルはフェルナンデスを従えて、御所の門前に二日か三日、立って懇願したが取り次いでもらえず、通りすがり町衆の嘲笑を得るだけであった。遠来の珍客ザビエルらの入洛は、本人の記載以外、日本国内のどの公家の日記にも記されていない<聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄>
1552年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1552年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳参、於孔雀間申之、曲舞三番了」<言継卿記>
1553年1月4日「千秋万さいまいりて。御さか月まいる」<御湯殿>
1553年1月5日「千秋万さゐまいる」<御湯殿>
1554年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿>御近所之声聞師の大黒五人が参る。曲舞は鞍馬常盤・吉盛・木曽願書<言継卿記>
1554年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時に参、今日者北畠声聞師也、但桜町参云々」今日は北畠声聞師の日で、但し桜町から来るという<言継卿記>
1554年1月7日「千秋萬歳両日分来之由候条、去年者祝言申度之由候間、申させ候処、言語道断見苦為躰曲事候之間、当年者是ヘ喚入間敷之由申出之処、彼等申にハ…」<證如上人日記>本願寺に千秋萬歳8人が訪れ、祝言ののち、久世舞を舞う<天文日記>
1554年1月18日「御三木ちや(左義長)、いつものことし、大こくはやしまいらする」<御湯殿>
1555年1月4日「大こく千秋万さいまいりて。いつものことく申」<御湯殿>禁裏に大黒が千秋萬歳に参り、孔雀間で行い曲舞も舞う<言継卿記>
1555年1月5日「きたはたけ千秋万歳まいりていつものことく申」<御湯殿><言継卿記>
1556年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1556年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1557年1月4日「千す万さいまいりて。いつものことく御さか月まいる」<御湯殿>
1557年1月5日「けふの千す万さいもいつものことし。ておのはしめいつものことし」<御湯殿>
1559年1月4日「せんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳を御近所の声聞師5人が旧儀に復し議定所の庭で行なう<言継卿記>
1559年1月5日「けふもせんすまんさい六人まいる」<御湯殿>禁裏に北畠声聞師6人が例年の如く来て、舞三、四番を舞う<言継卿記>
1559年1月7日 本願寺に千秋萬歳が来て、舞五番がある「千寿萬歳参候」<私心記>
1559年1月7日 本願寺に千寿萬歳8人が訪れ祝言の後、久世舞を舞う<天文日記>
1560年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に可参之由有之間、午時参内、大黒五人未刻参、於議定所御庭如例年申之」議定所の庭にて声聞師大黒5人の千秋萬歳が行なわれた<言継卿記>
1560年1月5日「きたはたけのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>北畠声聞師5人の千秋萬歳、後に曲舞も舞う<言継卿記>
1561年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>
1561年1月5日「さくらまちのせんすまんさい六人まいる」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1561年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、社中衆ばかりで陰陽沙汰は無いという<中臣祐金記>
1562年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。五人まいる」禁裏に大黒5人が来て千秋萬歳<御湯殿>
1562年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。五人」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1563年1月4日「千すまんさい大こく五人まいる。ゆきふりておそくまいる」降雪のため例年より遅い時間の参内<御湯殿>大黒の千秋萬歳が議定所の庭であり、後に曲舞二番(張良・大織冠)を舞う<言継卿記><惟房公記>
1563年1月5日「さくらまちのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じ、後に曲舞二番を舞う(浜出鳥・烏帽子折)<言継卿記><惟房公記>
1564年1月4日「千すまんさいまいりて。御さか月きちやう所にて一こんまいる」<御湯殿>禁裏で千秋萬歳、議定所で盃<言継卿記><惟房公記>
1564年1月5日「さくら町の千すまんさいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳五人参、如昨日於議定所有之」北畠[桜町?]の唱門師の千秋萬歳5人が議定所で行なわれる<言継卿記>「禁中千秋万歳参之、桜町唱門士云々」<惟房公記>
1565年1月4日「いつものことくせんすまんさいまいる。大こく五人まいりて。色々めてたき事申。はしめて御はいになる。いく久しくもとめてたしめてたし」 <御湯殿><言継卿記>
1565年1月5日「いつものことくせんすまんさいまいる。さくらまちのせんつまんさい五人まいりて。めてたき事とも色々申」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に未刻参内、自桜町参、根本北畠也、如例議定所御庭」桜町より参る、根本は北畠。議定所の庭で曲舞(張良・筥根脂・烏帽子折・秀平・浜出等)を舞う<言継卿記>
1566年1月4日 禁裏に近所の声聞師の千秋萬歳が参り、夕暮れに退出す<言継卿記>
1566年1月5日 禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じる<言継卿記>
1566年1月13日 春日社神主宅で千秋萬歳があるが、声聞師は不参する<中臣祐金記>
1567年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>大黒5人、禁裏の千秋萬歳に参る<言継卿記>
1567年1月5日「さくら町のせんすまんさいことしは四人まいる。いつも五人なり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳4人が議定所の庭で舞い、曲舞二番(烏帽子折・あつもり)も舞う。いつもは5人という<言継卿記>
1568年1月4日「大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」<御湯殿>禁裏で声聞師大黒5人の千秋萬歳。ついで曲舞の大織冠を舞う。また夷舁、参内して車寄で舞う<言継卿記>
1568年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。てうのはし【め】あり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳が議定所の庭であり、祝言の後に曲舞(和田酒盛・浜出)がある<言継卿記>
1568年1月18日「払焼御三毬打(さぎちょう)如例年、大黒以下声聞師各参囃之、雖大雪賤男女之見物群衆也」<言継卿記>
1569年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1569年1月5日「けふさくらまちのせんすまんさいまいらす。世のふつそうゆへなり」今日、桜町声聞師の千秋萬歳は世上物騒の故をもって参内せず<御湯殿>
1570年1月2日「大こくひさもんしん上申。こほし四郎二郎。くらう(九郎)二郎はうきしん上(箒進上)申。御庭はきそむる」大黒声聞師が参内して毘沙門経を申す。この日、小法師らも参内し箒を献上し、庭掃きに従事する<御湯殿>
1570年1月4日「千すまんさいいつものことく大こくまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時参内…近所声聞師大黒参、五人有之、於議定所御庭申之、如例、種々曲共舞等也」近所の声聞師大黒5人が参内し、議定所の庭で千秋萬歳を演ずる<言継卿記>
1570年1月5日「きたはたけのせんつまんさい三人まいる。色々めてたき御事申」北畠の千秋萬歳3人が色々のめでたきことを申す<御湯殿><言継卿記>
1571年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>禁裏で大黒の千秋萬歳、議定所の庭で演じる<言継卿記>
1571年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1572年1月2日 この日より5日にかけて、声聞師大黒が禁裏に参内して毘沙門経を読む<御湯殿>
1572年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1572年1月5日「きたはたけのせんす万さいまいる。三人まいる」北畠の千秋萬歳3人参る<御湯殿>
1573年1月2日 声聞師大黒、禁裏に参内して毘沙門経を進める<御湯殿>
1573年1月4日「千すまんさい六人まいる」<御湯殿>
1573年1月5日「千すまんさい四人まいる。てうのはしめあり」<御湯殿>
1575年1月4日「大こく六人まいる」<御湯殿>
1576年1月4日「せんしゆまんさい大こく五人まいる。まいあり」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り、曲舞も舞う<言継卿記>
1576年1月5日 桜町の千秋萬歳3人が参る<言継卿記>
1576年1月8日「従梅津千秋萬歳、昨日依雨儀今日来、十七八人有之」<言継卿記>梅津より千秋萬歳[18、9人]が山科言継邸に来る。梅津の地を知行するため来ると注される<言経卿記>
1577年1月4日「大こくせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>
1579年1月4日「大こく六人まいる。まいまう」<御湯殿>禁裏に大黒6人が参り、舞を舞う<言継卿記>
1579年1月5日「きたはたけのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>千秋萬歳3人が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1579年1月7日 梅津より千秋萬歳7人が山科言継邸に参り、例年のごとく舞う<言継卿記>
1580年1月4日「大こくせんすまんさい六人まいる。二條へもまいる」禁裏に大黒6人が参り、次に二条邸にも参る<御湯殿>
1580年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」桜町の千秋萬歳3人が参る<御湯殿>
1581年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。女院の御事にことしはつゝみなしにまいせらるゝ」禁裏に大黒が参る。先年女院死去のため、鼓無しに舞わせる<御湯殿>
1581年1月5日「雪ふる。きたはたけのせんすまんさいまいる。けふはしゆこうの御七日にてかへさるゝ」北畠の千秋萬歳が参るが、主公の御七日のため帰される<御湯殿>
1582年1月4日「たいこく五人まいりて。せんすまんさい申。御さか月は一こんまいる。ことしは雨ゆへくちやくのまにて申ほとに。大こくいてゝのち。いつものことくきちやう所にて御さか月一こんまいる。おとこたちもいつものことく御ゆとのゝうへにてめしいたしあり」禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り舞う。雨のため孔雀間で舞い、終わって例年のように議定所にて盃<御湯殿>「今日せんすうまんざいにしこう不申候」<晴豊記>
1582年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>
1582年6月2日 本能寺の変
1583年1月4日「せんすまんさい大こく六人まいる。いつものことくきちやう所にてまいまいらする」千秋萬歳大黒6人、例年の如く議定所の庭で舞々などを舞う<御湯殿>
1583年1月5日「はるゝ。ゆきふる。さくらまちのせんすまんさいまいりて。きちやう所にてまいまいらせ候」<御湯殿>
1585年1月5日 北野社に千秋萬歳が来て舞う<目代昭世引付>
1586年1月4日「はるゝ。大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」晴れ。禁裏の千秋萬歳に大黒が参り、例年のように議定所にて盃<御湯殿>
1586年1月5日 桜町の千秋萬歳11人が参る<御湯殿>
1587年1月4日「千す万さいきてう所の御庭にて申」<御湯殿>
1587年1月5日「桜町の千す万さいまいる。きてう所の御庭にて申」桜町の千秋萬歳が議定所の庭である<御湯殿>
1587年1月6日 千秋萬歳が北野社目代のもとを訪れる。いつもは5日<北野目代日記>
1588年1月4日「はるゝ。せんすまんさいまいる。みなみにて申」千秋萬歳が参り、南の庭で囃す<御湯殿>
1588年1月5日「はるゝ。さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみにて申」 桜町の千秋萬歳が南の庭で行われる<御湯殿>
1589年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみにてはやし申」<御湯殿>
1589年1月5日「櫻まちまいる。昨日のことくみなみにて申」<御湯殿>
1590年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみの御にわにてはやし申」<御湯殿>
1590年1月5日「さくらまちまいりて。せんすまんさい申。みなみの御庭にてきのふのことくはやしまいらする」<御湯殿>
1591年1月4日「雨ふる。はるゝ。せんすまんさいまいりて。いつものことくみなみの御にわにて申」<御湯殿>
1591年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみの御【にわ】にて申」<御湯殿>
1592年 壬申倭乱。秀吉の朝鮮侵略はじまる。
1594年3月12日 京都・堺・大坂の陰陽師、すなわち声聞師たち127人が尾張国に強制移住させられた。清須あたりの荒地開発に使役される。内訳は、京都109人ともっと多く、京の唱門師は壊滅的大打撃を受ける。その他、堺10人、大坂8人。奈良大和はなぜか徴発されていない。
1595年1月4日「けふのせんすまんさいはまいらす」今日の千秋萬歳は参らず<御湯殿>追放翌年の1595年正月、禁裏に千秋萬歳は不参。
慶長17年(1612)1月5日の再開まで、内裏での千秋萬歳は中断してしまう。ほぼ20年ぶりのこの日、参内したのは桜町の声聞師であった。そして翌年正月15日、仙洞御所での三毬打(さぎちょう・左義長)に、大黒が久しぶりに参入し「音曲有り」。なお秀吉の死去は、1598年8月18日。
最後に、ザビエルの遺志をついだイエズス会宣教師たちが、いまから四百年前に編纂した『日葡辞書』をみてみましょう。1603年に本編、翌年に補遺が足されて完成した「日本語・ポルトガル語辞典」。西欧人がはじめて作り上げた、本格的な日本語辞典です。
この本で、「千秋萬歳」や「声聞師」をみますと、
<千秋>[センシュウ]
正月、あるいはその他の祝祭の折に、日本人が挨拶をかわすのに用いる語で、「何千年も生きなさい」と言うようなもの。(千秋は千の秋[千の年・歳])
<千秋萬歳>[センシュウバンゼイ]
千の秋と万の年と。
[注:万歳の読みは<バンゼイ>]
<万歳>[バンゼイ:読み注意]
多くの年。例、千秋萬歳[せんしゅうばんぜい]、または万年[ばんねん・まんねん]。永久に、長年の意。
<唱門師・声聞師>[ショウモンジ]
舞をする呪術師や占い師のような者で、祈祷や呪術などを行なう者。
<陰陽師>[ヲンヤゥジ]
占いをする者、または博士。呪術師、または占い師。
豊臣秀吉による突然の声聞師(唱門師・芸能陰陽師・萬歳法師)たちの大受難。千秋萬歳が禁止された直後に編纂された『日葡辞書』です。そのような時期に編纂されたためか、残念ながらこの辞書には、門付千秋萬歳(せんしゅう・せんずまんざい)の記載はありません。
なお年表作成のため参考にした書籍は、盛田嘉徳著『中世賎民と雑芸能の研究』(雄山閣出版)。それに世界人権問題研究センター編『散所・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)、渡辺昭五著『中近世浮浪芸の系譜』(岩田書院)、『御ゆとのゝ上の日記』など。これら資史料を加えて、年表を充実してみました。
しかしいま、再度改訂したいと思っています。『看聞日記』と『言継卿記』など、該当部分の原文引用が必要だからです。さて、いつ実行しましょうか…。少し、悩んでいます。
<2009年10月11日 南浦邦仁>