ふろむ播州山麓

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「千秋萬歳」中世史年表 新版 <後編>

2009-10-10 | Weblog
1500年1月4日「大こく千しゆ万せゐ申」大黒党が千秋萬歳(せんしゆうばんぜい)を申す。<御湯殿>
1503年1月5日「千秋萬歳来、如例」<実隆公記>
1505年1月4日 禁裏議定所の庭で千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1505年1月5日 禁裏議定所の庭で、北畠声聞師による千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1507年 今の舞々と申すは、世間を往来する声聞士が仏菩薩の因縁を唱へ人を勧る<旅宿問答>
1509年1月4日 禁裏にて大黒の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月5日 禁裏にて北畠の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月11日 禁裏にて目白の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月13日「神主方千寿萬歳、如形在之」<春日社司祐稱記>
1510年1月13日 春日社の神主方で千秋萬歳が形の如くある<春日社司祐稱記>
1512年1月2日 近江国志賀郡堅田庄の伊豆神社に、毎年千秋萬歳が来て、禄200文は下司が出す<居初寅夫家文書>
1512年1月5日 禁裏に北畠声聞師七、八人が参内し、千秋萬歳を催す<後柏原院御記>
1515年1月5日 三条西実隆邸に「千秋萬歳来」<実隆公記>
1516年1月13日「千秋萬歳来、如例年、給禄」<後法成寺尚通公記>
1518年1月11日 伏見宮に参じた天王寺千秋萬歳が帯をもらう<伏見宮貞敦親王日記>
1519年1月4日 伏見殿に千秋萬歳が参入。芸を尽くし太刀を与えられる<二水記>
1520年1月4日 禁裏に千秋萬歳が常の如くに参る<二水記>
1520年1月5日「千秋萬歳来」<実隆公記>
1522年1月5日「今日北畠聖門師、申千秋萬歳、於議定所申之」<隆康卿記>
1523年1月5日 千秋萬歳、三条西実隆邸に参入<元長卿記>
1528年1月9日「雪ふる。せんすまんさい大こくまいる。きちやう所の御庭にて申。めてたしめてたし。宮の御かたなる」千秋(せんず)萬歳大黒が参り、議定所の庭で申す。目出度し目出度し<御湯殿>
1528年1月10日「きたはたけまいりてせんすまんさい申」北畠の千秋萬歳<御湯殿>
1529年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1529年1月5日「きたはたけまいる。まいなととしとしのやうにまいまいらする」北畠が年々の如く舞々等を舞う<御湯殿><言継卿記>
1530年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1530年1月5日「きたはたけまいる。まいなとまいてめてたし」北畠が舞を舞う。目出度し<御湯殿>
1531年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1531年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。としとしのことくまいなとまいまいりていつる」北畠の千秋萬歳、舞を舞う<御湯殿>
1532年1月4日「千秋万さいまいりて御さか月(御盃)まいる」<御湯殿>
1532年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月5日「きたはたけまいりて。としとしのことくまはられ候て めてたしめてたし」<御湯殿>「北畠之声聞師千秋萬歳三人参候了、如例参議定所御庭曲舞[盛長夢物語・頼朝都入等也]<言継卿記>
1534年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1534年1月5日「千秋万歳まいる。きたはたけ」<御湯殿>
1535年1月4日「千す万さいまいりて御さか月まいる」<御湯殿>
1535年1月5日「千す万さゐきたはたけまいる。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1537年1月4日「千秋万さいまいりて御さかつきまいる」<御湯殿>
1537年1月5日「きたはたけ千秋万さいまいる。まわせらるゝ」<御湯殿>
1537年1月7日「千秋萬歳、二日ニ来候と、又今日来候と、両度の唯今来候、然而見苦敷事候間、させず候て、嘉例のごとく代物、二日のに百疋、又七日のに二百疋遣候」<證如上人日記>
1538年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1538年1月5日「北はたけまいる。としとしのことくまいなとまいまい(舞々)らする」<御湯殿>
1539年1月4日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1539年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり」<御湯殿>
1540年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1540年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>
1542年1月4日「千す万さいまいりて申。…千す万さいの御さか月もまいる」<御湯殿>
1542年1月5日「北はたけまいりて。千す万さい申」<御湯殿>
1543年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1543年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月5日「きたはたけまいる。千す万さい申」<御湯殿>
1545年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1545年1月5日「北はたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1546年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>千秋萬歳7人、禁裏孔雀間において行なう<後奈良院宸記><言継卿記>
1546年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>「千秋萬歳北畠五人参、孔雀間有之」<後奈良院宸記>「今日四過時分参内、北畠千秋萬歳参五人、於孔雀間申之、舞三番了」<言継卿記>
1547年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1547年1月5日「きたはたけまいる」<御湯殿>
1548年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1549年1月5日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1549年1月6日「北はたけまいりて千す万さい申。これは五日の事也」<御湯殿>
1549年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、後段は無しという<中臣祐金記>
1550年1月4日「千す万さいまいる。くしやくのまにて申」<御湯殿>禁裏に千秋萬歳が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1550年1月5日 禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞(和田酒もり・なす与一)を舞う<言継卿記>
1550年閏5月8日 伏見宮家の侍・三木新五郎によって声聞師大黒が殺害された。これがために大騒動が起こり、伏見宮家では声聞師成敗のために二千人を動員。事件の拡大を恐れた禁裏は、伏見宮に「穏便之御沙汰可然之由」と収束を指示<言継卿記>
1551年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1551年1月5日「北はたけまいりて。としとしのことくまい【まい】らする<御湯殿>禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞[和田酒盛・こし越・ゆり若]を演じる<言継卿記>
1551年1月7日「千秋萬歳両日之分七人来由候」<證如上人日記>
1551年1月中旬 イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルがはじめて京の都に到着した。ちょうど一年後に記された書簡で「都地方のひどい寒さや、いたる所で旅人を襲う盗賊の群れのことなどは、今更語ろうと思わない。/都には数日間[近江坂本も含め11日間]いただけである。私たちは国王[後奈良天皇]に謁して、日本で信仰教義を説く許可を得ようと思ったのである。ところが私たちは、国王に謁することができなかった。その上、国民はずいぶん前から、王に従わなくなっている由を聞いたので、私は国王に近づこうとするこれ以上の努力を中止し、国王から許可を得ることはあきらめた。…この地方には当時、新しい戦争が起こりかけていたので、私たちは、いまこの地方は聖教を受け入れる態勢になっていないと判断せざるを得なかった。/都はかつて大きな都会であったけれども、今日では打ち続いた戦乱の結果、その大部分が破壊されている。昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさからみて、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家がならんでいそうに思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである」応仁の乱以降も、京の荒廃と惨状は延々と続いている。また彼は比叡山に入ろうとしたが、献上品がないということで、入山もかなわなかった。ザビエルはフェルナンデスを従えて、御所の門前に二日か三日、立って懇願したが取り次いでもらえず、通りすがり町衆の嘲笑を得るだけであった。遠来の珍客ザビエルらの入洛は、本人の記載以外、日本国内のどの公家の日記にも記されていない<聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄>
1552年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1552年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳参、於孔雀間申之、曲舞三番了」<言継卿記>
1553年1月4日「千秋万さいまいりて。御さか月まいる」<御湯殿>
1553年1月5日「千秋万さゐまいる」<御湯殿>
1554年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿>御近所之声聞師の大黒五人が参る。曲舞は鞍馬常盤・吉盛・木曽願書<言継卿記>
1554年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時に参、今日者北畠声聞師也、但桜町参云々」今日は北畠声聞師の日で、但し桜町から来るという<言継卿記>
1554年1月7日「千秋萬歳両日分来之由候条、去年者祝言申度之由候間、申させ候処、言語道断見苦為躰曲事候之間、当年者是ヘ喚入間敷之由申出之処、彼等申にハ…」<證如上人日記>本願寺に千秋萬歳8人が訪れ、祝言ののち、久世舞を舞う<天文日記>
1554年1月18日「御三木ちや(左義長)、いつものことし、大こくはやしまいらする」<御湯殿>
1555年1月4日「大こく千秋万さいまいりて。いつものことく申」<御湯殿>禁裏に大黒が千秋萬歳に参り、孔雀間で行い曲舞も舞う<言継卿記>
1555年1月5日「きたはたけ千秋万歳まいりていつものことく申」<御湯殿><言継卿記>
1556年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1556年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1557年1月4日「千す万さいまいりて。いつものことく御さか月まいる」<御湯殿>
1557年1月5日「けふの千す万さいもいつものことし。ておのはしめいつものことし」<御湯殿>
1559年1月4日「せんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳を御近所の声聞師5人が旧儀に復し議定所の庭で行なう<言継卿記>
1559年1月5日「けふもせんすまんさい六人まいる」<御湯殿>禁裏に北畠声聞師6人が例年の如く来て、舞三、四番を舞う<言継卿記>
1559年1月7日 本願寺に千秋萬歳が来て、舞五番がある「千寿萬歳参候」<私心記>
1559年1月7日 本願寺に千寿萬歳8人が訪れ祝言の後、久世舞を舞う<天文日記>
1560年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に可参之由有之間、午時参内、大黒五人未刻参、於議定所御庭如例年申之」議定所の庭にて声聞師大黒5人の千秋萬歳が行なわれた<言継卿記>
1560年1月5日「きたはたけのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>北畠声聞師5人の千秋萬歳、後に曲舞も舞う<言継卿記>
1561年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>
1561年1月5日「さくらまちのせんすまんさい六人まいる」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1561年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、社中衆ばかりで陰陽沙汰は無いという<中臣祐金記>
1562年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。五人まいる」禁裏に大黒5人が来て千秋萬歳<御湯殿>
1562年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。五人」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1563年1月4日「千すまんさい大こく五人まいる。ゆきふりておそくまいる」降雪のため例年より遅い時間の参内<御湯殿>大黒の千秋萬歳が議定所の庭であり、後に曲舞二番(張良・大織冠)を舞う<言継卿記><惟房公記>
1563年1月5日「さくらまちのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じ、後に曲舞二番を舞う(浜出鳥・烏帽子折)<言継卿記><惟房公記>
1564年1月4日「千すまんさいまいりて。御さか月きちやう所にて一こんまいる」<御湯殿>禁裏で千秋萬歳、議定所で盃<言継卿記><惟房公記>
1564年1月5日「さくら町の千すまんさいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳五人参、如昨日於議定所有之」北畠[桜町?]の唱門師の千秋萬歳5人が議定所で行なわれる<言継卿記>「禁中千秋万歳参之、桜町唱門士云々」<惟房公記>
1565年1月4日「いつものことくせんすまんさいまいる。大こく五人まいりて。色々めてたき事申。はしめて御はいになる。いく久しくもとめてたしめてたし」 <御湯殿><言継卿記>
1565年1月5日「いつものことくせんすまんさいまいる。さくらまちのせんつまんさい五人まいりて。めてたき事とも色々申」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に未刻参内、自桜町参、根本北畠也、如例議定所御庭」桜町より参る、根本は北畠。議定所の庭で曲舞(張良・筥根脂・烏帽子折・秀平・浜出等)を舞う<言継卿記>
1566年1月4日 禁裏に近所の声聞師の千秋萬歳が参り、夕暮れに退出す<言継卿記>
1566年1月5日 禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じる<言継卿記>
1566年1月13日 春日社神主宅で千秋萬歳があるが、声聞師は不参する<中臣祐金記>
1567年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>大黒5人、禁裏の千秋萬歳に参る<言継卿記>
1567年1月5日「さくら町のせんすまんさいことしは四人まいる。いつも五人なり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳4人が議定所の庭で舞い、曲舞二番(烏帽子折・あつもり)も舞う。いつもは5人という<言継卿記>
1568年1月4日「大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」<御湯殿>禁裏で声聞師大黒5人の千秋萬歳。ついで曲舞の大織冠を舞う。また夷舁、参内して車寄で舞う<言継卿記>
1568年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。てうのはし【め】あり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳が議定所の庭であり、祝言の後に曲舞(和田酒盛・浜出)がある<言継卿記>
1568年1月18日「払焼御三毬打(さぎちょう)如例年、大黒以下声聞師各参囃之、雖大雪賤男女之見物群衆也」<言継卿記>
1569年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1569年1月5日「けふさくらまちのせんすまんさいまいらす。世のふつそうゆへなり」今日、桜町声聞師の千秋萬歳は世上物騒の故をもって参内せず<御湯殿>
1570年1月2日「大こくひさもんしん上申。こほし四郎二郎。くらう(九郎)二郎はうきしん上(箒進上)申。御庭はきそむる」大黒声聞師が参内して毘沙門経を申す。この日、小法師らも参内し箒を献上し、庭掃きに従事する<御湯殿>
1570年1月4日「千すまんさいいつものことく大こくまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時参内…近所声聞師大黒参、五人有之、於議定所御庭申之、如例、種々曲共舞等也」近所の声聞師大黒5人が参内し、議定所の庭で千秋萬歳を演ずる<言継卿記>
1570年1月5日「きたはたけのせんつまんさい三人まいる。色々めてたき御事申」北畠の千秋萬歳3人が色々のめでたきことを申す<御湯殿><言継卿記>
1571年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>禁裏で大黒の千秋萬歳、議定所の庭で演じる<言継卿記>
1571年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1572年1月2日 この日より5日にかけて、声聞師大黒が禁裏に参内して毘沙門経を読む<御湯殿>
1572年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1572年1月5日「きたはたけのせんす万さいまいる。三人まいる」北畠の千秋萬歳3人参る<御湯殿>
1573年1月2日 声聞師大黒、禁裏に参内して毘沙門経を進める<御湯殿>
1573年1月4日「千すまんさい六人まいる」<御湯殿>
1573年1月5日「千すまんさい四人まいる。てうのはしめあり」<御湯殿>
1575年1月4日「大こく六人まいる」<御湯殿>
1576年1月4日「せんしゆまんさい大こく五人まいる。まいあり」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り、曲舞も舞う<言継卿記>
1576年1月5日 桜町の千秋萬歳3人が参る<言継卿記>
1576年1月8日「従梅津千秋萬歳、昨日依雨儀今日来、十七八人有之」<言継卿記>梅津より千秋萬歳[18、9人]が山科言継邸に来る。梅津の地を知行するため来ると注される<言経卿記>
1577年1月4日「大こくせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>
1579年1月4日「大こく六人まいる。まいまう」<御湯殿>禁裏に大黒6人が参り、舞を舞う<言継卿記>
1579年1月5日「きたはたけのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>千秋萬歳3人が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1579年1月7日 梅津より千秋萬歳7人が山科言継邸に参り、例年のごとく舞う<言継卿記>
1580年1月4日「大こくせんすまんさい六人まいる。二條へもまいる」禁裏に大黒6人が参り、次に二条邸にも参る<御湯殿>
1580年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」桜町の千秋萬歳3人が参る<御湯殿>
1581年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。女院の御事にことしはつゝみなしにまいせらるゝ」禁裏に大黒が参る。先年女院死去のため、鼓無しに舞わせる<御湯殿>
1581年1月5日「雪ふる。きたはたけのせんすまんさいまいる。けふはしゆこうの御七日にてかへさるゝ」北畠の千秋萬歳が参るが、主公の御七日のため帰される<御湯殿>
1582年1月4日「たいこく五人まいりて。せんすまんさい申。御さか月は一こんまいる。ことしは雨ゆへくちやくのまにて申ほとに。大こくいてゝのち。いつものことくきちやう所にて御さか月一こんまいる。おとこたちもいつものことく御ゆとのゝうへにてめしいたしあり」禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り舞う。雨のため孔雀間で舞い、終わって例年のように議定所にて盃<御湯殿>「今日せんすうまんざいにしこう不申候」<晴豊記>
1582年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>
1582年6月2日 本能寺の変
1583年1月4日「せんすまんさい大こく六人まいる。いつものことくきちやう所にてまいまいらする」千秋萬歳大黒6人、例年の如く議定所の庭で舞々などを舞う<御湯殿>
1583年1月5日「はるゝ。ゆきふる。さくらまちのせんすまんさいまいりて。きちやう所にてまいまいらせ候」<御湯殿>
1585年1月5日 北野社に千秋萬歳が来て舞う<目代昭世引付>
1586年1月4日「はるゝ。大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」晴れ。禁裏の千秋萬歳に大黒が参り、例年のように議定所にて盃<御湯殿>
1586年1月5日 桜町の千秋萬歳11人が参る<御湯殿>
1587年1月4日「千す万さいきてう所の御庭にて申」<御湯殿>
1587年1月5日「桜町の千す万さいまいる。きてう所の御庭にて申」桜町の千秋萬歳が議定所の庭である<御湯殿>
1587年1月6日 千秋萬歳が北野社目代のもとを訪れる。いつもは5日<北野目代日記>
1588年1月4日「はるゝ。せんすまんさいまいる。みなみにて申」千秋萬歳が参り、南の庭で囃す<御湯殿>
1588年1月5日「はるゝ。さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみにて申」 桜町の千秋萬歳が南の庭で行われる<御湯殿>
1589年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみにてはやし申」<御湯殿>
1589年1月5日「櫻まちまいる。昨日のことくみなみにて申」<御湯殿>
1590年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみの御にわにてはやし申」<御湯殿>
1590年1月5日「さくらまちまいりて。せんすまんさい申。みなみの御庭にてきのふのことくはやしまいらする」<御湯殿>
1591年1月4日「雨ふる。はるゝ。せんすまんさいまいりて。いつものことくみなみの御にわにて申」<御湯殿>
1591年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみの御【にわ】にて申」<御湯殿>
1592年 壬申倭乱。秀吉の朝鮮侵略はじまる。
1594年3月12日 京都・堺・大坂の陰陽師、すなわち声聞師たち127人が尾張国に強制移住させられた。清須あたりの荒地開発に使役される。内訳は、京都109人ともっと多く、京の唱門師は壊滅的大打撃を受ける。その他、堺10人、大坂8人。奈良大和はなぜか徴発されていない。
1595年1月4日「けふのせんすまんさいはまいらす」今日の千秋萬歳は参らず<御湯殿>追放翌年の1595年正月、禁裏に千秋萬歳は不参。
 慶長17年(1612)1月5日の再開まで、内裏での千秋萬歳は中断してしまう。ほぼ20年ぶりのこの日、参内したのは桜町の声聞師であった。そして翌年正月15日、仙洞御所での三毬打(さぎちょう・左義長)に、大黒が久しぶりに参入し「音曲有り」。なお秀吉の死去は、1598年8月18日。
  
 最後に、ザビエルの遺志をついだイエズス会宣教師たちが、いまから四百年前に編纂した『日葡辞書』をみてみましょう。1603年に本編、翌年に補遺が足されて完成した「日本語・ポルトガル語辞典」。西欧人がはじめて作り上げた、本格的な日本語辞典です。
 この本で、「千秋萬歳」や「声聞師」をみますと、
<千秋>[センシュウ]
正月、あるいはその他の祝祭の折に、日本人が挨拶をかわすのに用いる語で、「何千年も生きなさい」と言うようなもの。(千秋は千の秋[千の年・歳])
<千秋萬歳>[センシュウバンゼイ]
 千の秋と万の年と。
 [注:万歳の読みは<バンゼイ>]
<万歳>[バンゼイ:読み注意]
多くの年。例、千秋萬歳[せんしゅうばんぜい]、または万年[ばんねん・まんねん]。永久に、長年の意。
<唱門師・声聞師>[ショウモンジ]
舞をする呪術師や占い師のような者で、祈祷や呪術などを行なう者。
<陰陽師>[ヲンヤゥジ]
占いをする者、または博士。呪術師、または占い師。

 豊臣秀吉による突然の声聞師(唱門師・芸能陰陽師・萬歳法師)たちの大受難。千秋萬歳が禁止された直後に編纂された『日葡辞書』です。そのような時期に編纂されたためか、残念ながらこの辞書には、門付千秋萬歳(せんしゅう・せんずまんざい)の記載はありません。

 なお年表作成のため参考にした書籍は、盛田嘉徳著『中世賎民と雑芸能の研究』(雄山閣出版)。それに世界人権問題研究センター編『散所・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)、渡辺昭五著『中近世浮浪芸の系譜』(岩田書院)、『御ゆとのゝ上の日記』など。これら資史料を加えて、年表を充実してみました。
 しかしいま、再度改訂したいと思っています。『看聞日記』と『言継卿記』など、該当部分の原文引用が必要だからです。さて、いつ実行しましょうか…。少し、悩んでいます。
<2009年10月11日 南浦邦仁>
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「千秋萬歳」中世史年表 新版 <前編>

2009-10-10 | Weblog
この年表は、新春の寿ぎ(ことほぎ)芸能である千秋萬歳(千寿・万財・万才・せんしゅう・せんずまんざい)関連の歴史年表です。「まんざい」であって、萬歳(ばんぜい・ばんざい)ではありません。またいくらか、萬歳以外でも関連する事項、散所民の萬歳法師である声聞師・唱門師(しょうもんじ)のことなども含んでいます。
 中世期、彼ら声聞師たちは正月早々、禁中や寺社権門に参入し、千秋萬歳を演じます。正月18日には声聞師の大黒などは、火祭りの左義長・三毬打(さぎちょう)で、拍子をとって囃しました。左義長は民間では、小正月の火祭り「とんど」「どんど」などとよぶ恒例だった行事です。
 また声聞師たちは、猿楽・舞々などの芸能をいつも演じています。そして九月九日の重陽「菊の節句」前日、毎年のように声聞師大黒は禁裏に参内し、菊を植えています。
 しかし左義長や菊のことなどは、新春の千秋萬歳とは直接のつながりがありません。一部を記しましたが、原則として略しました。なお<御湯殿>は宮中女官公務日記<御ゆとのゝ上の日記>の略記です。
 ところでこの年表は、校正が十分ではありません。これから少しずつ修正追加していきますが、間違いに気づかれた方がありましたら、ぜひご指摘ください。
続編「近世史年表」もいつかは作りたいものですが、かなりの労力がいりそうです。もう尻込みをしております。
 なおこの稿、再改定「新版」は長文のため、ブログの字数制限をこえてしまいました。前編後編にわけて掲載します。前編は10月10日、後編は10月11日付けです。

11世紀はじめ「千秋萬歳之酒祷(さかほがい)」旨い酒が醸造なるように、という呪言・予祝という<新猿楽記>
11世紀末「千秋萬歳をもちてはやらせて」<古今著聞集>
1149年 醍醐寺領近江国柏原庄の桶餅修正会料支配に、千秋萬歳料がみえる<醍醐雑事記>
1165年 千秋萬歳とは、正月の子の日に、寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの<古今著聞集>
1186年以前 「此ノ子(ね)ノ日ト卯(う)ノ日トノ、正月七日内ニ出来レル時、千秋万才ト云物ハスルナリ。二カ中ニ一アレハス。二日乍ラモ有レハニ度スルナリ。装束ハ錦ノ帽子ニ、ヲリモノ、キウタイ(裘袋)、綾ノサシヌキ(指貫)、花節ノワラフカクツ(藁深沓)ハイテ、左手ニソテマクヒニ、ウツヱ(卯杖)カ子ノ日ノ松カマトイテ(纏いて)、右手ニヒアフキ(檜扇)ヲ二間許開テ、口ヲオシイテ、二人ノ事トリ[ふたりの米穀金銭授受の雑用係]、三人フクロ(袋)持チシテ[賜物を入れる袋持ちが三人]、スルナリ。此ハ乞食法師ノスル事也。正月七日ノ子ノ日ナルニ、シアワセ(幸福)タルヲ以テ、美キ事ニスル也。」乞食法師のすることとして、千秋萬歳の風俗が記される。小松は「正月ノ七日ノ内ニ来レル子ノ日、東山ニ出テ、長三寸生出タル小松ヲ根引ニ根引テ…」<知恩院本・倭漢朗詠注上>
13世紀はじめ 千秋萬歳始事に「ぶんふうぜい」なる者の創始とし「錦の帽子をきたりけり。始は代を祝ひ、次に君の御所を祝ひ」<参語集>
1204年1月3日 千秋萬歳、禁中に参入する<明月記>
1211年1月1日「千秋萬歳法師原等有御覧」後鳥羽院がみる<猪隈関白記>
1213年1月3日 前内府の邸を「千壽萬歳入興之間也」<明月記>
1219年「錦ノボウシ(帽子)キタルモノ、手ヲムナシクシテアユミキケレバ、人々千秋萬歳ノイルハ、何事ゾトワラヒケリ」錦の帽子をかぶった鷹飼が、禁裏の門を鷹も連れずにくぐるのをみて、帽子が千秋萬歳とそっくりだと殿上人たちが大笑いした。両人の綿帽子はよく似ていた<続古事談>
1220年11月16日 豊明節会に貴族たちが遊びのひとつとして、宴席で千秋萬歳などの物真似をして楽しんだ<明月記>
1225年1月3日 藤原定家の邸宅を「臨昏千壽萬歳来」<明月記>
1233年1月1日「万福弥富、毎年幸甚々々、(略)院千秋萬歳御覧」<経光卿記>
1233年1月1日 千秋萬歳が北白川院(藤原陳子)に参入<民経記>
1241年1月9日「千秋萬歳参入、下賜帋立菓子十合了」<勝延法眼記>
1241年1月10日「今日千秋萬歳、小松法師参入盡曲、帋立菓子十合、酒肴一具下給之了」<勝延法眼記>
1246年1月10日 宣陽門院・鷹司院、「千秋萬歳法師等有御覧、毎年正月子日如此、昏黒退出」千秋萬歳を行なう日は、必ずしも子の日にこだわらず、卯の日のことも忘れられたか<岡屋関白記>
1247年1月1日 後嵯峨院御所に「千秋萬歳群参」<葉黄記>
1254年「侍を御かんどう(勘当)有けるには、千秋萬歳、その侍をまはせ(舞わせ)られけり」<古今著聞集>
1263年1月9日 醍醐寺三宝院に千秋萬歳が伺候して祝言を申す<後七日雑記>
1275年 千秋萬歳とは、正月子の日に散所の乞食法師が仙人の装束をまねて、小松を持って家々を訪れ、様々な祝言をいって、禄物にあずかると記す。「千秋萬歳トテ、コノゴロ正月ニハ、散所ノ乞食法師ガ仙人ノ装束ヲマナビテ、小松ヲ手ニサヽゲテ推参シテ、様々ノ祝言ヲイヒツヾケテ、録物ニアズカルモ、コノハツ日ノイハヒ(祝)ナリ」小松は門松と同じく年のあらたまりに来訪する歳神の依代で、萬歳法師は歳神の神格を負って、各戸を祝って門付けたのであろう<名語記>
1280年1月9日「見物千秋萬歳、非無其興、少時帰畢」<勘仲記>
1287年ころ 千秋萬歳と鷹司の帽子の違いについて述べている「大様ハ鷹カヒ(鷹飼)ノ帽子ニタガハズ」<塵袋>
1289年1月1日「院御薬儀平宰相奉行、公卿儀同三司以下参仕云々、千秋萬歳【並】新院御薬吉田中納言奉行」<勘仲記>
1289年1月8日「千秋萬歳法師参入、叡覧之程也」<勘仲記>
1301年1月1日「千秋萬歳参、十二段了、萬歳退出」<実任卿記>千秋萬歳が仙洞御所に参内し、十二段を演じる<継塵記>
1301年1月5日「今日千秋萬歳、被急之故也…猿楽三番了」<実任卿記>千秋萬歳が禁裏にて猿楽三番と手鞠・振劒を演じた。千秋萬歳、小御所前庭で猿楽を行なう<継塵記>
1318年3月29日 後醍醐天皇が即位。
1319年1月1日「千秋萬歳法師参入、乱舞了退出」<花園天皇宸記>
1319年1月13日「千秋萬歳法師参入、猿楽三番了」<花園院御記>
1319年1月13日 千秋萬歳、御所で猿楽を演じる<花園天皇宸記>
1321年1月3日 東大寺の神輿が入洛したため、千秋萬歳の参内を中止する<花園天皇宸記>
1324年1月12日 御後見の千秋萬歳が、奈良興福寺・大乗院を訪れる<内山御所毎日抄>
1324年1月15日「千秋萬歳法師参入、散楽如例」<花園院御記>
1324年1月15日 千秋萬歳、御所に参入<花園天皇宸記>
1334年 後醍醐天皇による建武新政。
1337年1月12日 醍醐寺座主坊に千秋萬歳が来る<建武四年後七日御修法記>
1338年8月 北朝は足利尊氏を征夷大将軍に任ずる。室町時代。
1347年1月1日「千秋萬歳法師祝言等如例可有之云々」<園太暦>
1369年11月11日「於毘沙門堂北畠、為京極三位行光卿下人被殺害了」北畠の声聞師が京極行光の下人によって殺害された<後愚昧記>
1385年1月13日「千秋萬歳法師等、神主館ニ【 】、祝等致沙汰【 】下行物等事」千秋萬歳が春日神社神主館を訪れる<至徳二年記>
1402年1月4日「四十文 正月四日千寿萬歳さかて/五十文[日同]千寿萬歳豆代/二十文 千寿萬歳白米代」<備中国新見荘領家方所下帳>
1416年1月11日 伏見殿に京の松拍(まつばやし)が参入し、猿楽等を行なう<看聞日記>
1418年1月4日「千寿万財参祝言申、賜酒肴如例」<看聞日記>
1419年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す「賜禄如例」<看聞日記>
1419年1月11日「松拍参[柳原【及?】犬若]、猿楽種々施芸、禄物捶等賜之、当座飲之、乱舞了退出」<看聞日記>
1420年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1421年1月4日 伏見殿に「千寿万財参如例」<看聞日記>
1422年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入する<看聞日記>
1423年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1423年1月11日 院が御悩のため、伏見殿では歌舞を止め松拍も不参<看聞日記>
1423年1月17日 京松拍が柳原から来るも追い返す<看聞日記>
1423年1月23日 院本復のため、柳原より京松拍が参入し猿楽等の芸をなす<看聞日記>
1424年1月5日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1425年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入<看聞日記>
1425年1月11日 伏見殿に京松拍が参り、猿楽を行なう<看聞日記>
1428年1月4日 散所の小犬が仙洞御所に参入し、散楽を演じる<建内記>
1431年1月2日 将軍邸において観世、松拍・猿楽を催す<満済准后日記>
1431年1月11日 将軍邸において観世、松拍・猿楽を再度催す。以前は声聞師がつとめたが、推参を止められたという<満済准后日記>
1431年1月11日「北畠松拍参、次柳原松拍[初参]、各賜禄」伏見殿に北畠、そして初めて柳原の松拍が参入し、祝言を申す。おのおの禄を賜る<看聞日記>
1431年1月13日「千寿万財、号サルラウト、自公方可参之由、以大河内被仰云々、初参不審也、不及追出、施芸、禄事勧修寺ニ仰付」千寿万財サルラウ参入し芸をなす。また松拍小犬参入し、猿楽、手毬等殊勝の芸をなす<看聞日記>
1432年1月4日「当所[伏見]之千寿万財参祝言申。如例」<看聞日記>
1432年1月5日 伏見殿に千寿万財サルラウが参入し芸を催す<看聞日記>
1433年1月4日「地下之千寿万財参、如例」<看聞日記>
1433年1月11日 伏見殿に北畠松拍が参入して猿楽を演じる<看聞日記>
1433年1月12日 伏見殿に松拍小犬等も参入して猿楽をなす<看聞日記>
1433年1月27日 伏見殿に柳原松拍が来るも、留守のため追い出される<看聞日記>
1433年1月29日 先日追い出された蝶阿子孫が来て、猿楽五番をおこなう<看聞日記>
1434年1月4日「千寿万財参。給禄如例」<看聞日記> 
1434年1月6日「松拍[蝶阿、末村]参、追出、依諒闇、禁中ニも不被入、仍追出了」伏見殿に蝶阿末村が来るも追い出される<看聞日記>
1434年1月11日「千寿万財[サルラウ]参、追出、北畠松拍参、同追出。禁中不被入仍斟酌頻歎申…」千寿万財サルラウ・北畠松拍が追い帰される<看聞日記>
1434年1月19日「千寿万財さるらふ参、留守之由仰、追出」<看聞日記>
1434年1月20日「千寿万財さるらふ参祝言申、禄物如例」禄物を与えられる<看聞日記>
1435年1月4日「千寿万財参、歌舞賜禄如例」<看聞日記>
1435年1月11日 伏見殿に千寿万歳猿らうと北畠松拍が参入し、芸能を催す<看聞日記>
1436年1月2日 伏見殿に北畠の松拍が祝言を申す<看聞日記> 
1436年1月5日 千寿万財「サルラウ」が訪れ祝言を申す<看聞日記>
1436年1月7日 千寿萬財が訪れる「給太刀」<看聞日記>
1436年1月8日「千寿万財[予召仕者也]、太刀酒肴等給」伏見殿に仕える千寿万財が参り芸をなす。松拍蝶阿党も参るが、公方の許容がないため追い出される<看聞日記>
1436年1月13日 柳原の松拍小犬が参入し、猿楽七番を演じる<看聞日記>
1436年1月18日 内裏の三【求】(手偏に求)杖に、柳原の松拍が参じて拍す<看聞日記>
1436年6月14日 祇園会に北畠の「笠鷺鉾」が伏見殿に参入し、多くの見物衆を前にして屏中門で鵲舞を舞った。練貫一、太刀一を下賜された。以降もこの鉾は祇園会に練る<看聞日記>
1437年1月4日 柳原の松拍小犬、室町殿に参じ、足利義教の機嫌悪きにより追い出され、門番衆に打擲される<看聞日記>
1437年1月4日より1443年1月5日まで、「市」と称する千秋萬歳が毎年正月に伏見宮に参上<看聞日記>
1437年1月4日 伏見殿に松拍蝶阿党が参じるも、追い出される<看聞日記>
1437年1月6日 伏見殿に松拍蝶阿党が参り舞うも、「散々下手」の評価を与えられる<看聞日記>
1437年1月20日 声聞師の小犬が三[求]杖の拍をなす<看聞日記>
1438年1月6日 千寿万財市、伏見殿に参入「施芸給禄。折紙如例」<看聞日記>
1438年1月7日 松拍蝶阿が伏見殿に参るも追い返された<看聞日記>
1441年1月5日「千寿万財市参。祝言申。賜禄如例」<看聞日記>
1443年1月5日 伏見殿・内裏に千寿万財の市が参入<看聞日記>
1443年1月14日 松拍小犬等、参入について、公方の許可がないことにより議論となる<看聞日記>
1447年1月2日「一種乞食革歳首、到人家歌祝言、世号之千秋萬歳、前后相逐来、各与百銭」相國寺の僧瑞渓周鳳は、千秋萬歳を評して「一種乞食之輩」<臥雲日件禄>
1447年1月18日「禁裏【 】三毬打…今夜、北畠散所参入皷舞如例[中権喝食、見物之]、伏見宮三毬打、岩上散所皷舞云々」<建内記>
1467年1月18日 応仁・文明の大乱(~1477)。戦闘の開始は御霊林の戦いで、まず御霊社(現在の上御霊神社)鳥居脇の唱門師村が放火される<応仁記>
1471年1月2日「千秋萬歳来、給飯等了」<経覚私要鈔>
1472年1月5日「布施舞々四人来、千秋萬歳後ナリ、振舞之、給酒」布施の舞々四人、大和の大乗院を訪れ、千秋萬歳の後ナリ<経覚私要鈔>
1472年「千秋萬歳といひて逸興を催すことあるは、これら(宮中で新春を祝う)踏歌の余風なり」<花鳥余情>
1473年1月5日「布施舞々四人来、千秋萬歳後ナリ、振舞之、給酒、途一連遣畢」<経覚私要抄>
1475年1月4日 禁裏で応仁の乱後、はじめて千秋萬歳がある<続史愚抄>< 親長>
1475年1月12日「千秋萬歳、鶴亀等於庭上舞、催其興者也」禁裏で千秋萬歳があり、鶴亀等を舞う<実隆公記>
1477年1月10日「千しゆう萬せゐめてたし」千秋萬ぜい、目出度し。これはバンゼイであって、マンザイではありません<御湯殿>
1477年1月12日 禁裏で千秋萬歳があり、鶴亀等を舞う<実隆公記>
1477年5月13日 声聞師が沙汰するものとして「陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸経・毘沙門経」<大乗院寺社雑事記>
1477年「千秋萬歳など云は、男踏歌の余風なり、後嵯峨院の御時にもはやりし事也」<源語秘訣>
1478年1月4日「大こくかたう(大黒の党)、千しゆ万さゐ申」声聞師、大黒党が禁裏で千秋萬歳を催す<御湯殿>
1481年1月1日 散所熊、毘沙門経を読む<山科家礼記>
1481年1月4日「大こく千しゆ万さゐ申」大黒、千秋萬歳申<御湯殿>
1481年1月4日「今日千秋萬歳男参入了、有興、及黄昏退」声聞師大黒、禁裏で千秋萬歳を催す<実隆公記>
1481年1月8日「千しゆ万せいあり。色々の事まゐおとり(舞い踊り)申」バンゼイか?<御湯殿>。声聞師大黒、禁裏で舞う<実隆公記>
1481年1月15日「千しゆ万さいまいりてくせまゐ(曲舞)を申」<御湯殿>千秋萬歳が禁裏にて曲舞(くせまい)を演じる<実隆公記>
1481年1月17日「千秋まんせいめてたし」千秋萬歳目出度し。[マンゼイ]の用法。バンゼイの変?<御湯殿>
1482年1月4日 「大こくかたうせんしゆ万さい申」大黒の党、内裏にて千秋萬歳を演じる<御湯殿>
1482年1月6日「北はたけかたう(北畠の党)とて千しゆ万さゐ申」北畠党が千秋萬歳<御湯殿>
1482年1月9日 禁裏に幼き曲舞が来て舞う<御湯殿>
1483年1月4日 「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1483年1月15日「千しゆ万さゐ申」<御湯殿> 
1485年1月4日「千しゆ万さいまいる。御かゝりにてまはせ(舞わせ)らるゝ」禁裏に千秋萬歳が参り、御かゝりで舞わせる<御湯殿>
1485年1月6日「千しゆ万さいまはせらるゝ」<御湯殿>
1485年1月19日「わかしゆ(若衆)なとつれて(連れて)まいりてくせまひ(曲舞)あり。御ひしひしと千秋万せいめでたし」注[万せい]<御湯殿>
1486年1月4日 「ひる大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で昼に、大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1486年1月6日「無殊事、千秋萬歳来」中院通秀邸に千秋萬歳が参入し、芸をなす<十輪院内府記>
1486年1月8日「いつもまいるとて。きたはたけ(北畠)のせんすまいさいとてまう」禁裏で北畠の千秋萬歳が舞う<御湯殿>
1487年1月2日「千しゆ万さゐまいる。色々の事ともしほしほしう申て、わさわさときこしめす。めてたし」<御湯殿>
1487年1月2日「北畠千秋萬歳如旧例」相國寺蔭凉軒で北畠の千秋萬歳が例の如くある<蔭凉軒日録>
1487年1月4日 河原者・散所者ら正月に近衛家に参賀し、種々の礼物を進上する<雑事要録>
1488年1月2日「今晨北畠千秋萬歳入道来、作祝舞」相國寺蔭凉軒に、北畠の千秋萬歳入道が来て祝舞を舞う<蔭凉軒日録>
1488年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申。うたゐまいなと色々申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1488年1月4日 河原五郎・散所者、近衛家に参賀して種々の品を進上し、銭・扇等を与えられ、また千秋萬歳も扇を与えられる<雑事要録>
1488年1月7日「北はたけかたう千しゆ万さゐ申。ちこ(稚児)つれてくせまゐ(曲舞)まふ」北畠党も千秋萬歳、稚児を連れ曲舞も舞う<御湯殿>
1488年1月15日「千しゆ万さゐまふ。いたくおもしろからぬによりはやくはつる」禁裏で千秋萬歳、面白くなく早く終わる<御湯殿>
1489年1月2日 相國寺蔭凉軒で千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。入道は御陣へ参じたためか不参。北畠入道は足利義尚の六角高頼討伐に従って陣所まで出向いていたための留守であったようだ<蔭凉軒日録>
1490年1月2日「千秋萬歳如旧例作祝舞、入道舞如先規」相國寺蔭凉軒に亀太夫が来て歌を唱い舞を舞う。ついで千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。入道舞も先規のごとく行なわれる<蔭凉軒日録>
1490年1月3日「如恒例千秋萬歳来、於廣庭舞之、春松丸出之、引出物太刀一腰、(金)、弐十疋、壇帋二帖八本、扇一本遣之、珍重々々」<松梅院禅予日記抄>
1490年1月3日 恒例の千秋萬歳、北野松梅院の広庭で舞う<北野社家日記>
1490年1月4日 石籠大工の十座物、毘沙門経を大乗院に持参し、紙一帖と酒を給される<大乗院>
1490年1月9日 足利義政没し、天下蝕穢となり、三毬打(さぎちょう)が禁じられ、神事行なわれず<北野社家日記>
1491年1月2日 相國寺蔭凉軒で千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。先規の如く入道も舞う<蔭凉軒日録>
1491年1月3日 恒例の千秋萬歳が北野社松梅院で祝言・歌舞する<北野社家日記>
1491年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申。いろいろのまゐとも申」禁裏で大黒党が千秋萬歳と種々の舞を舞う<御湯殿>
1491年1月4日 十座の明寛、大乗院に毘沙門経を持参し、紙一帖と酒を給される<大乗院><政覚大僧正記>
1491年1月6日「北はたけの千しゆ万さゐまわせらるる。なかにし六らう御れゐ申。御かゝりにて御てうしいてゝ、めんふたつたふ。かしこまり申。かめ千代御れゐ申」<御湯殿>
1491年1月18日「こよひ(今宵)の三木ちやう(さぎちょう)ことしもふきはやしなくて。大こくたきまいらする」<御湯殿>
1492年1月2日「千秋萬歳年々嘉例也、祝物如先規」相國寺蔭凉軒で千秋萬歳、年々の嘉例。祝物も先規の如し<蔭凉軒日録>
1492年1月3日「千秋萬歳来、如例成祝言歌舞、録物弐十疋、扇一本、帋二帖、太刀(金)出之、近年如此沙汰也」北野松梅院に千秋萬歳が来て、例年のように祝言歌舞をなす<松梅院禅予日記抄>
1492年1月3日「大こく【かたう】けふまいる(今日参る)。いろいろの事とも申」<御湯殿>禁裏に大黒が参入して、色々の事を申す<続史愚抄>
1492年1月5日「やなき【はらか】たうとて千しゆ万せゐ申」[万せゐ]表示<御湯殿>柳原の散所法師・柳原党が参内して禁裏にて千秋萬歳<続史愚抄>
1492年1月17日「御ひしひしとありて千しゆう万せゐめてたしめてたし」[バンゼイ]用法<御湯殿>
1492年1月18日「三木ちやういつものことし。かも(賀茂)よりもまいる。大こくかたうはやす」大黒の党が囃す<御湯殿>
1493年1月2日 相國寺蔭凉軒に千秋萬歳が来て、雲頂院意足軒において祝舞を旧例のように舞う<蔭凉軒日録>
1493年1月4日 「たいこくかたう千しゆう万せい申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1493年1月5日 夜に北野社法花堂で曲舞<北野社家日記>
1493年1月9日「きたはたけかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で北畠党が千秋萬歳<御湯殿>
1494年1月3日 北野社松梅院で恒例の千秋萬歳が歌舞を行なう<北野社家日記>
1494年1月4日 「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1495年1月4日「大こく千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1495年1月8日「せんつ万さゐまいる」<御湯殿>
1496年1月4日「せんすまんさいまいる」禁裏に千秋(せんす)萬歳が参る<御湯殿>
1496年1月6日「北はたけの千すまんさいまわせらるる」禁裏で北畠の千秋(千す)萬歳<御湯殿>
1496年1月18日「御三木ちやういつものことし(如し)。大こくはやしまいらする」<御湯殿>
1496年 蓮如・石山道場(本願寺)建立
1497年1月4日「千しゆ万さいあり」禁裏で千秋(千しゆ)萬歳<御湯殿>
1497年1月5日「けふも北はたけの千しゆ万さいあり」今日も北畠の千秋(千しゆ)萬歳<御湯殿>
1497年1月13日「今日、神主館千寿萬歳有之、如先々」<明応六年記>
1498年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1498年1月7日「北はたけ千しゆ万せい申」北畠の千秋萬歳(せんしゆばんぜい)<御湯殿>
1499年1月4日「大こく【か】たう千しゆ万さい申…大こく千すまんさい」禁裏で大黒の党が千秋(しゅう・せんず)萬歳を申す<御湯殿>
15世紀末 『三十二番職人歌合』に、千秋萬歳法師は素袍(すおう)を着て帽子を被ったシテ(太夫)は扇を手に。風折烏帽子(かざおりえぼし)を被ったワキ(才蔵)の打つ鼓にあわせて舞い、双方が掛け合いで祝言を述べた。
15世紀末 「せんずまんざいといふは。何のおこりにてはべるらん。[答]むかしは男踏歌とて。京中の男女、声よきをつどへて。だいり(内裏)にて。祝詞をうたひて舞せられし也」<世諺問答>
<2009年10月10日 南浦邦仁>
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