GHQ最高司令官のマッカーサーを支えた幕僚は数多いが、なかでもふたりの将軍が特筆されます。日本の民主改革を推進したニューディール政策派、民政局GSのホイットニー准将。もうひとりは参謀第2部G2、反共のウィロビー少将です。
ウィロビーとマッカーサーが行動をともにした期間は実に長い。太平洋戦争のはじまる1941年に、ウィロビーはマッカーサー将軍の情報参謀として配属されました。その後、マックの「I shall return.」の言葉とともにオーストラリアに脱出し、激しい反撃でついにフィリピン奪還。1945年8月30日、バターン号で厚木に到着しました。そしてGHQでは剛腕を恐れられ、朝鮮戦争にいたるまでの10年間、ふたりは常に行動をともにしました。
『ウィロビー回顧録』から、厚木飛行場に到着したときの模様を追ってみます。
正式な降伏の日、9月2日が近づくにつれて、占領軍の先遣隊を輸送するためすべての空輸機関が沖縄に集められた。
マッカーサーは自ら敵地に乗り込むことに決定した。それは大きな、だが計算された軍事上のバクチだった。米軍は相手側が何千人というのに、こちら側は一人という、つまり千対一の劣勢で敵地に進駐しようとしていたものである。相手は多数の兵士がまだ完全武装で待ち構える“敵国”であり、関東平野には日本軍二十二個師団、三十万人以上の優秀な戦闘部隊がいる。そのただなかにマッカーサーは丸腰で、しかもひと握りの部下以外にはろくな護衛もなしに飛び込もうというのである。
米軍が実際に到着する前の数日間、日本軍の間では降伏に反対する勢力と、賛成する勢力との間に、武力衝突が何回か起きていた。東京に司令部を置く近衛師団の兵士たちが皇居を占拠し、これを孤立せしめて、天皇の降伏詔書が放送されるのを妨害しようとしたのである。暴動は未遂に終わり、幾人かの反乱参加者たちは自殺したが、それでも首相官邸および枢密院議長の公邸は襲撃されてしまった。
マッカーサーの乗るバターン号の着陸地である厚木飛行場もまた、五日間というもの無秩序状態に置かれていた。その間、カミカゼ飛行士たちは天皇の重臣たちを非難するチラシを東京中にばらまいた。隊員や住民たちは、戦争に負けたことは仕方ないにしても、米軍を迎える準備に励むとは何事かという気持ちだったらしい。反乱集団が鎮圧され、すべてが平穏になったかにみえたのは、米先遣隊が厚木に到着するわずか二日前だったのである。
米軍の第一陣が厚木に到着したのは八月二十八日だったが、実際には八月二十五日から偵察機を飛ばしていた。この第一陣の先遣隊長テンチ大佐に、マッカーサーは「日本人とのトラブルは極力避けるように」と命令してあった。
その日、八月二十八日――まもなく第一八空輸部隊が送り込むであろう大変な数の四発輸送機の到着準備のため、まず通信係と技師たちの小規模な分遣隊が飛行場に降り立った。次いでガソリンおよび重油を積んだ三十八機の輸送機が着陸した。
そしていよいよ本格的空輸作戦が開始された。作戦は八月三十日の夜明けとともに一日中続けられた。米機は三分おきに沖縄を飛び立って厚木に向かい、暗くなるまでに四千二百名の兵士を厚木に吐き出した。アイケルバーガー将軍も現場の直接指揮を執り、マッカーサー司令官の到着を準備するため、この日の早朝、敵地・厚木に飛んだ。結局、三十日には第一〇空挺師団長スウィング少将、アイケルバーガー中将、最後にマッカーサー元帥の順で日本の地を踏んだのである。
八月三十日早朝、マッカーサーは厚木に向かってマニラを出発した(注:正確には8月28日にマニラを出発し、29日は沖縄に一泊。30日朝に沖縄を出発した)。……
午後二時、鼻面に「バターン」と書かれた、あの有名なマッカーサー専用機が厚木上空に姿を現し、旋回を始めた。富士山が見えた。鎌倉の青銅の大仏が見えた。富士は美しかった。とりわけ戦勝側の最高司令官として敵地に乗り込むマッカーサーの目には、眼下の富士は征服された日本を象徴しているかのように映ったであろう。……
マッカーサーがバターン号のドアから姿を現すと、第一一空輸部隊の軍楽隊が勇壮な音楽を奏で始めた。襟の開いたシャツを着て、トウモロコシの穂軸で作った例のコーン・パイプをふかしながら、ゆっくりと地上に降り立った。迎えのアイケルバーガー中将が近寄ると、マッカーサーは微笑を浮かべていった。
「メルボルンから東京までは長い長い道程だったが、これでどうやら旅も終わりらしい。ボブ、これがクライマックスさ」
マッカーサーの乗った飛行機が厚木に到着したとき、全世界は息をこらしていた。だが、マッカーサーは東洋を完全に理解していた。四十年にわたる外地勤務のせいで、彼は極東の事情に通じていたのである。しかも特筆すべきは、彼が統治することになったこの日本について、詳しかったのである。……
のちにイギリス首相チャーチルは、オードリッチ駐英大使に、こう語っている。
「戦時中におけるすべての驚嘆に値する行為のうちでも、私はマッカーサーの厚木到着を最高のものだと思っている」
○参考書 C.A.ウィロビー著『GHQ知られざる諜報戦――新版 ウィロビー回顧録』2011年 山川出版社 ※この本に掲載された写真をみても、厚木に到着したバターン号の向こうには兵舎あるいは格納庫が並び、宝島社広告のような広漠とした草原はありません。
<2011年1月17日>
ウィロビーとマッカーサーが行動をともにした期間は実に長い。太平洋戦争のはじまる1941年に、ウィロビーはマッカーサー将軍の情報参謀として配属されました。その後、マックの「I shall return.」の言葉とともにオーストラリアに脱出し、激しい反撃でついにフィリピン奪還。1945年8月30日、バターン号で厚木に到着しました。そしてGHQでは剛腕を恐れられ、朝鮮戦争にいたるまでの10年間、ふたりは常に行動をともにしました。
『ウィロビー回顧録』から、厚木飛行場に到着したときの模様を追ってみます。
正式な降伏の日、9月2日が近づくにつれて、占領軍の先遣隊を輸送するためすべての空輸機関が沖縄に集められた。
マッカーサーは自ら敵地に乗り込むことに決定した。それは大きな、だが計算された軍事上のバクチだった。米軍は相手側が何千人というのに、こちら側は一人という、つまり千対一の劣勢で敵地に進駐しようとしていたものである。相手は多数の兵士がまだ完全武装で待ち構える“敵国”であり、関東平野には日本軍二十二個師団、三十万人以上の優秀な戦闘部隊がいる。そのただなかにマッカーサーは丸腰で、しかもひと握りの部下以外にはろくな護衛もなしに飛び込もうというのである。
米軍が実際に到着する前の数日間、日本軍の間では降伏に反対する勢力と、賛成する勢力との間に、武力衝突が何回か起きていた。東京に司令部を置く近衛師団の兵士たちが皇居を占拠し、これを孤立せしめて、天皇の降伏詔書が放送されるのを妨害しようとしたのである。暴動は未遂に終わり、幾人かの反乱参加者たちは自殺したが、それでも首相官邸および枢密院議長の公邸は襲撃されてしまった。
マッカーサーの乗るバターン号の着陸地である厚木飛行場もまた、五日間というもの無秩序状態に置かれていた。その間、カミカゼ飛行士たちは天皇の重臣たちを非難するチラシを東京中にばらまいた。隊員や住民たちは、戦争に負けたことは仕方ないにしても、米軍を迎える準備に励むとは何事かという気持ちだったらしい。反乱集団が鎮圧され、すべてが平穏になったかにみえたのは、米先遣隊が厚木に到着するわずか二日前だったのである。
米軍の第一陣が厚木に到着したのは八月二十八日だったが、実際には八月二十五日から偵察機を飛ばしていた。この第一陣の先遣隊長テンチ大佐に、マッカーサーは「日本人とのトラブルは極力避けるように」と命令してあった。
その日、八月二十八日――まもなく第一八空輸部隊が送り込むであろう大変な数の四発輸送機の到着準備のため、まず通信係と技師たちの小規模な分遣隊が飛行場に降り立った。次いでガソリンおよび重油を積んだ三十八機の輸送機が着陸した。
そしていよいよ本格的空輸作戦が開始された。作戦は八月三十日の夜明けとともに一日中続けられた。米機は三分おきに沖縄を飛び立って厚木に向かい、暗くなるまでに四千二百名の兵士を厚木に吐き出した。アイケルバーガー将軍も現場の直接指揮を執り、マッカーサー司令官の到着を準備するため、この日の早朝、敵地・厚木に飛んだ。結局、三十日には第一〇空挺師団長スウィング少将、アイケルバーガー中将、最後にマッカーサー元帥の順で日本の地を踏んだのである。
八月三十日早朝、マッカーサーは厚木に向かってマニラを出発した(注:正確には8月28日にマニラを出発し、29日は沖縄に一泊。30日朝に沖縄を出発した)。……
午後二時、鼻面に「バターン」と書かれた、あの有名なマッカーサー専用機が厚木上空に姿を現し、旋回を始めた。富士山が見えた。鎌倉の青銅の大仏が見えた。富士は美しかった。とりわけ戦勝側の最高司令官として敵地に乗り込むマッカーサーの目には、眼下の富士は征服された日本を象徴しているかのように映ったであろう。……
マッカーサーがバターン号のドアから姿を現すと、第一一空輸部隊の軍楽隊が勇壮な音楽を奏で始めた。襟の開いたシャツを着て、トウモロコシの穂軸で作った例のコーン・パイプをふかしながら、ゆっくりと地上に降り立った。迎えのアイケルバーガー中将が近寄ると、マッカーサーは微笑を浮かべていった。
「メルボルンから東京までは長い長い道程だったが、これでどうやら旅も終わりらしい。ボブ、これがクライマックスさ」
マッカーサーの乗った飛行機が厚木に到着したとき、全世界は息をこらしていた。だが、マッカーサーは東洋を完全に理解していた。四十年にわたる外地勤務のせいで、彼は極東の事情に通じていたのである。しかも特筆すべきは、彼が統治することになったこの日本について、詳しかったのである。……
のちにイギリス首相チャーチルは、オードリッチ駐英大使に、こう語っている。
「戦時中におけるすべての驚嘆に値する行為のうちでも、私はマッカーサーの厚木到着を最高のものだと思っている」
○参考書 C.A.ウィロビー著『GHQ知られざる諜報戦――新版 ウィロビー回顧録』2011年 山川出版社 ※この本に掲載された写真をみても、厚木に到着したバターン号の向こうには兵舎あるいは格納庫が並び、宝島社広告のような広漠とした草原はありません。
<2011年1月17日>