ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

元祖「天狗」は隕石だった?!(1)

2014-06-05 | Weblog
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 わたしは天狗談話を寄稿しました。数回に分けてこの欄に転載します。キンドルやマガストアでぜひ購読ください。良記事満載です。

<変遷する天狗像>
 天狗の姿をイメージすると、現代日本人ならほぼ全員が、鼻が高い赤面テングを思い浮かべることでしょう。修験道の山伏姿で手にはヤツデか羽団扇。これが典型的な天狗の姿でしょうが、「天狗の鼻は高い」とされたのは江戸時代になってから。せいぜい400年ほどの歴史しかありません。しかし日本天狗の歴史はほぼ1400年間にも及ぶのです。

 日本天狗の変遷史をみると、最初の登場は西暦637年、『日本書紀』の記述が初出です。これは追って紹介します。
 不思議なことにその後400年間ほど、日本史に天狗の記述は見えません。奈良時代と平安時代前半期には天狗が登場しないのです。やっと10世紀末成立の『宇津保物語』に、天狗は「深山に響き渡る妙なる怪音を発する姿のみえぬ妖怪」として久々に再登場します。
『源氏物語』(11世紀前半成立)では、「天狗や木霊(こだま)などというものが、だましてお連れ申し上げたのではないか」。源氏は天狗を狐や木霊と同類とみなし、それらは人をたぶらかしてどこかに連れさる妖怪とされています。
 いずれにしろ西暦1000年前後の記述では、森にひそみ姿の見えない妖しい天狗の記述がありますが、姿かたちはわかりません。

 平安時代末期にやっと姿形を備えた中世天狗が登場します。『今昔物語集』(12世紀前半)において、天狗は半人半鳥の姿の鳥テングになり、スター妖怪として脚光を浴びます。
 室町期以前には鼻の高い天狗はいないのです。すべての口は鳥のクチバシ型で背には双翼があり、天空を飛翔します。平安末期から室町期までのおおよそ500年間、日本の天狗の姿は鳥であったのです。

 稲垣足穂「鼻高天狗はニセ天狗」は実に楽しい一文です。『稲垣足穂大全Ⅴ』「天狗考」現代思潮社を、現代語意訳でみてみましょう。鳥型テングが鼻高テングに変化する原因を考える一助にもなりそうです。
<いまから五、六百年前の坊様のあいだに日本天狗が誕生した。日本天狗は『保元物語』にはじめて登場するが、これは僧服鳥嘴のきわめて高貴な存在である。次に山伏姿の天狗がある。これは室町時代に入って、修験道の繁栄をきっかけにポストが与えられたので、やはりクチバシを持っていた。
 ところが江戸期になって品威を失墜することになった。祭礼行列のガイドをつとめる猿田彦のイメージがくっつけられたためで、ここに大衆好みの猥雑無類の鼻高氏ができあがったわけである。
 ところで遮那王丸(牛若丸)が源氏の大将として都入りしたとき、鞍馬山では歓迎会が催された。大僧正ケ谷には幔幕が張り巡らされ、上座にひかえた義経公の前に、一山の大天狗小天狗が横列を敷いて座った。「掘りかた始め!」の号令の下に、めいめいが右肩に担いでいた短いシャベルを取って土をうがち、敬礼!の合図にその孔へ鼻を差し入れてお辞儀をしたとか。しかしこの必要はまったくなかったのである。なぜなら、みなはまだ烏天狗であって、鼻高天狗ではなかったのだから。>

 江戸時代から天狗が鳥から鼻高人に変化するのですが、わたしは南蛮人の影響ではないかと考えています。室町時代そして織豊期、日本は海外に開かれ鼻の高い南蛮人が数多く滞在した。しかし切支丹弾圧そして鎖国によって、国内で彼らヨーロッパ人を見ることは絶えた。鼻の高い天狗は、江戸時代とともに去って行った欧州人の記憶ではなかったか? バテレンは仏法を惑わす「天狗」であったのではなかろうか?
<2014年6月5日 南浦邦仁>

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