<椋鳩十と島尾敏雄>
久保田彦穂、ペンネーム椋鳩十は明治38年(1905)、信州下伊那郡喬木村阿島に生まれた。阿島中学校そして法政大学を卒業した後、鹿児島県立病院の眼科医だった実姉の清志を頼って昭和5年(1930)に新妻とともに来鹿。種子島の中種子高等小学校の代用教員をつとめる。椋は25歳であった。
しかし赴任してすぐの夏、あまりの暑さに越中ふんどし一丁姿で授業に臨んだ。これが有名な「ふんどし授業事件」で、大騒ぎになった挙句、椋はわずか3か月で解雇された。困り抜いた椋を助けたのはまた姉の清志であった。彼女は弟のために、加治木高等女学校の国語教師の職を斡旋した。
そして敗戦の2年後に重成格知事の要請で、42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめる。「鹿児島方式」と全国の図書館人から絶賛された農村読書活動と、母と子の読書運動は、椋が主導した図書活動である。
子息の久保田喬彦(椋鳩十記念館館長)の講演記録から椋のエピソードを抜粋する。
県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるために予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年ください」と言ったという。
当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」ような文学や教養を高める読書でなく、経済的にも儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協などの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。
この読書選定委員会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子どもの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間耳を貸してくださいという運動だった。
また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島の人と共通点があった。
昭和39年から椋は「母と子の20分間読書」を開始した。椋は、経済優先の時流のなかで、子どもたちが家庭でも取り残され、愛情に飢えつつあることに気づく。そして親子だんらんの場として、毎日短時間でも時間を割き、子どもと1冊の本に向き合うことは、その絆を取り戻し、ひいては明るい家庭、社会へのバネになる、という思いに至った。椋は「教科書以外の本を子どもが20分くらい読むのを母が、かたわらにすわって、静かに聞く。たったこれだけのことである。よく人は、なんだ、ばかにしたような簡単なことではないか。と言う。ほんとに、ばかにしたような、この読書のやり方に、私どもは『母と子の20分間読書運動』と名づけて、大まじめに、しかも相当大がかりにやっているのである」
鹿児島県下で図書館の椋が中心になって展開した運動は「県内10万人を超す人々が参加する、大きな読書推進活動の広がりと充実を促すこととなった」と、児童文学者たかし・よいちは語っている。
椋は、昭和33年に奄美大島図書分館長に文学者の島尾敏雄を招いている。島尾も椋と連携し、活発な図書館運動を展開している。
原井一郎は当誌「Lapiz」2013年冬号に、奇しくも椋と島尾のことを載せている。
奄美大島龍郷町の円小学校は児童数わずか十人ほどの小さな町立校である。在校生は40年以上、読書の伝統を守っている。毎週水曜日午後6時から30分間、行政無線のスピーカーから元気な声があふれ出る。「夕読み放送」だが、数人の子どもたちが代わる代わる、いつもとは違う、かしこまった調子で30分間、本を読み上げる。「時には孫が出ますからね。テレビ消して、耳を傾けていますよ。いいですねえ。子どもたちの元気な本を読む声は。気分も明るくなります」と村のおばあちゃんたちは、放送を楽しみにしている。「親子読書会」の名で夕読み放送がはじまったのは昭和46年であった。すでに半世紀近い年輪を重ねている。島尾敏雄たちの運動からはじまった。
このように図書を通じての活発な活動、そして九州の南端から文学者としてのネットワークも彼らは展開していたと思われるのである。
さて、気づいてみると、わたしは見事に脱線してしまった。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」であった。しかし堀田善衛がクロ宗を知ったのは、鹿児島図書館の椋鳩十の協力があったからであろう。椋に関心が向くなかで、島尾敏雄が登場してしまった。
やはり脱線であるが、紙数も筆力も尽きた。堀田善衛の天皇制については、できれば次号で考えてみたいと思ったりしている。それにしても、堀田と椋と島尾、彼らのかつての熱心な活動と文筆の成果は、いまも色褪せずに燦然と輝いている。
またここで紹介した何冊かの文献は、いずれも昭和期に書かれた。すべて図書館で読むことができる。何冊かは流通もしている。しかし形あるものを、弾圧を避けるためにすべて、こころのみを残して捨ててしまったかつてのキリシタン……。それに対して書き残したものが残ることの重要性を、筆者は現代日本人としていまあらためて考えている。
参考図書
『島 水平線に棲む幻たち』 岡谷公二著 1984年 白水社
『鹿児島県史』卷3 昭和16年 鹿児島県
『ザビエルを連れてきた男』 梅北道夫著 1993年 新潮選書
「隠れキリシタンと隠れ念仏」 米村竜治著 『共同研究 日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収 1998年 日文研叢書17 国際日本文化研究センター
『隠れキリシタン』 古野清人著 1959年 日本歴史新書 至文堂
『カクレキリシタンオラショー魂の通奏低音』宮崎賢太郎著 2002年 長崎新聞
「宗教とその土俗化―『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』にみる」 鈴木昭一著 帝塚山短大日本文芸研究室 昭和50年 紀要『青須我波良』第10号所収
『「児童文学の至高」椋鳩十と「純文学の極北」島尾敏雄 作家2人が開かせた「心の花園」 斬新な戦後図書活動を展開―鹿児島・奄美 』原井一郎著 「Lapiz」2013年冬号
『堀田善衛全集』 全16巻 1974年 筑摩書房
『堀田善衛全集』第2期 全16巻 1994年 筑摩書房
<2015年10月23日完>
久保田彦穂、ペンネーム椋鳩十は明治38年(1905)、信州下伊那郡喬木村阿島に生まれた。阿島中学校そして法政大学を卒業した後、鹿児島県立病院の眼科医だった実姉の清志を頼って昭和5年(1930)に新妻とともに来鹿。種子島の中種子高等小学校の代用教員をつとめる。椋は25歳であった。
しかし赴任してすぐの夏、あまりの暑さに越中ふんどし一丁姿で授業に臨んだ。これが有名な「ふんどし授業事件」で、大騒ぎになった挙句、椋はわずか3か月で解雇された。困り抜いた椋を助けたのはまた姉の清志であった。彼女は弟のために、加治木高等女学校の国語教師の職を斡旋した。
そして敗戦の2年後に重成格知事の要請で、42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめる。「鹿児島方式」と全国の図書館人から絶賛された農村読書活動と、母と子の読書運動は、椋が主導した図書活動である。
子息の久保田喬彦(椋鳩十記念館館長)の講演記録から椋のエピソードを抜粋する。
県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるために予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年ください」と言ったという。
当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」ような文学や教養を高める読書でなく、経済的にも儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協などの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。
この読書選定委員会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子どもの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間耳を貸してくださいという運動だった。
また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島の人と共通点があった。
昭和39年から椋は「母と子の20分間読書」を開始した。椋は、経済優先の時流のなかで、子どもたちが家庭でも取り残され、愛情に飢えつつあることに気づく。そして親子だんらんの場として、毎日短時間でも時間を割き、子どもと1冊の本に向き合うことは、その絆を取り戻し、ひいては明るい家庭、社会へのバネになる、という思いに至った。椋は「教科書以外の本を子どもが20分くらい読むのを母が、かたわらにすわって、静かに聞く。たったこれだけのことである。よく人は、なんだ、ばかにしたような簡単なことではないか。と言う。ほんとに、ばかにしたような、この読書のやり方に、私どもは『母と子の20分間読書運動』と名づけて、大まじめに、しかも相当大がかりにやっているのである」
鹿児島県下で図書館の椋が中心になって展開した運動は「県内10万人を超す人々が参加する、大きな読書推進活動の広がりと充実を促すこととなった」と、児童文学者たかし・よいちは語っている。
椋は、昭和33年に奄美大島図書分館長に文学者の島尾敏雄を招いている。島尾も椋と連携し、活発な図書館運動を展開している。
原井一郎は当誌「Lapiz」2013年冬号に、奇しくも椋と島尾のことを載せている。
奄美大島龍郷町の円小学校は児童数わずか十人ほどの小さな町立校である。在校生は40年以上、読書の伝統を守っている。毎週水曜日午後6時から30分間、行政無線のスピーカーから元気な声があふれ出る。「夕読み放送」だが、数人の子どもたちが代わる代わる、いつもとは違う、かしこまった調子で30分間、本を読み上げる。「時には孫が出ますからね。テレビ消して、耳を傾けていますよ。いいですねえ。子どもたちの元気な本を読む声は。気分も明るくなります」と村のおばあちゃんたちは、放送を楽しみにしている。「親子読書会」の名で夕読み放送がはじまったのは昭和46年であった。すでに半世紀近い年輪を重ねている。島尾敏雄たちの運動からはじまった。
このように図書を通じての活発な活動、そして九州の南端から文学者としてのネットワークも彼らは展開していたと思われるのである。
さて、気づいてみると、わたしは見事に脱線してしまった。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」であった。しかし堀田善衛がクロ宗を知ったのは、鹿児島図書館の椋鳩十の協力があったからであろう。椋に関心が向くなかで、島尾敏雄が登場してしまった。
やはり脱線であるが、紙数も筆力も尽きた。堀田善衛の天皇制については、できれば次号で考えてみたいと思ったりしている。それにしても、堀田と椋と島尾、彼らのかつての熱心な活動と文筆の成果は、いまも色褪せずに燦然と輝いている。
またここで紹介した何冊かの文献は、いずれも昭和期に書かれた。すべて図書館で読むことができる。何冊かは流通もしている。しかし形あるものを、弾圧を避けるためにすべて、こころのみを残して捨ててしまったかつてのキリシタン……。それに対して書き残したものが残ることの重要性を、筆者は現代日本人としていまあらためて考えている。
参考図書
『島 水平線に棲む幻たち』 岡谷公二著 1984年 白水社
『鹿児島県史』卷3 昭和16年 鹿児島県
『ザビエルを連れてきた男』 梅北道夫著 1993年 新潮選書
「隠れキリシタンと隠れ念仏」 米村竜治著 『共同研究 日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収 1998年 日文研叢書17 国際日本文化研究センター
『隠れキリシタン』 古野清人著 1959年 日本歴史新書 至文堂
『カクレキリシタンオラショー魂の通奏低音』宮崎賢太郎著 2002年 長崎新聞
「宗教とその土俗化―『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』にみる」 鈴木昭一著 帝塚山短大日本文芸研究室 昭和50年 紀要『青須我波良』第10号所収
『「児童文学の至高」椋鳩十と「純文学の極北」島尾敏雄 作家2人が開かせた「心の花園」 斬新な戦後図書活動を展開―鹿児島・奄美 』原井一郎著 「Lapiz」2013年冬号
『堀田善衛全集』 全16巻 1974年 筑摩書房
『堀田善衛全集』第2期 全16巻 1994年 筑摩書房
<2015年10月23日完>