ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治公の末裔(3)石碑文

2025-02-17 | Weblog

近くの山麓のことは、「播州山麓」連載の第1回で紹介しました。小さな三山が連なる姫路の山塊です。西の峰が仁寿山で、南麓に姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校がありました。

そしてこの学校の建築、さらには運河開設や新田開発に、別所氏8代目が建設に当たりました。なお河合寸翁一族の墓域は少し西の山中腹にあります。

東の峰は、小高い船橋山です。その麓の南東に、別所家一族の墓と石碑があります。姫路バイパスを西方向から東インターを下りると、碑は最初の信号機のすぐ左手に見えます。立派な墓石です。

また目印は「ホテル継KEI」。継の読みは「つぎ」ですが、ホテルはあえて「ケイ」と読ませています。墓域はホテルのすぐ西隣です。一帯は車の通行量が多く、横断歩道は少ない。墓参に訪れる方は、交通事故に十分注意してください。

この墓碑文裏面には長文が彫られ、読みずらい刻字箇所もいくらかあります。いつかは全文を紹介したいと思いますが、とりあえずは簡略文を記します。正しい字をご存じの方がありましたら、コメントでお知らせくださればありがたいです。

なお原文は、□:文字不明、句読点なし、改行無し。それから運河は、近くを流れる八家川の広海(ひろみ)から山校までの計画であったが中断した。名残に堀止(ほりどめ)の地名がいまも継地区にあります。また文末の櫻花ですが、長治公は旧暦1月17日、あとひと月ほどで咲くサクラに思いをいたされていた。 

 

 

<別所家之墓> 

わが祖先は東播播十八万石、三木城主、別所小三郎長治が天正八年正月十七日に落城の際、 

今は唯恨みもあらじ諸人の命に代る我が身と思へば

時世を詠みて自刃し、菩提寺法界寺に葬られた。

家臣の杉本□兵衛が、自分の子の亀吉を主君の嫡子の身代りとして入れ替えた。

長治の嫡男の小右衛門光治、幼名寅松を偽って我が子に仕立てたのである。

そして加東郡東条□長井村に逃れて住まいした。

数年の後、長井村の南の地に移ったが、徳川治世の世に武門再興の希望は持てぬ。

布屋と号し呉服屋を営み、前住地にちなみ長井を氏とした。

曾祖父八代、惣兵衛□□は、姫路城主酒井家の家老河合隼之助寸翁公の命を受け、

仁寿山学問所の建設に当たった。また運河と阿保新田、宇佐崎□浜の新開をたまわり、

完成を賞せられ□四反余の新田をたまわった。

これを機に、継村内に移住して、農業に転じた。

そして明治維新後、一般人も苗字を名乗ることができるようになった。

われわれも別所氏に復す時を迎えた。

別所氏九代小三郎氏は学才あり、書画をよく好んで、村内子弟の養育につとめた。

彼に五児があった。長子十代小三郎氏は大阪に住む。

次子は田尻家に養子に入り、同じく大阪に。以下三子は東京に居住する。

これまで、一族各人は墓地を散立していたのをここに改葬した。

この地を長く別所一族墳墓の地と定める。

  昭和十四年四月中旬  

  櫻花の満開の節これを建つ

※追記 寅松と亀吉について。亀吉は開城の前日、病死していたという説があります。

  死して、翌日に、次の主君、寅松のためにつくす。亀吉も家臣のひとりです。

  無名でなしに、碑文の通りに名を記したのは、立派な家臣であるからと、聞きました。

  <2025年2月17日>

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