近くの山麓のことは、「播州山麓」連載の第1回で紹介しました。小さな三山が連なる姫路の山塊です。西の峰が仁寿山で、南麓に姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校がありました。
そしてこの学校の建築、さらには運河開設や新田開発に、別所氏8代目が建設に当たりました。なお河合寸翁一族の墓域は少し西の山中腹にあります。
東の峰は、小高い船橋山です。その麓の南東に、別所家一族の墓と石碑があります。姫路バイパスを西方向から東インターを下りると、碑は最初の信号機のすぐ左手に見えます。立派な墓石です。
また目印は「ホテル継KEI」。継の読みは「つぎ」ですが、ホテルはあえて「ケイ」と読ませています。墓域はホテルのすぐ西隣です。一帯は車の通行量が多く、横断歩道は少ない。墓参に訪れる方は、交通事故に十分注意してください。
この墓碑文裏面には長文が彫られ、読みずらい刻字箇所もいくらかあります。いつかは全文を紹介したいと思いますが、とりあえずは簡略文を記します。正しい字をご存じの方がありましたら、コメントでお知らせくださればありがたいです。
なお原文は、□:文字不明、句読点なし、改行無し。それから運河は、近くを流れる八家川の広海(ひろみ)から山校までの計画であったが中断した。名残に堀止(ほりどめ)の地名がいまも継地区にあります。また文末の櫻花ですが、長治公は旧暦1月17日、あとひと月ほどで咲くサクラに思いをいたされていた。
<別所家之墓>
わが祖先は東播播十八万石、三木城主、別所小三郎長治が天正八年正月十七日に落城の際、
今は唯恨みもあらじ諸人の命に代る我が身と思へば
時世を詠みて自刃し、菩提寺法界寺に葬られた。
家臣の杉本□兵衛が、自分の子の亀吉を主君の嫡子の身代りとして入れ替えた。
長治の嫡男の小右衛門光治、幼名寅松を偽って我が子に仕立てたのである。
そして加東郡東条□長井村に逃れて住まいした。
数年の後、長井村の南の地に移ったが、徳川治世の世に武門再興の希望は持てぬ。
布屋と号し呉服屋を営み、前住地にちなみ長井を氏とした。
曾祖父八代、惣兵衛□□は、姫路城主酒井家の家老河合隼之助寸翁公の命を受け、
仁寿山学問所の建設に当たった。また運河と阿保新田、宇佐崎□浜の新開をたまわり、
完成を賞せられ□四反余の新田をたまわった。
これを機に、継村内に移住して、農業に転じた。
そして明治維新後、一般人も苗字を名乗ることができるようになった。
われわれも別所氏に復す時を迎えた。
別所氏九代小三郎氏は学才あり、書画をよく好んで、村内子弟の養育につとめた。
彼に五児があった。長子十代小三郎氏は大阪に住む。
次子は田尻家に養子に入り、同じく大阪に。以下三子は東京に居住する。
これまで、一族各人は墓地を散立していたのをここに改葬した。
この地を長く別所一族墳墓の地と定める。
昭和十四年四月中旬
櫻花の満開の節これを建つ
※追記 寅松と亀吉について。亀吉は開城の前日、病死していたという説があります。
死して、翌日に、次の主君、寅松のためにつくす。亀吉も家臣のひとりです。
無名でなしに、碑文の通りに名を記したのは、立派な家臣であるからと、聞きました。
<2025年2月17日>