京都鴨川の四条河原で出雲阿国、お国が歌舞伎おどりをはじめたのは四百余年前、慶長8年(1603)の四月のこと。彼女の演劇は、それまでの日本にはない画期的なものであった。
織田信長と豊臣秀吉の治世をへて、1600年の関が原の合戦で、長かった戦乱の時代もやっと終わった。そしてひとびとが平和のありがたさをかみしめているころに突如、歌舞伎が都に、四条の河原に出現した。
お国が天才芸能人であったことは確かであろう。だがそれだけではなく、プロデューサーの狂言師三十郎の才能が非凡であった。しかし、このふたりの組み合わせだけで、新時代を画する歌舞伎が突然誕生したのではないという説がある。
丸谷才一氏が提起されたのだが、ふたりは「どこかのイエズス会の教会(カトリック)か学校にもぐりこんで、演劇を見物し、それに強烈に刺激されて、お国歌舞伎を創始したのではないか」
おおいにあり得ることである。「歌舞伎図巻」という当時の絵が残っているが、お国とおぼしき男装の女芸人の胸には、十字架の首飾りが懸かっている。
日本でキリスト教がはじまるのは天文18年(1549)、鹿児島にたどり着いたフランシスコ・ザビエルの布教からである。彼の属したカトリック組織であるイエズス会は、さまざまの文物や文化を日本にもたらした。ザビエルは九州から山口、そして京都へと旅し、熱心な宣教活動を展開する。その後、お国が四条河原で歌舞伎をはじめたころ、ザビエル来日の五十年ほど後には、彼の後継者たちの活躍によって、日本国内のカトリック教徒・キリシタンの数は数十万人にも達したという。当時の人口からみて、たいへんな数である。
西洋に対するあこがれ、既存の宗教に対する疑問や絶望、やっと訪れた平和を謳歌する開放されたこころ、それらが原因であろうか。いつの時代でも、日本人は舶来に弱いともいえる。<続く>
※拙文「キリシタンと歌舞伎」は、蛸錦四郎のペンネームで、雑誌「四条」に掲載していただきました。書き手の名は異なれど同一人物ですので、盗作ではありませんが、手抜き掲載をご容赦ください。<2008年3月23日改記>