水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

秋の風景 (第十二話) 根性

2013年09月27日 00時00分00秒 | #小説

       秋の風景       水本爽涼

    (第十二話) 根性          

 今年もまた、じいちゃんと山へキノコ採りに行く季節が近づいてきた。
「あと十日ほど先だな…」
 じいちゃんはキノコが採れる頃合いが絶妙に分かるお人だ。僕の師匠だから当然と言えば当然だが、なんといっても長年の経験からの勘によるところが大のようだ。
「じいちゃん、キノコの根ってあるの?」
 僕は普段、疑問に思っていることを、つい口にしてしまった。
「キノコの根な…。いや、それは、ない。根に見えるが、あれは菌糸の塊(かたまり)だ。正也も習ったろうが…」
 あっ! そういや…と、僕は学校の授業を思い出した。すでに習っていたものを忘れていたのだ。頭はよいみたいだが、僕もその程度の粗忽者なのである。
 根といえば、じいちゃんの根性はすさまじいもので、大よそ、この世のことは、すべて自分でなんとか出来ると確信をお持ちの大人物なのである。そこへいくと、父さんは、じいちゃんの子であることが嘘のように持続力がなく、まるで根性というものがない。駄目だと分かると、すぐ根を上げて撤収するか弱い小人物なのだ。しかし、そうも言ってられないのは、その小人物から僕が生産されたらしい…ということである。確率の高い嘆かわしい事実で、すぐにも消し去りたいが、そうはいかないのが人の世である。とりあえず、母さん似ということで得心することにした。で、その母さんは、じいちゃんといい勝負の根性の持ち主で、日々、根を上げずに家事や愛奈(まな)の育児に明け暮れておられる奇特なお人なのだ。じいちゃんは威厳めいた照かる丸禿(まるは)げ頭だから思わず合掌したくなるのに比べ、母さんの場合は、その有難さに手を合わせたくなる訳だ。父さんの場合は…程度で、意に介さない。空気のような存在とまでは言わないが、僕の家では、それに近いものがある。さて僕だが、丘本先生にも褒(ほ)められたのだが、何事も最後までやる子だそうだ。僕もそう思えるが、途中で棒を折るのが嫌いな性分だからだろう。決して根性がある、などと大仰には言えないが、じいちゃんの万分の一ほどはある、と謙遜しておこう。愛奈は泣き通す根性をお持ちだ。このお方には誰も勝てない。タマとポチに根性は関係ない。彼等は根性などどこ吹く風で、日々のんびりと暮しておられる。


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