春の風景 水本爽涼
(第十八話) 自然体
結局、美味いものを食べたい、綺麗になりたい、いいものを着たい、有名になりたい…など、おおよそ人が考えるのは欲だ。そこんとこが人の感性によって違ってくる。近くの賞金寺の老僧に言わせれば、欲のない人間は生きる意味がないそうだ。妹の愛奈(まな)は、そんなことにはまったく関係なく、母さんの乳をたらふく吸って、やがて時が至れば好きなだけ垂れるのみで、自然体で生きている。僕もかつてはその自然体だったのだが、今ではすっかり醜い世俗にまみれ、生きながらえている訳だ。汚くても、まみれなければ、人の世は暮らせないのだから仕方がない。しかし妙なもので、その苦が楽にもなるのだから、この世は律しがたい。
「長いこと家族旅行、してないな…」
父さんが新聞に目を通しながら、ボツンと母さんに言った。
「行ったじゃない、年末の海外…」
「ああ、アレか。アレは二人だったじゃないか」
年末にじいちゃんのクイズ応募で当たった海外旅行の一件を言ってるんだな・・と僕はピン! ときた。これに関しては、冬の特別編で語ったとおりだ。目を通されておられない方は、特別編[禍福は糾(あざな)える縄]をお読み戴きたいと思う。
「愛奈の手が離れるようになれば、また行きましょ」
「いつのことやら…」
父さんのため息が聞こえた。父さんもかなり世俗にまみれておられるな…と、思えた。子供部屋の窓を閉めておけばいいのだが、爽やかな風が肌をくすぐって気分いいから開けておいたのがいけなかった。父さんと母さんの会話など聞きたくもないが、風に流れて入ってくるものは仕方がない。窓は閉めず、聞こえるに任せておいた。その声に、じいちゃんの竹刀を振る声が混ざってきた。
夕方、家族の食事が済んだ頃、じいちゃんが、はにかんだ笑顔で袋を母さんに渡した。
「今日、偶然、手頃なのがありましてな…」
「まあ! べビーカーの引換券!」
「明日、届けますと言っとりました」
「有難うございます。正也のときのはもう古くて使えないと思ってましたから…」
さすがは我が剣の師匠だけのことはある…と僕は素直に思った。師匠のような光り輝く頭の自然体だと、必要、不必要なものがよく見えるようだ。
このべビーカーは以前、掲載した特別編[どうでもいい]に登場した折り畳み式の乳母車である。時が前後した点は御免蒙る。